joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

絵本 『ねむる』 長新太

2007年08月17日 | 絵本・写真集・画集
長新太さんの『ねむる』を読みました。

夜の静けさが描かれています。

子供にとって、夜は夜としてとても生き生きとしています。

大人は、夜中まで起きていたりする経験があるので、夜は昼の延長でしかありません。

でも、子供にとって、夜、特に夜中は、昼とはまったく別の世界です。

その夜独特の世界が、この絵本では描かれています。

子供が夜中に起きて家の中を歩くと、昼にあった物たちは、暗闇の中で夜の中でじっと静まっています。その静まり具合を、長新太さんは、「グー」とか、「スー」とかいう言葉で表現しています。

その夜の不思議さを、読む者に思い出させてくれます。



ねむる
長 新太
文溪堂

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街の中

2007年08月17日 | 日記


ふぅ、暑いですね。

こういうときに、病院などの公的施設で自由に市民が涼めるようになるといいですね。

街を歩いていると、疲れたときに人が休める場所は喫茶店ぐらいしかないことに気づきます。

そう考えると、街中というのは、人がたくさんいるのに、くつろげる自由のない不思議な場所なんですね。

近代における物理的な「公的空間」の誕生でしょうか。

でも、暑いとき、疲れたときに、誰もが気兼ねなく休めるような場所があるといいですね。

『会社でチャンスをつかむ人が実行している本当のルール』 福沢 恵子 ・勝間 和代 (著))

2007年08月17日 | Book
経済評論家の勝間和代さんとジャーナリストの福沢恵子さんが書かれた『会社でチャンスをつかむ人が実行している本当のルール』という本を読みました。

この本は、会社という組織について、何年かお勤めしている女性ですら気づきにくい“カイシャ”というゲームのルールを教えるというものです。例えば、会社にとって必要な人材とはどういう人であるかを述べたものです。

でも、それだけならきっと類書は多いでしょう。この本のユニークなところは、きっと、女性が見落としがちな点に論点を絞っていることです。

例えば著者は、会社にとっては、その人が個人で馬車馬のように働いて成績を上げることよりも、よりスムーズに利益を生み出すシステム(ビジネスモデル)を考え出す人のほうが貴重である(という意味のことを)と述べます。

これは、例えば、個人プレーでバリバリ稼ぐスーパー営業マンよりも、会社の営業マンが全員スムーズに仕事をこなしていけるような仕組みを考え出す人のほうが、会社にとっては有り難いということです。

このあたりは、ビジネスに疎い僕でも、神田昌典さんの話などでよく聴きます。神田さんの場合であればDMやFaxを活用することで、取引先にこちらから頭を下げて回るよりも、一度に大量に顧客を獲得できる方法を提案します。もちろん、それにはDMの内容にかなり知恵を絞る必要があります。そこで知恵を絞るときに頭にかく汗は、靴をつぶして営業する人の体がかく汗よりも多い場合があるかもしれません。

ともかく、ただ個人が自分の与えられた仕事をこなすことよりも、会社全体の利益を上げる仕組みを考え出す人が、本当は会社に求められているということです。

著者が本の最初で言う、出世することに意欲的になろう!というメッセージも、上記のような考えと密接に結びついています。つまり、より大きな見地で会社を見て、会社に大きな利益を生み出す仕組みを考えるようになるには、それだけ高いポジションにつく必要があるということです。

もちろん、組織の末端にいても、会社全体の視野にたった戦略を考えることはできるはずです(例えば、ホテルのドアマンをしながら、ホテル経営について考えて、ホテルオーナーに上り詰めた人のように)。でも、その考えた戦略を実際に行動に移すにはそれだけのポジションに就かなければなりませんし、またそのポストを得て初めて分かる問題だってあるはずです。

そのような理由から、著者は、会社が求める人材になるには、出世すること、すなわち会社の利益を生み出すための裁量と権限を得る地位を得る必要があることを力説します。べつに社用車の送り迎えを愉しむために出世しようと言っているわけではありません。

会社にとって役に立つ人材とは、上で述べたように、自分だけでなく、一緒に働くチーム全員が利益獲得に関与できて、それによって利益を増進させることのできるシステムを考え出すことができる人です。

当たり前と言えば当たり前ですが、著者は、女性はそのことに思い至らないことを指摘します。それは、女性が“チームプレー”を苦手とするからです。

つまり、チームで動いて最大の利益を獲得することが求められるのに(一人のスーパーマンの活躍では限界があるのですから)、チーム内の人間関係を上手くやっていける女性は少ないと著者は指摘します。

例えば会社内の“派閥”や、仕事の後の付き合いを女性は拒否する傾向があるのですが、そのようなインフォーマルな関係も、じつは会社内で必要な情報交換の場であって、業務活動の延長となっています。しかし女性は最初からその輪の中に入っていかないため、実質的に会社の業務に精通できなくなっているのです。

著者は、そのようなインフォーマルな関係に染まることを嫌う女性の心理に、傲慢さとその裏にある自信のなさを挙げます。つまり、“人間関係”というものに入ることをかっこ悪いと思う心性と、そこで他人から評価されることへの怖れなどです。

そのような怖れは、管理者的なポジションに女性が就くことへの心理的な抵抗ともつながっているのかもしれません。“自立”した女性になりたいという憧れを多くの女性はもっています。しかし同時に、ビジネスでは人間関係が大事で、それを円滑にやっていくにはインフォーマルな付き合いにも馴染む必要があるのですが、そのような「疲れる」関係は拒否しようとするし、女性だからそれは免除されると思っているのです。

しかしその関係に入らないために、会社の中枢から女性ははじき出され、戦力としては見なされず、安い報酬でこき使われていくことを著者は指摘します。

一言で言えば、この本は、働く女性が気づくべき「責任」とは何か?を述べているということでしょうか。

「責任」「自立」とは、与えられた仕事をすべて一人でこなしていくというイメージがあります。周りの人間がどうなろうと、私は私の仕事をちゃんとこなしていく、というメンタリティです。

しかし、著者はそれではいけない、と言います。会社とは人間関係の集積の場であり、そこで利益を生む仕組みを考えるポジションを得るには、円滑なコミュニケーション力が必要だし、インフォーマルな付き合いの重要性に気づかなければならないし、会社でマジョリティを占める男性たちの心理に精通する必要があるのです。そうした“面倒”なことを引き受けて初めて、組織を全体的な視点で見ることができるのです。


著者は、なぜ女性がこうしたことを不得意とするかと言うと、それは女性が男性とは違って、スポーツなどによるチームプレーの経験がないからだと言います。つまり、運動部などの競争の激しい関係を男子は経験しているからこそ、そのような軍隊的な組織の中でどのように身を処していけばいいのかを男子は知っているのに対し、女性はそこで必要な気遣いの能力を発達させてきていないということです。

これは、著者たちが冒頭に上げているベティ・ハラガンの『母が教えてくれなかったゲーム』でも強調されていることです。

ただ私は、今回の勝間さんと福田さんの著書を読んで、女性が会社のルールに気づかない原因は、本当に女性にチームプレーの経験がないからだろうか?と疑問になってきました。

女性にだって、子供の頃から、同じ女性内でどのように派閥同士の争いを切る抜けるという問題には巻き込まれているし、スポーツを経験する女子も多いでしょう。そう考えると、単に集団行動の経験があるなしでは、女性が会社でやっていくのが難しいことの理由にはならないような気がする。

私は、女性が「会社のルール」を知らない原因は、他のところに求められるべきと思うようになりました。すなわち、チームスポーツの経験云々ではなく、オーソドックスな考え方ですが、“働く”ということについて子供の頃から教えられてきた観念が、男子と女子ではやはり大きく違うということが大きな要因になっているのです。

つまり、男性にとって働くとは、イコール家族を養うことであり、要するに“人間関係”を背負うということとつながっているのです。多くの男性にとって働くとは、自分だけの欲求を充足させることではなく、親や配偶者・子供という“関係”を背負っていくことと同義であり、最初から“自分”というものを超えた何かへの奉仕の面があります。だからこそ、会社のインフォーマルな付き合いといった「煩わしい」人間関係の大切さも納得して受け入れていくのでしょう。

また出世することも、それが経済力を増し、それだけ家族の責任を果たすことにつながるという事実に敏感になりやすいでしょう。こうしたことは、もう会社に入った時点で多くの男性社会人は意識しているのだと私は想像しています。

それに対して、多くの女性にとって働くとは、むしろ、そのような親・配偶者・子供という人間関係からの解放を意味します。もちろんそれらをバランスさせようという人も多いのでしょうが、歴史的な経緯としては、親族関係の煩わしさによって抑圧されてきた女性たちが、働く・自立することによって“家族”“親族”というものから解放されたきたという面が強いのだと思います。彼女たちにとって“働く”とは、女性としての責任から解放され自由を手に入れるという側面の方がより意識されてきたのでしょう(だからこそ、「派遣」という形態に魅力を感じる女性も多いのでしょう。もっとも、それが長期的に見て女性にとって本当にいいことかというと、疑問符はつきます)。

多くの女性が「働きたい」と思うのでは、それによって経済的・精神的な自由と解放感を得ることが目的だったのではないでしょうか。だとするなら、彼女たちの多くにとって、その仕事の中で再度(自分が解放されたはずの)“人間関係”という煩わしいものを背負い込むのは、抵抗があるはずです。またそうした想いがあれば、会社全体の視点に立った有用な人材になることよりも、目の前の仕事をこなしアフターファイブに自由になることを目的とする女性が存在することも不思議ではありません。

では、そのような女性たちにはもはや希望はないのでしょうか。あるいは、著者たちが言うように、積極的に出世ゲームに参加すべきなのでしょうか。

女性にとって本当に理想的な事態は、自分たちが歴史的経緯で勝ち取ってきた「自由」を感じながら、同時にビジネス上で生じる責任(組織への責任)をも受け入れる気になるような仕事を見つけることでしょう。

しかし、これは女性だけでなく、男性にも当て嵌まるはずです。「家族への責任」という名の下に嫌な仕事や職場関係に耐えながら、家に帰っては周りの家族に八つ当たりをしたり、あるいは無視したり、あるいは仲間はずれにされたりするといった自体は、幸せには見えません。

つまり、「出世」することに意欲的になれるだけの仕事にめぐり合えることが、その人たちにとって一番の幸せなんじゃないだろうか、と思いました。


この著書を読ませていただくと、「出世」することの素晴らしさを読むものに想像しやすくさせてくれます。それは、ドラゴン桜が一流大学に合格することのすばらしさを説くことにも似ています。つまり、私たちが見ないようにして来た自分の中の本当の願望を直視するように迫っているのです。両者は出世や受験勉強に伴う痛みに直面することの素晴らしさを説きます。

きっと、多くの人は、この本で自分が陥っていた罠にショックを受けながらも、新しい視点で社会と会社を見るようになるのだと思います。