五味太郎さんの『さらに おとなは・が・のはもんだい』を読みました。
「学校がつまらないから行かないというのは、このラーメンはまずいから食べないというのと同じです。つまらないから行かないのも、おもしろいから行くのも、等しくノーマルな現象です。
問題はその中間に〈おもしろくないのに学校に行っている子〉、つまり、まずいラーメンなのに食べている子がいるということです。そういう子どもたちは今、自分がラーメンを食べているのか雑巾がけをしているのかすら、よくわからなくなっているわけです」
学校制度の大きな問題の一つですね、自分がまずいラーメンを食べていることに気づいていない人間を大量生産していることは。
学校って、どうしてあんなに息苦しく、つまらない場所なんでしょう。
学校に行かない自由というものがあればいいですね。
学校に行かなくても、友達と遊ぶことができて、勉強もできて、スポーツもできる。
そういう環境がある国は、「美しい国」じゃないかもしれないけど、いい感じの国なんじゃないでしょうか。
学校に行かされていると、「体育」や「勉強」のできる子が優秀な子で、そうじゃない子はダメだという先入観をもってしまいます。
「体育」ができなくても、自分の好きな競技なら楽しく体を動かせるという子は、きっと多いですよ。「運動場」という不自然にきれいな土の上で50メートルをただ走らされるなんていうつまらないことを、無理にやらせないで欲しい。
どのような教科にせよ、点数で順番づけするということは、一割ぐらいの人間だけに「いい気分」を味あわせて、その他の人間をその教科を嫌いにしてしまうことです。
ある程度は点数でモチベイションを子供にもたせることも必要なんでしょうか?
まぁ、そういう側面もあるかもしれません。
だからこそ、それでもどうしても学校は嫌だという子に学校に行かないという選択肢
を確保することは、「活力ある国づくり」には必要なことです。活力というのは、多様性を認めることから始まるのですから。
「子供のころ、ハンカチ・ちり紙を忘れて、先生に怒られたとか、通信簿に〈忘れ物が多い〉と書かれたという人、けっこう多いと思います。あの、わすれたことを〈叱る〉というのはなぜなのか、ぼくにはいまだによくわかりません」
忘れ物をして困るのは、本人のはずです。忘れ物をすると授業はちゃんと受けられないですから、その子どもは困ります。宿題を忘れて困るのも、勉強をしなかった子です。
困る上に叱られるなんて、踏んだり蹴ったりです。
でも、先生が忘れ物をする子を叱るというのは、実際のところは、教室の秩序を乱しているように思えて腹立たしいからなんですよね。
全体授業というものの目的は、子供を勉強のできる子にすることではないんでしょうね。全体授業の目的とは、集団の秩序を子供に教え込むことにあります。
単に子供を勉強のできる子にするのであれば、補助金を出して、一人ひとりに家庭教師をつけるほうがよいです。でも、そんなお金はないので、全体授業にします。
しかし、全体授業にすると、勉強を教えるという目的から外れて、秩序・規範を子供に植えつけて、規則で縛るということが第一の目的になります。規則でしばらなければ、全体授業は維持できません。
そう考えると、学級崩壊(今でもあるのか?)というものも、必然的に起きたと言うことができます。子供が無理やり規則で行動を縛り付けられることを拒否するのは、自然なことです。
今という時代に学校の先生という職業が大変なのも、当たり前といえば当たり前のことです。子供はほんらい自由を求めるのに、それを少数の先生が統率しようとするのですから。
個々の先生の指導力という問題を超えています。学校制度というものが軍隊制度に由来し、集団を規律させるという特徴を持つ以上、それを拒否する子供が増えて当然です。
それでも、高度成長期までなら、学校という制度にしたがっていれば、自動的に安逸な生活を得ることができるという信仰が社会全体に行き渡っていました。たから学校に大人しく通う子供も多かったのでしょう。
しかしそのような信仰をもはやもてないと大人が知り、そういう大人を子どもが見て育っている以上、子供が学校という制度を信頼しないのも当然です。
そういう子どもたちを統率できるような人は稀だし、それができないからと言って教師を責めるなんてことはできません。
とにかく、いろいろな成長のルートを子供が発見できる、そういう国になればいいですね。
「学校がつまらないから行かないというのは、このラーメンはまずいから食べないというのと同じです。つまらないから行かないのも、おもしろいから行くのも、等しくノーマルな現象です。
問題はその中間に〈おもしろくないのに学校に行っている子〉、つまり、まずいラーメンなのに食べている子がいるということです。そういう子どもたちは今、自分がラーメンを食べているのか雑巾がけをしているのかすら、よくわからなくなっているわけです」
学校制度の大きな問題の一つですね、自分がまずいラーメンを食べていることに気づいていない人間を大量生産していることは。
学校って、どうしてあんなに息苦しく、つまらない場所なんでしょう。
学校に行かない自由というものがあればいいですね。
学校に行かなくても、友達と遊ぶことができて、勉強もできて、スポーツもできる。
そういう環境がある国は、「美しい国」じゃないかもしれないけど、いい感じの国なんじゃないでしょうか。
学校に行かされていると、「体育」や「勉強」のできる子が優秀な子で、そうじゃない子はダメだという先入観をもってしまいます。
「体育」ができなくても、自分の好きな競技なら楽しく体を動かせるという子は、きっと多いですよ。「運動場」という不自然にきれいな土の上で50メートルをただ走らされるなんていうつまらないことを、無理にやらせないで欲しい。
どのような教科にせよ、点数で順番づけするということは、一割ぐらいの人間だけに「いい気分」を味あわせて、その他の人間をその教科を嫌いにしてしまうことです。
ある程度は点数でモチベイションを子供にもたせることも必要なんでしょうか?
まぁ、そういう側面もあるかもしれません。
だからこそ、それでもどうしても学校は嫌だという子に学校に行かないという選択肢
を確保することは、「活力ある国づくり」には必要なことです。活力というのは、多様性を認めることから始まるのですから。
「子供のころ、ハンカチ・ちり紙を忘れて、先生に怒られたとか、通信簿に〈忘れ物が多い〉と書かれたという人、けっこう多いと思います。あの、わすれたことを〈叱る〉というのはなぜなのか、ぼくにはいまだによくわかりません」
忘れ物をして困るのは、本人のはずです。忘れ物をすると授業はちゃんと受けられないですから、その子どもは困ります。宿題を忘れて困るのも、勉強をしなかった子です。
困る上に叱られるなんて、踏んだり蹴ったりです。
でも、先生が忘れ物をする子を叱るというのは、実際のところは、教室の秩序を乱しているように思えて腹立たしいからなんですよね。
全体授業というものの目的は、子供を勉強のできる子にすることではないんでしょうね。全体授業の目的とは、集団の秩序を子供に教え込むことにあります。
単に子供を勉強のできる子にするのであれば、補助金を出して、一人ひとりに家庭教師をつけるほうがよいです。でも、そんなお金はないので、全体授業にします。
しかし、全体授業にすると、勉強を教えるという目的から外れて、秩序・規範を子供に植えつけて、規則で縛るということが第一の目的になります。規則でしばらなければ、全体授業は維持できません。
そう考えると、学級崩壊(今でもあるのか?)というものも、必然的に起きたと言うことができます。子供が無理やり規則で行動を縛り付けられることを拒否するのは、自然なことです。
今という時代に学校の先生という職業が大変なのも、当たり前といえば当たり前のことです。子供はほんらい自由を求めるのに、それを少数の先生が統率しようとするのですから。
個々の先生の指導力という問題を超えています。学校制度というものが軍隊制度に由来し、集団を規律させるという特徴を持つ以上、それを拒否する子供が増えて当然です。
それでも、高度成長期までなら、学校という制度にしたがっていれば、自動的に安逸な生活を得ることができるという信仰が社会全体に行き渡っていました。たから学校に大人しく通う子供も多かったのでしょう。
しかしそのような信仰をもはやもてないと大人が知り、そういう大人を子どもが見て育っている以上、子供が学校という制度を信頼しないのも当然です。
そういう子どもたちを統率できるような人は稀だし、それができないからと言って教師を責めるなんてことはできません。
とにかく、いろいろな成長のルートを子供が発見できる、そういう国になればいいですね。
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