joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

「頭が…」

2007年08月29日 | 日記
百歩譲って、勉強を学ばせるために子供はみな学校に行かせなければならない、と考えたとします。

でもね、小学校から高校に至るまで、文部省が決めた今の日本の学校のカリキュラムって、もう少しなんとかならないのか?と思ってしまいます。

あらゆる分野にわたって網羅的に知識を詰め込んでおくべきという考えが、このカリキュラムにはあります。

それは、一種恐怖に根ざした動機によって作られたカリキュラムかもしれません。満遍なくいろんなことを教えておかないと、あとで教育者が責任を問われるかもしれない、という恐怖。

たとえば日本語の文法。今の日本語の文法教育を学んでも、それで日本語が上手くなる人なんていないと思う。様々な品詞の機能を分類して、それぞれの特徴を教え込もうとしても、それを完璧に覚えることができる子なんて、全体の一割もいないんじゃないだろうか。

その一割の子にしても、それが自分の使う日本語に役に立つなんて子はいないでしょう。

歴史にしても、あんな瑣末な知識ばかり覚えさせてどうするんだ?知識が歴史を見る上で前提になるのは分かるが、無味乾燥な事実の羅列を覚えさせても、それで歴史に興味が湧く子なんていないと思う。

そういう知識を暗記する能力がつまらないと言っているんじゃない。そういう問題を前にして、ゲーム感覚で覚えていけることは、その子の情報処理能力の高さを示している。

でもね。世の中には、「なんでそんなことを学ぶのか?」という動機の部分で自分の中で腑に落ちないと動けない人もいるのです。というより、そういう人が多いのです。

しかし学校教育では、「なんでそんなことを学ぶのか?」ということを考えずにとりあえず目の前に出された問題に取り組める子が「頭のいい子」とされ、「なんでそんなことを学ぶのか?」が分からないために学ぶ意欲の湧かない子は「頭の悪い子」と思われるようになっています。

多くの子供は、そのような基準で「頭が悪い」ために、大人から叱られます。べつに他人に危害を加えているわけでもないのに、あたかも悪いことをしたかのように思い込まされます。


もちろん、こう言ったからといって、じゃあ子供に何も教えずに自由放任すればいいのかというと、それでいいと言う勇気はありません。自分が為政者の立場に立てば、多かれ少なかれ、今の学校教育と同じような制度をデザインするのではないでしょうか。

だから、具体的に何を変えればいいかと問われると答えられませんが、せめて大人一人ひとりが、他人を「頭がいい」「頭が悪い」と判断する際の自分の基準を見なすことができれば、と願います。

映画 『コープスブライド』

2007年08月29日 | 映画・ドラマ
ティム・バートン監督が2005年に製作したアニメ映画『コープスブライド』(原題“Korpse Bride”)を観ました。

結婚を控えたある男性ヴィクターが、夜の森で結婚式に言う誓いの言葉を練習していると、間違って「死体の花嫁」コープス・ブライドにプロポーズしてしまいます。自分が求婚されたと勘違いしたコープス・ブライドのエミリーは、ヴィクターを決して放そうせず、死人の国にヴィクターを引き込もうとします。果たしてヴィクターは許嫁のヴィクトリアの元へ帰ることができるのか…?

この映画もアニメーションですが、登場人物たちの表情がとても豊かで、実写と同じ、あるいはそれ以上に登場人物たちの感情が痛いほど伝わってきます。

このアニメはストップモーションアニメと言って、人形を1コマ1コマ動かして絵を完成させるという、恐ろしく根気のいる作業を通じて作られています。それでももちろん絵の動きは通常のアニメに比べてぎこちない。しかし、にもかかわらず人物描写は秀逸。このことから、アニメにおける感情表現の上手さというのは、CGの進歩とは関係ないんだなと気づかされます。

途中で挿入される歌もいい。コープスブライドが後半で自分の心痛を綴った歌詞は、観る者の心を打ちます。

とてもおもしろい映画で、わたしは3回も観てしまいました。


ティム・バートンのコープスブライド 特別版

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