joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『愛情剥奪と非行  ウィニコット著作集 (2)』 D.W.ウィニコット(著)

2007年08月15日 | Book
イギリスの精神科医ドナルド・ウィニコット(1896-1971)の論文を集めた翻訳『愛情剥奪と非行  ウィニコット著作集 (2)』を読みました。主に、子供を取り囲む環境が安定することの大切さと、それがなされなかった場合の子供の反応について記述した論文を集めた本です。

ウィニコットという人は、私は主著は読んでいないのですが、実践派の(児童)精神科医だったのではないでしょうか。つまり、独自の理論や学派を作ることよりも、目の前の問題に対処することに関心がある人だったのではないでしょうか。およそ言説世界での闘争に関心をもたず、また自分自身の内面世界を探求することに没頭することもなく、ただ周りの人たちの問題を客観的に正確に把握することに努めた人ではないかという印象を読者に持たせます。

おそらく、フロイトやユングのような世紀の大才を除けば、ウィニコットが取ったそのような態度だけが、私達の中に治療者への信頼を呼び起こします(もちろん、フロイトやユングたちも、クライアントに膨大な時間を割いたことで有名です)。


この本の中で著者は、幼児が元来持つ攻撃性が、環境次第で、善の能力に変わり、あるいは悪(非行)へとつながることを指摘します。

著者によれば、児童の(つまり人間の)攻撃性の起源とは、運動の快楽、すなわち筋肉を動かす快楽に由来します。その快楽は、例えば何かを殴ったり蹴ったりする楽しみであり、同時に拳や足から悪を追い出そうとする試みです。それは自分の内面の感情があまりにも圧倒的なために幼児はそれに耐えられず、その内的現実を外的現実として表現することで発散しようとするのです。

また何かを噛みたいという衝動も、幼児の「攻撃性」として私たちに認知されます。赤ちゃんにとって母親の体は心地よく、それゆえ彼らは「噛もう」とします。

このとき大人には二通りの反応の仕方があります。一つは、その子供の攻撃性を見て、我が子の中に「悪魔」を見出すこと。もう一つは、その子供の攻撃性を承認すること(幼児のダークサイドって「ちいちゃん」みたいな感じかしら)

幼児はその「口唇期のサディズム」で攻撃性を発揮し、対象である親を冷酷・無慈悲に扱います。中には母親の乳首を噛む子もいるでしょう。その噛むという表現は、母親の体を希求しており、それだけ母親の体を「愛している」ことの表れなのですが。

しかし、子供がそれだけ攻撃性を大人に向けながら、それでもなお大人が倒れずに子供の前に立ちはだかるとき、子供は罪悪感を発達させることができます。罪悪感は、自分にとってポジティブなものを自分は破壊しようとしたという意識から生まれます。その罪悪感を子供が発達させるには、それだけ親が子供にとって「よいもの」である必要があります。ここで言えば、子供の攻撃にもかかわらず、今なお子供を保護するだけの強さを持った存在であり続ける必要があります(そして、私たちの社会のほとんどの人が罪悪感を持っているという事実は、その人たちの親が子供の攻撃に対して「生き残った」という事実を表しています。つまり社会のほとんどの親は、子育てに成功しているということです)。

この場合の、親が子供の攻撃に対して「生き残る」とは、例えば子供の攻撃にもかかわらず親は強い存在であり続け、また「彼女自身であり続け」、自分の子供に共感し続けることなどを指します。

赤ちゃん・児童は、自分の攻撃にもかかわらずそのように「生き残った」親に対して「罪悪感」を感じ(このとき幼児は、この世には「悪」が存在し、自分はそれを親に対して駆使してしまったと気づきます)、愛する者のために自分の攻撃性を抑制することを学びます。ウィニコットは、本来であれば赤ちゃんはもっと母親の乳首を噛むにもかかわらず、実際に噛むのは(授乳回数に比べて)わずかであり、それは赤ちゃんが妥協することを学んでいるからだと指摘します(しかしそのわずかな回数で母親は、一時的にですが、赤ちゃんに憎しみを覚えてしまうのですが)。

罪悪感を学ぶこの機会に、同時に赤ちゃんは、自らがなした「悪」を償おうという意欲をも身につけるようになります。そこで、自分の攻撃に耐えてくれた大いなる存在である母親に対して、赤ちゃんは、気遣い・思いやりというものを発揮するようになります。

(この気遣い・思いやりと同時に、ウィニコットによれば、遊び・仕事・芸術なども、自らの攻撃行為を悔いる気持ちに由来しており、それらは「空想における危害への後悔の念」「事を正したいとする無意識の願望」の表れだということです)

世界に対するこのような建設的な態度は、親・大人が自分の攻撃性を承認し、自分の攻撃を親が受け止めてくれたと子供が感じたときにのみ発生します。攻撃性とは人間・幼児の本能であり、それを大人に認めてもらったときにのみ、子供は自分の攻撃性を償い、自分から親・周りの人に対して貢献しようという意欲をもつようになります。

逆に言えば、親・大人が自分の攻撃性を受け止めくれていると感じないとき、子供はその親に対して償おうという意欲・すなわち気遣いや思いやりの能力を発達させることはできません。子供が償いの気持ちをもつには、自分の攻撃行為を償うに足るだけの価値が自分の親にはあるのだと思わなければならないのです。

自分の親がそのような価値を全くもたないと子供が思うとき、つまり親が子供に対して全く反応せず、子供に共感を寄せないとき、子供は思いやり・気遣いはおろか親を攻撃することすらしないようになります。

言い換えれば、子供が少年・少女になり非行に走るとき、それはまだ自分の攻撃性を親・大人・社会は受け止めてくれるのではないかという期待をもっていることを意味します。自分の攻撃を受け止めるだけの強さが保護者たちにあると確認できることは、彼らにとっては、幼児の時には確認できなかった保護者の強さを実感することであり、自分を保護してくれる存在を実感できることだからです。

非行に走る、つまり暴力行為や盗みなどは、それだけ自分を巡る親・大人・社会の強さ・安定度を試す行為だと言えます。幼児の頃に保護者の強さを感じることができなかった少年・少女は、成長してなお、大人たちに強さを求めます。彼らは未だに周りに攻撃をしかけることで、大人・社会は自分たちを保護できるほどの強さを持つことを実感したいという欲求を抱えています。

少年少女の反社会的傾向は、自分の破壊的な行動から生ずる緊張に耐えうるだけの量の安定性を探していることの表れです。彼らは社会の枠組みを再構築するよう大人たちに強いています。ウィニコットは、人間は、そのような安定した枠組みにおいてのみ、自発性や思いやり・気遣いという建設的な態度を養うことができると指摘します。

また盗むという行為は、子供たちにとって、自分が当然得る権利がある母親を探し求めていることの表れだと著者は指摘します。

このようにみると、非行に走る少年少女に対しては、もちろんケースによって取るべき対処方法は違うでしょうが、その攻撃衝動を是認するという態度が基本になるべきということになります。このことは、攻撃を「容認」するということとは違います。

反社会性とは、この社会は自分を保護できるほど安全ではないという少年たちの意識の表れです。彼らは幼い頃に、自分の攻撃衝動を受け入れるだけの存在に出会うことがありませんでした。そのような恐怖に満ちた社会に対して彼らが取ることのできる唯一の行動が、非行という反社会的行為です。

しかしそれは同時に、心の奥底では、自分の攻撃衝動を受け入れるだけの存在を未だに探し求めていることを意味します。まったく希望のない存在ではないからこそ、彼らはまだ社会を挑発し続けるのだとも言うことができます。

ウィニコットは、このような少年少女たちは、一度は親に愛情を与えられながらも、そのような愛情を剥奪された存在だと述べます。彼らが非行に走るのは、自分が奪われた安定した環境を取り戻そうと、もう一度社会の安定度を確かめようとしているからです。

彼らは「ほどよい母性的保護」を与えらなかったために、親や周りに貢献しようという能力を発達させることができませんでした。それは、ただ周りを攻撃するだけで、「自分は…である」と言う能力・すなわち安定した自己を発達させる機会を奪われたことを意味します。彼らの一部は、迫害妄想・幻覚をもち、「永遠に落ちていくこと・バラバラの断片になること・方向を失うこと」への恐怖に侵されています。

それゆえに、自分の周りを攻撃することしかできませんが、同時に自分の攻撃を受け止めるだけの強い保護者を求めています。そのとき初めて彼らは安心感を得て、自己というものを発達させることができるからです。

それゆえに大人には、彼らの行為を罰しつつも、彼らの動機を理解し共感することが求められます。また彼らを処罰する際にも、もし目的が彼らの更正にあるのであれば、つまり彼らに世界に対する建設的行動を求め、思いやりや気遣いなどの貢献を求めるのであれば、大人・社会は彼らの攻撃を受け止めるだけの強さをもつことを示すような態度が求められます。つまり、大人・社会は彼らに対して「強くて愛された信頼できる父親像」を子供たちに示す必要があるのです。そのことができない懲罰は、単なる「社会の無意識的な復讐の盲目的な表現」(p.223-4)です。


こうした視点は、少年少女と日々関わる人たちにとっては自明な見解なのでしょうが、それでも今一度、この社会に存在する「悪」の起源を私に確認させてくれます。つまり「悪」の発生の由来と、「悪」をなす人たちが本当は何を求めているのかということです。

少年たちの非行に関わらず、「犯罪」を犯した人たちに対する復讐の雰囲気が、最近はメディアによって安易に醸成されています。犯罪被害者の心情を今まであまりにも無視してきた反動で、今度は犯罪者に復讐することが正義だと主張する人が増えているのです。

ウィニコットの冷静な議論は、そのような視点を私たちにもう一度疑うことを可能にしてくれます。

同時に日々の生活のレベルでも、人間関係の間で行われる攻撃がどういう意味をもつのかについても、著者は気づかせてくれます。つまり、誰かを攻撃する人は、実はその人に負けて欲しくないし、実は攻撃対象となっている人に助けてもらいたがっているという事実です。

このことは、親と子供だけでなく、教師と生徒、先輩と後輩、上司と部下の間で頻繁に見られる現象でしょう。そのとき、「保護者」の立場にいる人たちは、じつは「部下」の攻撃に耐えることが求められています。

「生徒」「部下」「子供」は、実は「保護者」に自分の攻撃に耐えて欲しいのです。保護者が自分の攻撃に耐えてくれることで、保護者はとても強い存在であり、自分はその強い存在に守られているのだという安心感を「子供」は感じることができるのです。

今まで自分が見捨ててきた「子供」のことを考えると、余計にこの教訓の重みを感じます。

嫌う

2007年08月15日 | reflexion


私(たち)は、誰かを嫌うとき、必ずと言っていいほど、その嫌っている人の中に羨ましいと思っている部分があります。

羨ましいとも思わない人のことをわざわざ嫌いにはなりませんからね。

誰かを「嫌う」というのは、自分の「こうありたい」という欲求を素直に表現できないこと、それどころか「こうありたい」という欲求をもつことはよくないことと思っていることのあらわれなんでしょうね。

誰かを「嫌う」とき、私(たち)は、実はその人のようになりたいんですね。