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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『暴走する世界』 アンソニー・ギデンズ(著)

2007年08月11日 | Book
社会学者アンソニー・ギデンズの『暴走する世界』(“Runaway World”)は、本国では1999年に出され、邦訳は2001年に出されました。かなり前です。

その内容は、『モダニティと自己アイデンティティ』『親密性の変容』『第三の道』『右派左派を超えて』などでなされているギデンズの年来の主張を短いパンフレットにまとめたもの、という感じです。この本は、彼の主張をより人口に膾炙させることが目的だったのでしょう。

読んでいて「あ、そうか」と思わされたのは、歴史とは必然的に共同性を帯びた物語だということ。人によっては当たり前すぎる命題だけど、なんだか初めて腑に落ちた気がする。

自分が生まれる前から現在までのストーリを作るとき、それが国家の歴史であろうと民衆の歴史であろうと、その歴史の主役は共同体あるいはそれを代表する人であらざるをえない。自分が生まれる前からの歴史とは、すなわち自分が絶対にその確実性を信頼できない事柄だけれども、そういうことを語るということが、必然的に、自分と他者との結びつき、自分と他者との同一性を想定したものだということです。

「伝統を重視する社会では、人々が共有する信念と感情を通じて、過去が現在を設計する」(p.98)

言い換えれば、伝統(歴史)とは、人が他人と共有していると信じている信念と感情によって組み立てられるということです。

「伝統の崩壊」とは、人が他人と共有できる信念・感情が喪失することです。あるいは、これまで共有してきた信念・感情を信じることができなくなったとき、伝統(歴史)は崩壊します。

中・高で学ぶ歴史は、そのような他者と共有できる信念・感情が喪失したがゆえに、あれだけ無味乾燥な事実の暗記に終始しているのだろうか?それとも、一見無味乾燥に見える年号等の知識も、それを大量に頭に入れることで、一つのストーリーとして受験生に共感されているのだろうか?

ただ、いずれにしても、国から信念・感情を注入されたいと思う人は、どんどん減っているでしょう。

「美しい国」を作るとはどういうことだろうか?これまでの歴史(共有された信念・感情)をもう一度思い出すということなのだろうか?それとも、新しい歴史(共有される信念・感情)を作るということなのだろうか?

もし、新しい歴史を作るとしたら、それは「国家」という存在は自明でもなく、人々の生き方も、働き方も、結婚も、恋愛も、すべてはその時々によって変化しているという事実を受け入れることだろう。

今という時代にあった歴史を構築するとすれば、過去の歴史の中に、時代の動きが急速に変化し、人々が自明と思っていたものが崩れていった事例を探し、その中で人々がどう生き抜いたかを示すことだろう。

それによって私たちは、歴史に生きた人々と自分との共通性を感じ、つまり他者とのつながりを感じることができるだろう。