ぼくがこのブログに書きたいことのひとつは、自分が見た映画の“感想”である。
ぼくは、映画館で映画をほとんど見ていないし、レンタルを利用することもないが、ケーブルテレビ・チャンネルで映画をしょっちゅう見ている。
(昨年映画館で見た映画は「ダーク・ナイト」と「スカイ・クロラ」だけである)
もちろん、圧倒的につまらない映画が多いのだが、たまに、びっくりすることがある。
また昔、映画館で見た映画、テレビで見た映画をまた見て、ちがった感想を抱くことがある。
たまにだが、昔自分でDVD録画した映画、DVDで購入した映画を見直すこともある。
けれどもこの“感想”を書くことは(ぼくには)とてもむずかしい。
なかなか書けないのだ。
昨夜もレオス・カラックスの「ポーラX」を見たが、感想を書くのがむずかしい。
映画を言語化することは困難である、ぼくはそれに成功した例をあまり知らない、よく目にする映画評は、ただその“筋”を述べているだけである。<注>
Doblogトラブル中、gooへの移行を決断できない時期に見た映画「ファーゴ」についての感想がのこっている。
ぼくはこのブログ原稿を、竹田青嗣氏の新刊『人間の未来-ヘーゲル哲学と現代資本主義』との“対比”において書いたのだが、あまりうまく書けなかった。
つまりこの“対比”の根拠についてだ。
それは、もちろん、この竹田氏の本を読んでいた時に、“たまたま”「ファーゴ」という映画を見たからにすぎなかった。
しかし、ぼくがこの“対比”の文章を書いたのは、“人間の未来”という言葉に反応したからでもあった。
ぼくは、竹田氏の本よりも、「ファーゴ」の方が、“人間の未来”について考えるには適切であることを“立証”しようとした。
この“立証”には失敗したが、「ファーゴ」の感想部分については愛着があるので、ここに出すことにした。
A;人間の未来-1
まず、Wikipediaの「ファーゴ」概要を添付する;
『ファーゴ』(Fargo)は1996年製作のアメリカ映画である。ノースダコタ州の都市ファーゴとその周辺を舞台に、誘拐殺人事件をめぐる人間模様を描いたブラックコメディ風サスペンス作品。誘拐はコーエン兄弟が好んで描くモチーフである。
アカデミー主演女優賞(フランシス・マクドーマンド)・脚本賞、またカンヌ国際映画祭監督賞を受賞している。
(以上引用)
まったく映画の“筋”を説明するほどやっかいなことはない(笑)
全員に強制的にこの映画を(この映画だけでなく)見せたいと思うよ。
だから“筋”は言わないで、この映画の“本質”だけを問題にしたい。
誘拐事件が起こる。
核心は二つの“世界観”の対立である;
A:犯人たち=カネ、カネを得るための様々な工夫(騙し)、その実行に伴う予想外の展開、暴力と殺人、欲求を果たすためのみのセックスetc.
B:この事件の犯人を逮捕する女性警官=“こんなに美しい日なのに、なぜあなたたち(犯人たち)は、わずかなおカネのために人を殺すのかしら”
ぼくは、この両端の“世界観”のどちらも支持しない。
そしてこの映画は、その両端の世界観“のみ”を描いていない。
その“細部”において、その“両端の世界観からはみ出すもの”を描いている。
(2/26記)
B;人間の未来―その2;間奏
ぼくたちの<言葉>は<暴力>に包囲されている。
ぼくたちの<言葉>は、常に、暴力のなかから発せられている。
もちろん、<言葉>について考える必要がある(言葉とは何か?)
もちろん、<暴力>について考える必要がある(暴力とは何か?)
アイロニーは、“言葉の暴力”という事態としてもある。
映画「ファーゴ」は、この暴力の日常を描いている。
たとえば、ある主婦の家事の合間の“リラックス・タイム”。
彼女は、漫然と“テレビ”を見て、意味もなく微笑んでいる。
ちょっと外を見ると、覆面をした男が、窓をぶち壊そうとしている。
彼女は、この暴力にとっさに対応できない。
そんな暴力が、自分に“リアルに”ふりかかるとは、思っていなかったからである。
つまりどんなにテレビや映画で暴力シーンを見ていても、それが自分を襲う可能性を空想することはあっても、そんなことは自分には起こりえないと、どこかで“信憑”している。
自分に暴力がふりかかったと“認識”した後でも、彼女の行動は徹底的に“ナンセンス”(喜劇的)である。
彼女は誘拐され、結局殺されるのだから、彼女自身にとってだけでなく、それを見るわれわれにとっても、この光景はまったく“喜劇的”ではないのである。
しかし(たとえば)誘拐されて、誘拐犯たちのアジトに拉致されて車から降ろされた時、頭に頭巾をかぶせられた彼女が、逃げようとヨタヨタ駆け回るシーンで、われわれ観客は“犯人と共に”笑をこらえることができない。
ぼくは、ここでの“笑う”観客が不謹慎だなどということを言っているのではない。
暴力もまた、“笑える”ことであるという事実を述べている。
なにが、“人間的”であり、なにが“非人間的”であるのか。
ぼくたちは、いかにして“あらゆる暴力”を批判-抵抗するのか。
そういう“問い”には、スマートな解答などない。
しかし、“スマートな解答などない”という認識を持つか否かは、やはり決定的にちがっていると思える。
(2/26記)
C;人間の未来-3
最初に考えた竹田青嗣の『人間の未来-ヘーゲルと現代資本主義』のレジュメを書く気力が薄れた。
ここで、“結論”を言ってしまえば、現在“未来構想”を言っている人々の“未来”というのが、ぼくには納得できない。
未来構想をいう人々は、現在までの“理論”(哲学的な社科学的な)にもとづいた“現状分析”により、その構想を語る。
しかし、ぼくの読んだ範囲では、“過去の理論”に対する理解はそれなりの水準ではあるのだが、それを“応用した”現状分析になると、いきなりpoorになる。
現状分析がpoorなら、未来構想もpoorになる。
つまり、彼らには“現状”が見えていないのだ。
たとえば、“資本主義”を批判しつつ擁護する竹田青嗣に見えていないのは、この現在の“資本主義化した人間”の実存そのものである。
“大学”にいる人々には、“見えない”のであろうか。
たぶん、“大学の外”では、暴力は“彼等の想像力”よりリアルである。
また、“学の内部”のはなしならば、竹田青嗣は“ヘーゲルより”(いつまでたっても)poorである。
あるいは、加藤典洋は“村上春樹より”(村上春樹に問題があるにしてもだ;笑)いつまでたってもpoorである。
たしかに、“現在の多数”が竹田氏のような(竹田氏を“最高水準”にするような;笑)“小市民”でしかなくとも、<未来>はその延長上に構想されるだけのものであろうか。
“批評”というものがpoorなのではない。
映画や哲学や文学を批評できない現在の“批判の言葉”がpoorなのだ。
(2/27記)
<注>
“映画を言語化することの困難性”ということは、それが“映像(イメージ)と音である”という、あたりまえのことなのだ。
映画は、“筋”でも“テーマ”でも“スターたちのもの”でもない。
けれども、どんな映画にも、“筋やテーマ”が“ない”わけではないし、スターの魅惑がないわけでもない。
それはスクリーン上の光と影のゆらめきである(ゆらめきでしかない)
映画が、“無声”からはじまり、“音”を獲得した歴史についても考える必要があるだろう。
ぼくには無声映画体験はないが、現在のハリウッド的映画における“音への無神経さ”は耐えがたい。
それは、効果音やテーマ音楽の次元にあるばかりではなく、登場人物の会話や声自体にある。
あるいは“街の(生活の)喧騒”の表出自体にある。
光があるから影があり、静寂があるから音が愛しいのである。
ぼくは、映画館で映画をほとんど見ていないし、レンタルを利用することもないが、ケーブルテレビ・チャンネルで映画をしょっちゅう見ている。
(昨年映画館で見た映画は「ダーク・ナイト」と「スカイ・クロラ」だけである)
もちろん、圧倒的につまらない映画が多いのだが、たまに、びっくりすることがある。
また昔、映画館で見た映画、テレビで見た映画をまた見て、ちがった感想を抱くことがある。
たまにだが、昔自分でDVD録画した映画、DVDで購入した映画を見直すこともある。
けれどもこの“感想”を書くことは(ぼくには)とてもむずかしい。
なかなか書けないのだ。
昨夜もレオス・カラックスの「ポーラX」を見たが、感想を書くのがむずかしい。
映画を言語化することは困難である、ぼくはそれに成功した例をあまり知らない、よく目にする映画評は、ただその“筋”を述べているだけである。<注>
Doblogトラブル中、gooへの移行を決断できない時期に見た映画「ファーゴ」についての感想がのこっている。
ぼくはこのブログ原稿を、竹田青嗣氏の新刊『人間の未来-ヘーゲル哲学と現代資本主義』との“対比”において書いたのだが、あまりうまく書けなかった。
つまりこの“対比”の根拠についてだ。
それは、もちろん、この竹田氏の本を読んでいた時に、“たまたま”「ファーゴ」という映画を見たからにすぎなかった。
しかし、ぼくがこの“対比”の文章を書いたのは、“人間の未来”という言葉に反応したからでもあった。
ぼくは、竹田氏の本よりも、「ファーゴ」の方が、“人間の未来”について考えるには適切であることを“立証”しようとした。
この“立証”には失敗したが、「ファーゴ」の感想部分については愛着があるので、ここに出すことにした。
A;人間の未来-1
まず、Wikipediaの「ファーゴ」概要を添付する;
『ファーゴ』(Fargo)は1996年製作のアメリカ映画である。ノースダコタ州の都市ファーゴとその周辺を舞台に、誘拐殺人事件をめぐる人間模様を描いたブラックコメディ風サスペンス作品。誘拐はコーエン兄弟が好んで描くモチーフである。
アカデミー主演女優賞(フランシス・マクドーマンド)・脚本賞、またカンヌ国際映画祭監督賞を受賞している。
(以上引用)
まったく映画の“筋”を説明するほどやっかいなことはない(笑)
全員に強制的にこの映画を(この映画だけでなく)見せたいと思うよ。
だから“筋”は言わないで、この映画の“本質”だけを問題にしたい。
誘拐事件が起こる。
核心は二つの“世界観”の対立である;
A:犯人たち=カネ、カネを得るための様々な工夫(騙し)、その実行に伴う予想外の展開、暴力と殺人、欲求を果たすためのみのセックスetc.
B:この事件の犯人を逮捕する女性警官=“こんなに美しい日なのに、なぜあなたたち(犯人たち)は、わずかなおカネのために人を殺すのかしら”
ぼくは、この両端の“世界観”のどちらも支持しない。
そしてこの映画は、その両端の世界観“のみ”を描いていない。
その“細部”において、その“両端の世界観からはみ出すもの”を描いている。
(2/26記)
B;人間の未来―その2;間奏
ぼくたちの<言葉>は<暴力>に包囲されている。
ぼくたちの<言葉>は、常に、暴力のなかから発せられている。
もちろん、<言葉>について考える必要がある(言葉とは何か?)
もちろん、<暴力>について考える必要がある(暴力とは何か?)
アイロニーは、“言葉の暴力”という事態としてもある。
映画「ファーゴ」は、この暴力の日常を描いている。
たとえば、ある主婦の家事の合間の“リラックス・タイム”。
彼女は、漫然と“テレビ”を見て、意味もなく微笑んでいる。
ちょっと外を見ると、覆面をした男が、窓をぶち壊そうとしている。
彼女は、この暴力にとっさに対応できない。
そんな暴力が、自分に“リアルに”ふりかかるとは、思っていなかったからである。
つまりどんなにテレビや映画で暴力シーンを見ていても、それが自分を襲う可能性を空想することはあっても、そんなことは自分には起こりえないと、どこかで“信憑”している。
自分に暴力がふりかかったと“認識”した後でも、彼女の行動は徹底的に“ナンセンス”(喜劇的)である。
彼女は誘拐され、結局殺されるのだから、彼女自身にとってだけでなく、それを見るわれわれにとっても、この光景はまったく“喜劇的”ではないのである。
しかし(たとえば)誘拐されて、誘拐犯たちのアジトに拉致されて車から降ろされた時、頭に頭巾をかぶせられた彼女が、逃げようとヨタヨタ駆け回るシーンで、われわれ観客は“犯人と共に”笑をこらえることができない。
ぼくは、ここでの“笑う”観客が不謹慎だなどということを言っているのではない。
暴力もまた、“笑える”ことであるという事実を述べている。
なにが、“人間的”であり、なにが“非人間的”であるのか。
ぼくたちは、いかにして“あらゆる暴力”を批判-抵抗するのか。
そういう“問い”には、スマートな解答などない。
しかし、“スマートな解答などない”という認識を持つか否かは、やはり決定的にちがっていると思える。
(2/26記)
C;人間の未来-3
最初に考えた竹田青嗣の『人間の未来-ヘーゲルと現代資本主義』のレジュメを書く気力が薄れた。
ここで、“結論”を言ってしまえば、現在“未来構想”を言っている人々の“未来”というのが、ぼくには納得できない。
未来構想をいう人々は、現在までの“理論”(哲学的な社科学的な)にもとづいた“現状分析”により、その構想を語る。
しかし、ぼくの読んだ範囲では、“過去の理論”に対する理解はそれなりの水準ではあるのだが、それを“応用した”現状分析になると、いきなりpoorになる。
現状分析がpoorなら、未来構想もpoorになる。
つまり、彼らには“現状”が見えていないのだ。
たとえば、“資本主義”を批判しつつ擁護する竹田青嗣に見えていないのは、この現在の“資本主義化した人間”の実存そのものである。
“大学”にいる人々には、“見えない”のであろうか。
たぶん、“大学の外”では、暴力は“彼等の想像力”よりリアルである。
また、“学の内部”のはなしならば、竹田青嗣は“ヘーゲルより”(いつまでたっても)poorである。
あるいは、加藤典洋は“村上春樹より”(村上春樹に問題があるにしてもだ;笑)いつまでたってもpoorである。
たしかに、“現在の多数”が竹田氏のような(竹田氏を“最高水準”にするような;笑)“小市民”でしかなくとも、<未来>はその延長上に構想されるだけのものであろうか。
“批評”というものがpoorなのではない。
映画や哲学や文学を批評できない現在の“批判の言葉”がpoorなのだ。
(2/27記)
<注>
“映画を言語化することの困難性”ということは、それが“映像(イメージ)と音である”という、あたりまえのことなのだ。
映画は、“筋”でも“テーマ”でも“スターたちのもの”でもない。
けれども、どんな映画にも、“筋やテーマ”が“ない”わけではないし、スターの魅惑がないわけでもない。
それはスクリーン上の光と影のゆらめきである(ゆらめきでしかない)
映画が、“無声”からはじまり、“音”を獲得した歴史についても考える必要があるだろう。
ぼくには無声映画体験はないが、現在のハリウッド的映画における“音への無神経さ”は耐えがたい。
それは、効果音やテーマ音楽の次元にあるばかりではなく、登場人物の会話や声自体にある。
あるいは“街の(生活の)喧騒”の表出自体にある。
光があるから影があり、静寂があるから音が愛しいのである。
映画と音についてですが、最近いいなという映画は音があったことに気づかない映画か、静寂があったことに気づかない映画が多いです。あれ?つまり夢中で見ていたということか? 映画音楽でいうと売れっ子の久石譲の音楽は、大の苦手です。
ここをリンクさせていただきますね。
”夢中で見ていた”というのは、いいことなんです(笑)
ぼくとヒメは、趣味がちがっても(笑)映画や音楽やある種の本に、夢中になれるひとなんだよ。
あなたのNEWブログ見たが、Doblogの記事にさかのぼってアップしている”労力”におどろいたよ。
”マイフォト”で旅行写真が一覧できるのもすごいね。
ぼくもヒメNEWブログをリンクさせてもらいます。
しかし、warmgunさんのように、そのとき感じたことを書いていくのが理想です。ファーゴはいいですね!
まさに、ぼくはヒメのブログに”それ”を感じてきた。
<犯罪>というものに対する興味は、それと関係があるだろうか。
衝動的な犯罪者と計画的な犯罪者というものがあるらしい。
あるいは、日々労力を重ねるものが、ある日衝動的になるとか。
一方、犯罪者を追うものは、地味な労力や”推理力”を行使するのかもしれない。
ぼくは、ミステリを最近読まないが、ケーブルテレビの”ミステリ・チャンネル”の海外ドラマはかなり見ている。
それで一番わかるのは、アメリカドラマとイギリスドラマの決定的差異である。
この同じ英語を話す人々が、”ちがう”のだ。
特にもう終わったが「心理探偵フィッツ」は傑作だった。
この主人公は、心理学的に辛辣であり、本人が”自己破綻的”である。
フィッツが密接に協力する警察スタッフが同僚をレイプして自殺したりする。
本のミステリでは、珍しくはないだろうが、これを”茶の間のテレビ”で見ることは別種の体験である。
つまり、”勇気ある”体験である。
ぼくが今のテレビを嫌悪しているのは、テレビには素晴らしい力があることを知っているからだ。
テレビこそ”日常”を変えうる。
現在の凡庸さは(ちがった意見を言う者たちの)は、結局<テレビ>の支配下にある。
もちろん、本来、映画はテレビではなかったのに、現在の映画の大部分がテレビである。
「ファーゴ」のような映画は、テレビ的感受性で育ったひとが、反テレビ的な表現をもたらしていると思う。