『コフートの心理療法―自己心理学的精神分析の理論と技法』という本を読みました。著者は中西信男さんという方で、1991年に出されています。
この本を読もうと思ったのは、20世紀を代表する精神分析家ハインツ・コフートの翻訳『自己の分析』を読もうとして、しかしまったく読めなかったから。文字を追っても全然頭に入ってこなかったのです。それでもコフートの考えは知りたいと思ったので、上記の本を手にとってみました。
この本は、コフートの考えがとてもわかりやすくまとめられていて、かなり読みやすかったです。この本を読んだあとなら、コフートの書いたものを読んでも頭に入るかな。
「鏡映」「自己対象」「断片化」といった専門用語の使い方が一見してハッキリしないので、解説書を読んでもコフートの思想はすぐには分かりません。でも、じつはコフートの考えというのは、それほど複雑ではないように思う。
自己愛行動障害
コフートにとって、幼児とは他者すなわち大人に絶対的に依存しなければならない存在です。自分がどういう存在かも、また周りの世界がどういうものかも知らない幼児は、大人が彼(彼女)を支えて初めて、自分というものの存在と外界とを認識できるようになります。
コフートがユニークだった点は、おそらく、幼児が大人を頼る際に、その大人を理想的な存在として憧れるという心的傾向を通じて、幼児は自分自身の素晴らしさを認識しようとしているという洞察です。
幼児自身は無力な存在ですから、自分の価値を最初から感じることのできる幼児はいません。しかし同時に、すべての幼児は自分の素晴らしさを認識したいという心的傾向はもっています。
そのような時に幼児は、自分ではなく、自分を支えてくれる(はずの)大人を素晴らしい存在とみなそうとします。自分の代わりに自分の周りの人を理想的な存在とみなすことで、自分はその素晴らしい存在と共にいるという感覚を味わい、自分の価値を確認しようとするのです。これはつまり、自分の「素晴らしさ」を大人に鏡映(投影?)しているということです。
もしその幼児の大人たち、とりわけ親たちがその幼児に対する十分な愛情と世話を与えた場合、幼児は成長するに従って、自分が親たちに投影していた「素晴らしさ」は、じつは自分の幻想にしか過ぎないという事実に気づくだけでなく、同時にその事実を受け入れることができます。それだけでなく彼(彼女)は、親に投影していた「素晴らしい」という価値は、親ではなく本来は自分自身に見出すべきものであることを認識するようになります。コフートの言う「変容性内在化」「自己対象の内在化」とは、おそらくこのような事態を言おうとしています。
しかし、私たちの殆どがそうであるように、そのような理解ある親に恵まれることは稀であり、また私たち自身が完璧に理想的な親になることも稀でしょう。コフートはそのような事態で育った人たちの心理分析に取り組みます。
上で述べたように、無力な存在である幼児は、自分の価値を認識するのが困難であるがゆえに、自分を世話する大人に価値を見出そうとすること(理想化)で、自分は素晴らしい人と共にいることを実感し、それによって自分にも価値を見出すことを試みます。
しかし、大人(親)がその幼児に対して十分な配慮を見せず、幼児の期待にそぐわない行動を見せたとします。このとき幼児は、親を理想化することができないがゆえに、その親と共にいる自分にも価値を見出すことができません。その時に幼時に起こる心理現象を、コフートは「断片化」「弱体化」と呼びます。
言い換えれば、それは一貫した「自己」という存在を実感できない状態です。自己価値を見出していないがゆえに、本来自分は何が好きであり何がしたいのかといったことも分からなくなるのです。
このように自己価値を見出せず、それゆえ「一貫した自己」「凝集した自己」を維持できないがゆえに、その幼児は年齢的に成長しても、不安・自信喪失という傾向を持ち続けます。著者の中西さんは、コフートはこのような人の心理傾向として、喜びの喪失、批判・失敗を指摘されることへの敏感さ、引っ込み思案、孤独の苦痛、人と出会うことへの抵抗などを指摘しているといいます。
またそのような心理的に萎縮した状態の反動として、自己愛からの他人に対する激怒、傲慢さなどを見せます。また、自己価値・「一貫した自己」のが欠如しているがゆえに、「自己」というものを維持するために、自分の外側のものに依存していきます。それには、薬物やアルコール、同性愛などが挙げられます(同性愛を依存の例としてあげるのは、もしコフートが異性愛をも依存の例に加えないのなら、彼が偏見をもっていたことの例証かもしれません)。
「凝集した自己」の認識、すなわち「自己」という存在を一貫して認識することとは、例えば自分の記憶と現在の自分との関連や、自分のいる位置を時空間の秩序に照らして把握できることを意味します。しかし、大人によって感情的に十分に配慮されなかった子供は、「自己」認識が上手く行かず(例えば記憶喪失、現実検討能力の欠如、脱線する連想)、上記のような知覚作業を適切に行えません。
自分のいる位置を自分で把握できないことは、その人に自信の喪失や不安感を呼び起こし、成長しても、心気症をもたらし、あるいは指しゃぶりなどの刺激や、特定のもの(上で述べたように、同性愛・薬物・アルコールなどをコフートは挙げる)に異常に没頭することによって「自己」存在を確認し続けようとします。宗教への度を越した傾倒も、同じように解釈できます。また、盗みや非行なども、大人から十分な配慮を与えられなかったことの代償を求める行為として表れます。
また自分の中に価値を見出しえないことは、空虚さや孤独の感覚を生み、それが彼(彼女)の傲慢さや横柄な態度につながっていきます。
さらに、このような人は(すべての人に多かれ少なかれこれらの傾向はあるのですが)、大人(親)は自分の期待に十分に応えてくれなかったという想いをもち続けています。かれ(彼女)は、自分の周りの人が無力な存在である自分に代わって素晴らしい存在であることを求め続けます(理想化)。しかし、このような期待はいずれ破られます。ただ、健全な自己をもつ人は、そのような事態をも受け入れることができるのに対し、「自己の凝集性」を喪失した人は、元々内面が空虚であるゆえに、自分の期待が周りの人間によって適えられなかったという事実に耐えることができず、更なる喪失感を抱え込むことになります。
分析家の対応
このような自己愛行動障害をもつ人(上でも述べたように、多かれ少なかれ誰にでもこの傾向はあります)に対して分析家は以下のように対応することが求められる。
まず、「患者」は必然的にカウンセラーを、かつての親の代わりとして、自己の理想を実現する存在として見なします(転移)。患者は、自己の空虚感を埋めるため、分析家を理想的な存在と見なすことを通して、それと共にいる自分の価値を確認しようとするのです。
分析家がまずすべきことは、そのような患者に十分な共感の姿勢を見せ、患者にとって自分が味方であることを示すことです。精神科医の神田橋條治さんは、セッションにおいて治療者の患者に対する「抱え」を強調していますが、それはコフート(中西さん)が言う共感と似ているのだと思います。
それにより患者は、ますます治療者を「理想の親」として見なすようになります(理想化転移)。同時に患者は、そのセラピストが患者の素晴らしさを認めて欲しいという欲求も持ちます(鏡映転移)。
治療者は、患者が自分に対して理想化を行っていることを認めた上で、一時的に安定した関係をきづきます。その関係が築き上げられた上で、治療者は患者に対し、患者が行っていることは「転移」であり、治療者は患者の理想の保護者にはなりえないという「説明・解釈」を提示します。
ここで患者は、子供時代と同様に、理想化に失敗することになります(「自己対象の失敗」)。
このように、親や周りの大人が自分にとって理想の保護者ではないという事実は、誰もが遅かれ早かれ直面するものです。ただ、普通の人の場合は、それでも一定程度の配慮を親から与えられ続けたがゆえに、失望を経験しながらも、自分の親が理想の存在ではないという事実を受け入れることができるのです。また同時に彼(彼女)は、親に見出そうとした価値を、今度は自分自身に見出そうとします(「自己対象関係の内在化」)。
しかし、そのような一定程度の配慮すら親(大人)から与えられなかった人は、失望感があまりにも大きいため、親が理想の存在ではないという事実を受け入れるだけの心理的余裕を発達させてくることができませんでした。そのために彼(彼女)は、自信の喪失など上記に挙げた様々な症状を見せるようになります。
したがって、セラピストがそのような患者に対してすべきことは、患者にとっての理想の親という役割を演じ続けることではなく、セラピストは患者の理想の親にはなりえないという事実を患者自身が受容できるようにサポートするということになります。コフート(中西さん)の見方では、そこでセラピストは、患者に対して十分な共感を見せることが必要になります。
そのような「抱え」の姿勢を示すことで、患者が、患者自身が過去に味わった過去の児童期の失望を受け入れ、患者が自分自身に対しても共感的姿勢をもつことができるようサポートしていきます。
そのようにセッションが成功裡に進めば、患者は周りの人間の中に見出そうとしてきた理想的な人間のあり方を、自分自身の中に今度は見出そうとします。つまり、自分には価値があるということを意識し始めるようになります。
社会学者のアンソニー・ギデンズは、現代の人間の心理を特徴づけるのは、「良心」と「罪の意識」(フロイト)ではなく、「恥」(コフート)であると指摘しています(『モダニティと自己アイデンティティ』)。
コフートにとって「恥」が人間の心理を特徴付けるのは以下の理由によります。人間には元々「理想的にこうありたい」と願う想いがあり、その想いを実現するためにまず親(大人)を理想的な存在であるとみなします。しかしそれは、本来は自分の中に見出したいと願っているものなのですが、無力な存在である幼児は、自分はそんなことに値するとは思えません。そこで、大人を理想的な存在と見なすことで、なんとか自分の価値を確認しようとするのです。
しかし、遅かれ早かれ、幼児は、親(大人)がそのような理想的な存在ではないことを知ります。そのとき幼児は、自分自身もがそのような理想からは遠いと感じ、自分の中が空虚であると感じます。
多くの人はその児童期の経験をもちながら成長します。つまり彼は、自分自身は不十分な存在であると思い続けます。それが「恥」を感じるという心理傾向につながります。
これは別の面から言えば、人間にはつねに「理想の存在でありたい」と願う傾向があることを意味します。
フロイトにとって人間の心理は、衝動(エス)とそれを抑圧する超自我が主な役割を果たし、それゆえ人間は罪の意識と良心によって縛られる存在とされていました。
それに対しコフートは、人間は、理想を追い求める傾向と、それが挫折することによって、その人生が形成されていくと考えます。
コフートが芸術の人間に対する価値を認めるのも、芸術は、人間が幼児期の失望により空虚さ・「自己」の喪失を味わう中で、「自己」を再統一しようとする表れだからです。
また芸術だけでなく、つねに自己の理想・野心を追い求める傾向と、自分が持つ技能とのバランスをはかりながら、自分の創造性を発揮させようとする性向を本来は人間は持っているという見解にもつながります。
ただ自分の衝動を飼い馴らすことだけを考えることよりは、それは人間のあり方の中に希望を見出せる視点ではないかと思います。
この本を読もうと思ったのは、20世紀を代表する精神分析家ハインツ・コフートの翻訳『自己の分析』を読もうとして、しかしまったく読めなかったから。文字を追っても全然頭に入ってこなかったのです。それでもコフートの考えは知りたいと思ったので、上記の本を手にとってみました。
この本は、コフートの考えがとてもわかりやすくまとめられていて、かなり読みやすかったです。この本を読んだあとなら、コフートの書いたものを読んでも頭に入るかな。
「鏡映」「自己対象」「断片化」といった専門用語の使い方が一見してハッキリしないので、解説書を読んでもコフートの思想はすぐには分かりません。でも、じつはコフートの考えというのは、それほど複雑ではないように思う。
自己愛行動障害
コフートにとって、幼児とは他者すなわち大人に絶対的に依存しなければならない存在です。自分がどういう存在かも、また周りの世界がどういうものかも知らない幼児は、大人が彼(彼女)を支えて初めて、自分というものの存在と外界とを認識できるようになります。
コフートがユニークだった点は、おそらく、幼児が大人を頼る際に、その大人を理想的な存在として憧れるという心的傾向を通じて、幼児は自分自身の素晴らしさを認識しようとしているという洞察です。
幼児自身は無力な存在ですから、自分の価値を最初から感じることのできる幼児はいません。しかし同時に、すべての幼児は自分の素晴らしさを認識したいという心的傾向はもっています。
そのような時に幼児は、自分ではなく、自分を支えてくれる(はずの)大人を素晴らしい存在とみなそうとします。自分の代わりに自分の周りの人を理想的な存在とみなすことで、自分はその素晴らしい存在と共にいるという感覚を味わい、自分の価値を確認しようとするのです。これはつまり、自分の「素晴らしさ」を大人に鏡映(投影?)しているということです。
もしその幼児の大人たち、とりわけ親たちがその幼児に対する十分な愛情と世話を与えた場合、幼児は成長するに従って、自分が親たちに投影していた「素晴らしさ」は、じつは自分の幻想にしか過ぎないという事実に気づくだけでなく、同時にその事実を受け入れることができます。それだけでなく彼(彼女)は、親に投影していた「素晴らしい」という価値は、親ではなく本来は自分自身に見出すべきものであることを認識するようになります。コフートの言う「変容性内在化」「自己対象の内在化」とは、おそらくこのような事態を言おうとしています。
しかし、私たちの殆どがそうであるように、そのような理解ある親に恵まれることは稀であり、また私たち自身が完璧に理想的な親になることも稀でしょう。コフートはそのような事態で育った人たちの心理分析に取り組みます。
上で述べたように、無力な存在である幼児は、自分の価値を認識するのが困難であるがゆえに、自分を世話する大人に価値を見出そうとすること(理想化)で、自分は素晴らしい人と共にいることを実感し、それによって自分にも価値を見出すことを試みます。
しかし、大人(親)がその幼児に対して十分な配慮を見せず、幼児の期待にそぐわない行動を見せたとします。このとき幼児は、親を理想化することができないがゆえに、その親と共にいる自分にも価値を見出すことができません。その時に幼時に起こる心理現象を、コフートは「断片化」「弱体化」と呼びます。
言い換えれば、それは一貫した「自己」という存在を実感できない状態です。自己価値を見出していないがゆえに、本来自分は何が好きであり何がしたいのかといったことも分からなくなるのです。
このように自己価値を見出せず、それゆえ「一貫した自己」「凝集した自己」を維持できないがゆえに、その幼児は年齢的に成長しても、不安・自信喪失という傾向を持ち続けます。著者の中西さんは、コフートはこのような人の心理傾向として、喜びの喪失、批判・失敗を指摘されることへの敏感さ、引っ込み思案、孤独の苦痛、人と出会うことへの抵抗などを指摘しているといいます。
またそのような心理的に萎縮した状態の反動として、自己愛からの他人に対する激怒、傲慢さなどを見せます。また、自己価値・「一貫した自己」のが欠如しているがゆえに、「自己」というものを維持するために、自分の外側のものに依存していきます。それには、薬物やアルコール、同性愛などが挙げられます(同性愛を依存の例としてあげるのは、もしコフートが異性愛をも依存の例に加えないのなら、彼が偏見をもっていたことの例証かもしれません)。
「凝集した自己」の認識、すなわち「自己」という存在を一貫して認識することとは、例えば自分の記憶と現在の自分との関連や、自分のいる位置を時空間の秩序に照らして把握できることを意味します。しかし、大人によって感情的に十分に配慮されなかった子供は、「自己」認識が上手く行かず(例えば記憶喪失、現実検討能力の欠如、脱線する連想)、上記のような知覚作業を適切に行えません。
自分のいる位置を自分で把握できないことは、その人に自信の喪失や不安感を呼び起こし、成長しても、心気症をもたらし、あるいは指しゃぶりなどの刺激や、特定のもの(上で述べたように、同性愛・薬物・アルコールなどをコフートは挙げる)に異常に没頭することによって「自己」存在を確認し続けようとします。宗教への度を越した傾倒も、同じように解釈できます。また、盗みや非行なども、大人から十分な配慮を与えられなかったことの代償を求める行為として表れます。
また自分の中に価値を見出しえないことは、空虚さや孤独の感覚を生み、それが彼(彼女)の傲慢さや横柄な態度につながっていきます。
さらに、このような人は(すべての人に多かれ少なかれこれらの傾向はあるのですが)、大人(親)は自分の期待に十分に応えてくれなかったという想いをもち続けています。かれ(彼女)は、自分の周りの人が無力な存在である自分に代わって素晴らしい存在であることを求め続けます(理想化)。しかし、このような期待はいずれ破られます。ただ、健全な自己をもつ人は、そのような事態をも受け入れることができるのに対し、「自己の凝集性」を喪失した人は、元々内面が空虚であるゆえに、自分の期待が周りの人間によって適えられなかったという事実に耐えることができず、更なる喪失感を抱え込むことになります。
分析家の対応
このような自己愛行動障害をもつ人(上でも述べたように、多かれ少なかれ誰にでもこの傾向はあります)に対して分析家は以下のように対応することが求められる。
まず、「患者」は必然的にカウンセラーを、かつての親の代わりとして、自己の理想を実現する存在として見なします(転移)。患者は、自己の空虚感を埋めるため、分析家を理想的な存在と見なすことを通して、それと共にいる自分の価値を確認しようとするのです。
分析家がまずすべきことは、そのような患者に十分な共感の姿勢を見せ、患者にとって自分が味方であることを示すことです。精神科医の神田橋條治さんは、セッションにおいて治療者の患者に対する「抱え」を強調していますが、それはコフート(中西さん)が言う共感と似ているのだと思います。
それにより患者は、ますます治療者を「理想の親」として見なすようになります(理想化転移)。同時に患者は、そのセラピストが患者の素晴らしさを認めて欲しいという欲求も持ちます(鏡映転移)。
治療者は、患者が自分に対して理想化を行っていることを認めた上で、一時的に安定した関係をきづきます。その関係が築き上げられた上で、治療者は患者に対し、患者が行っていることは「転移」であり、治療者は患者の理想の保護者にはなりえないという「説明・解釈」を提示します。
ここで患者は、子供時代と同様に、理想化に失敗することになります(「自己対象の失敗」)。
このように、親や周りの大人が自分にとって理想の保護者ではないという事実は、誰もが遅かれ早かれ直面するものです。ただ、普通の人の場合は、それでも一定程度の配慮を親から与えられ続けたがゆえに、失望を経験しながらも、自分の親が理想の存在ではないという事実を受け入れることができるのです。また同時に彼(彼女)は、親に見出そうとした価値を、今度は自分自身に見出そうとします(「自己対象関係の内在化」)。
しかし、そのような一定程度の配慮すら親(大人)から与えられなかった人は、失望感があまりにも大きいため、親が理想の存在ではないという事実を受け入れるだけの心理的余裕を発達させてくることができませんでした。そのために彼(彼女)は、自信の喪失など上記に挙げた様々な症状を見せるようになります。
したがって、セラピストがそのような患者に対してすべきことは、患者にとっての理想の親という役割を演じ続けることではなく、セラピストは患者の理想の親にはなりえないという事実を患者自身が受容できるようにサポートするということになります。コフート(中西さん)の見方では、そこでセラピストは、患者に対して十分な共感を見せることが必要になります。
そのような「抱え」の姿勢を示すことで、患者が、患者自身が過去に味わった過去の児童期の失望を受け入れ、患者が自分自身に対しても共感的姿勢をもつことができるようサポートしていきます。
そのようにセッションが成功裡に進めば、患者は周りの人間の中に見出そうとしてきた理想的な人間のあり方を、自分自身の中に今度は見出そうとします。つまり、自分には価値があるということを意識し始めるようになります。
社会学者のアンソニー・ギデンズは、現代の人間の心理を特徴づけるのは、「良心」と「罪の意識」(フロイト)ではなく、「恥」(コフート)であると指摘しています(『モダニティと自己アイデンティティ』)。
コフートにとって「恥」が人間の心理を特徴付けるのは以下の理由によります。人間には元々「理想的にこうありたい」と願う想いがあり、その想いを実現するためにまず親(大人)を理想的な存在であるとみなします。しかしそれは、本来は自分の中に見出したいと願っているものなのですが、無力な存在である幼児は、自分はそんなことに値するとは思えません。そこで、大人を理想的な存在と見なすことで、なんとか自分の価値を確認しようとするのです。
しかし、遅かれ早かれ、幼児は、親(大人)がそのような理想的な存在ではないことを知ります。そのとき幼児は、自分自身もがそのような理想からは遠いと感じ、自分の中が空虚であると感じます。
多くの人はその児童期の経験をもちながら成長します。つまり彼は、自分自身は不十分な存在であると思い続けます。それが「恥」を感じるという心理傾向につながります。
これは別の面から言えば、人間にはつねに「理想の存在でありたい」と願う傾向があることを意味します。
フロイトにとって人間の心理は、衝動(エス)とそれを抑圧する超自我が主な役割を果たし、それゆえ人間は罪の意識と良心によって縛られる存在とされていました。
それに対しコフートは、人間は、理想を追い求める傾向と、それが挫折することによって、その人生が形成されていくと考えます。
コフートが芸術の人間に対する価値を認めるのも、芸術は、人間が幼児期の失望により空虚さ・「自己」の喪失を味わう中で、「自己」を再統一しようとする表れだからです。
また芸術だけでなく、つねに自己の理想・野心を追い求める傾向と、自分が持つ技能とのバランスをはかりながら、自分の創造性を発揮させようとする性向を本来は人間は持っているという見解にもつながります。
ただ自分の衝動を飼い馴らすことだけを考えることよりは、それは人間のあり方の中に希望を見出せる視点ではないかと思います。
上田義彦さんの写真集PHOTOGRAPHSを見ました。
これはどういうコンセプトの写真集なのだろう?とにかく、これまでの上田さんの仕事の中から何枚かをピックアップしたという感じ。
僕は上田さんのこれまでの業績を詳しくしらないけど、傑作写真集という感じもしない。かといって、上田さんが特に思いいれのあるものを集めたという感じもしない。もっとも、それは本人に聞いてみないと分からないけど。
でも、にもかかわらずというか、だからこそというべきか、写真家・上田義彦の特徴がよく出ている写真集であるとは言えるのかもしれない。
上田さんの写真は、被写体を“モノ”として撮っている。その被写体から何か生命力が湧き起こる、という感じではないように思う。むしろ、被写体が本来もっていた生命が消され、上田さんによる構図によって新しい存在として再構成されている。それはあくまで上田さんの構築物であって、その被写体が元々持っていた独自性はそこに存在しない。
それは、写真家による独自の視点、というよくある言い方とは違う。むしろ、写真家によって、被写体は写真の中で別の存在としてあるのです。
私はそんな印象を受けました。
これはどういうコンセプトの写真集なのだろう?とにかく、これまでの上田さんの仕事の中から何枚かをピックアップしたという感じ。
僕は上田さんのこれまでの業績を詳しくしらないけど、傑作写真集という感じもしない。かといって、上田さんが特に思いいれのあるものを集めたという感じもしない。もっとも、それは本人に聞いてみないと分からないけど。
でも、にもかかわらずというか、だからこそというべきか、写真家・上田義彦の特徴がよく出ている写真集であるとは言えるのかもしれない。
上田さんの写真は、被写体を“モノ”として撮っている。その被写体から何か生命力が湧き起こる、という感じではないように思う。むしろ、被写体が本来もっていた生命が消され、上田さんによる構図によって新しい存在として再構成されている。それはあくまで上田さんの構築物であって、その被写体が元々持っていた独自性はそこに存在しない。
それは、写真家による独自の視点、というよくある言い方とは違う。むしろ、写真家によって、被写体は写真の中で別の存在としてあるのです。
私はそんな印象を受けました。
PHOTOGRAPHS上田 義彦Editions Trevilleこのアイテムの詳細を見る |