joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

街の中

2007年08月17日 | 日記


ふぅ、暑いですね。

こういうときに、病院などの公的施設で自由に市民が涼めるようになるといいですね。

街を歩いていると、疲れたときに人が休める場所は喫茶店ぐらいしかないことに気づきます。

そう考えると、街中というのは、人がたくさんいるのに、くつろげる自由のない不思議な場所なんですね。

近代における物理的な「公的空間」の誕生でしょうか。

でも、暑いとき、疲れたときに、誰もが気兼ねなく休めるような場所があるといいですね。

『会社でチャンスをつかむ人が実行している本当のルール』 福沢 恵子 ・勝間 和代 (著))

2007年08月17日 | Book
経済評論家の勝間和代さんとジャーナリストの福沢恵子さんが書かれた『会社でチャンスをつかむ人が実行している本当のルール』という本を読みました。

この本は、会社という組織について、何年かお勤めしている女性ですら気づきにくい“カイシャ”というゲームのルールを教えるというものです。例えば、会社にとって必要な人材とはどういう人であるかを述べたものです。

でも、それだけならきっと類書は多いでしょう。この本のユニークなところは、きっと、女性が見落としがちな点に論点を絞っていることです。

例えば著者は、会社にとっては、その人が個人で馬車馬のように働いて成績を上げることよりも、よりスムーズに利益を生み出すシステム(ビジネスモデル)を考え出す人のほうが貴重である(という意味のことを)と述べます。

これは、例えば、個人プレーでバリバリ稼ぐスーパー営業マンよりも、会社の営業マンが全員スムーズに仕事をこなしていけるような仕組みを考え出す人のほうが、会社にとっては有り難いということです。

このあたりは、ビジネスに疎い僕でも、神田昌典さんの話などでよく聴きます。神田さんの場合であればDMやFaxを活用することで、取引先にこちらから頭を下げて回るよりも、一度に大量に顧客を獲得できる方法を提案します。もちろん、それにはDMの内容にかなり知恵を絞る必要があります。そこで知恵を絞るときに頭にかく汗は、靴をつぶして営業する人の体がかく汗よりも多い場合があるかもしれません。

ともかく、ただ個人が自分の与えられた仕事をこなすことよりも、会社全体の利益を上げる仕組みを考え出す人が、本当は会社に求められているということです。

著者が本の最初で言う、出世することに意欲的になろう!というメッセージも、上記のような考えと密接に結びついています。つまり、より大きな見地で会社を見て、会社に大きな利益を生み出す仕組みを考えるようになるには、それだけ高いポジションにつく必要があるということです。

もちろん、組織の末端にいても、会社全体の視野にたった戦略を考えることはできるはずです(例えば、ホテルのドアマンをしながら、ホテル経営について考えて、ホテルオーナーに上り詰めた人のように)。でも、その考えた戦略を実際に行動に移すにはそれだけのポジションに就かなければなりませんし、またそのポストを得て初めて分かる問題だってあるはずです。

そのような理由から、著者は、会社が求める人材になるには、出世すること、すなわち会社の利益を生み出すための裁量と権限を得る地位を得る必要があることを力説します。べつに社用車の送り迎えを愉しむために出世しようと言っているわけではありません。

会社にとって役に立つ人材とは、上で述べたように、自分だけでなく、一緒に働くチーム全員が利益獲得に関与できて、それによって利益を増進させることのできるシステムを考え出すことができる人です。

当たり前と言えば当たり前ですが、著者は、女性はそのことに思い至らないことを指摘します。それは、女性が“チームプレー”を苦手とするからです。

つまり、チームで動いて最大の利益を獲得することが求められるのに(一人のスーパーマンの活躍では限界があるのですから)、チーム内の人間関係を上手くやっていける女性は少ないと著者は指摘します。

例えば会社内の“派閥”や、仕事の後の付き合いを女性は拒否する傾向があるのですが、そのようなインフォーマルな関係も、じつは会社内で必要な情報交換の場であって、業務活動の延長となっています。しかし女性は最初からその輪の中に入っていかないため、実質的に会社の業務に精通できなくなっているのです。

著者は、そのようなインフォーマルな関係に染まることを嫌う女性の心理に、傲慢さとその裏にある自信のなさを挙げます。つまり、“人間関係”というものに入ることをかっこ悪いと思う心性と、そこで他人から評価されることへの怖れなどです。

そのような怖れは、管理者的なポジションに女性が就くことへの心理的な抵抗ともつながっているのかもしれません。“自立”した女性になりたいという憧れを多くの女性はもっています。しかし同時に、ビジネスでは人間関係が大事で、それを円滑にやっていくにはインフォーマルな付き合いにも馴染む必要があるのですが、そのような「疲れる」関係は拒否しようとするし、女性だからそれは免除されると思っているのです。

しかしその関係に入らないために、会社の中枢から女性ははじき出され、戦力としては見なされず、安い報酬でこき使われていくことを著者は指摘します。

一言で言えば、この本は、働く女性が気づくべき「責任」とは何か?を述べているということでしょうか。

「責任」「自立」とは、与えられた仕事をすべて一人でこなしていくというイメージがあります。周りの人間がどうなろうと、私は私の仕事をちゃんとこなしていく、というメンタリティです。

しかし、著者はそれではいけない、と言います。会社とは人間関係の集積の場であり、そこで利益を生む仕組みを考えるポジションを得るには、円滑なコミュニケーション力が必要だし、インフォーマルな付き合いの重要性に気づかなければならないし、会社でマジョリティを占める男性たちの心理に精通する必要があるのです。そうした“面倒”なことを引き受けて初めて、組織を全体的な視点で見ることができるのです。


著者は、なぜ女性がこうしたことを不得意とするかと言うと、それは女性が男性とは違って、スポーツなどによるチームプレーの経験がないからだと言います。つまり、運動部などの競争の激しい関係を男子は経験しているからこそ、そのような軍隊的な組織の中でどのように身を処していけばいいのかを男子は知っているのに対し、女性はそこで必要な気遣いの能力を発達させてきていないということです。

これは、著者たちが冒頭に上げているベティ・ハラガンの『母が教えてくれなかったゲーム』でも強調されていることです。

ただ私は、今回の勝間さんと福田さんの著書を読んで、女性が会社のルールに気づかない原因は、本当に女性にチームプレーの経験がないからだろうか?と疑問になってきました。

女性にだって、子供の頃から、同じ女性内でどのように派閥同士の争いを切る抜けるという問題には巻き込まれているし、スポーツを経験する女子も多いでしょう。そう考えると、単に集団行動の経験があるなしでは、女性が会社でやっていくのが難しいことの理由にはならないような気がする。

私は、女性が「会社のルール」を知らない原因は、他のところに求められるべきと思うようになりました。すなわち、チームスポーツの経験云々ではなく、オーソドックスな考え方ですが、“働く”ということについて子供の頃から教えられてきた観念が、男子と女子ではやはり大きく違うということが大きな要因になっているのです。

つまり、男性にとって働くとは、イコール家族を養うことであり、要するに“人間関係”を背負うということとつながっているのです。多くの男性にとって働くとは、自分だけの欲求を充足させることではなく、親や配偶者・子供という“関係”を背負っていくことと同義であり、最初から“自分”というものを超えた何かへの奉仕の面があります。だからこそ、会社のインフォーマルな付き合いといった「煩わしい」人間関係の大切さも納得して受け入れていくのでしょう。

また出世することも、それが経済力を増し、それだけ家族の責任を果たすことにつながるという事実に敏感になりやすいでしょう。こうしたことは、もう会社に入った時点で多くの男性社会人は意識しているのだと私は想像しています。

それに対して、多くの女性にとって働くとは、むしろ、そのような親・配偶者・子供という人間関係からの解放を意味します。もちろんそれらをバランスさせようという人も多いのでしょうが、歴史的な経緯としては、親族関係の煩わしさによって抑圧されてきた女性たちが、働く・自立することによって“家族”“親族”というものから解放されたきたという面が強いのだと思います。彼女たちにとって“働く”とは、女性としての責任から解放され自由を手に入れるという側面の方がより意識されてきたのでしょう(だからこそ、「派遣」という形態に魅力を感じる女性も多いのでしょう。もっとも、それが長期的に見て女性にとって本当にいいことかというと、疑問符はつきます)。

多くの女性が「働きたい」と思うのでは、それによって経済的・精神的な自由と解放感を得ることが目的だったのではないでしょうか。だとするなら、彼女たちの多くにとって、その仕事の中で再度(自分が解放されたはずの)“人間関係”という煩わしいものを背負い込むのは、抵抗があるはずです。またそうした想いがあれば、会社全体の視点に立った有用な人材になることよりも、目の前の仕事をこなしアフターファイブに自由になることを目的とする女性が存在することも不思議ではありません。

では、そのような女性たちにはもはや希望はないのでしょうか。あるいは、著者たちが言うように、積極的に出世ゲームに参加すべきなのでしょうか。

女性にとって本当に理想的な事態は、自分たちが歴史的経緯で勝ち取ってきた「自由」を感じながら、同時にビジネス上で生じる責任(組織への責任)をも受け入れる気になるような仕事を見つけることでしょう。

しかし、これは女性だけでなく、男性にも当て嵌まるはずです。「家族への責任」という名の下に嫌な仕事や職場関係に耐えながら、家に帰っては周りの家族に八つ当たりをしたり、あるいは無視したり、あるいは仲間はずれにされたりするといった自体は、幸せには見えません。

つまり、「出世」することに意欲的になれるだけの仕事にめぐり合えることが、その人たちにとって一番の幸せなんじゃないだろうか、と思いました。


この著書を読ませていただくと、「出世」することの素晴らしさを読むものに想像しやすくさせてくれます。それは、ドラゴン桜が一流大学に合格することのすばらしさを説くことにも似ています。つまり、私たちが見ないようにして来た自分の中の本当の願望を直視するように迫っているのです。両者は出世や受験勉強に伴う痛みに直面することの素晴らしさを説きます。

きっと、多くの人は、この本で自分が陥っていた罠にショックを受けながらも、新しい視点で社会と会社を見るようになるのだと思います。

『愛情剥奪と非行  ウィニコット著作集 (2)』 D.W.ウィニコット(著)

2007年08月15日 | Book
イギリスの精神科医ドナルド・ウィニコット(1896-1971)の論文を集めた翻訳『愛情剥奪と非行  ウィニコット著作集 (2)』を読みました。主に、子供を取り囲む環境が安定することの大切さと、それがなされなかった場合の子供の反応について記述した論文を集めた本です。

ウィニコットという人は、私は主著は読んでいないのですが、実践派の(児童)精神科医だったのではないでしょうか。つまり、独自の理論や学派を作ることよりも、目の前の問題に対処することに関心がある人だったのではないでしょうか。およそ言説世界での闘争に関心をもたず、また自分自身の内面世界を探求することに没頭することもなく、ただ周りの人たちの問題を客観的に正確に把握することに努めた人ではないかという印象を読者に持たせます。

おそらく、フロイトやユングのような世紀の大才を除けば、ウィニコットが取ったそのような態度だけが、私達の中に治療者への信頼を呼び起こします(もちろん、フロイトやユングたちも、クライアントに膨大な時間を割いたことで有名です)。


この本の中で著者は、幼児が元来持つ攻撃性が、環境次第で、善の能力に変わり、あるいは悪(非行)へとつながることを指摘します。

著者によれば、児童の(つまり人間の)攻撃性の起源とは、運動の快楽、すなわち筋肉を動かす快楽に由来します。その快楽は、例えば何かを殴ったり蹴ったりする楽しみであり、同時に拳や足から悪を追い出そうとする試みです。それは自分の内面の感情があまりにも圧倒的なために幼児はそれに耐えられず、その内的現実を外的現実として表現することで発散しようとするのです。

また何かを噛みたいという衝動も、幼児の「攻撃性」として私たちに認知されます。赤ちゃんにとって母親の体は心地よく、それゆえ彼らは「噛もう」とします。

このとき大人には二通りの反応の仕方があります。一つは、その子供の攻撃性を見て、我が子の中に「悪魔」を見出すこと。もう一つは、その子供の攻撃性を承認すること(幼児のダークサイドって「ちいちゃん」みたいな感じかしら)

幼児はその「口唇期のサディズム」で攻撃性を発揮し、対象である親を冷酷・無慈悲に扱います。中には母親の乳首を噛む子もいるでしょう。その噛むという表現は、母親の体を希求しており、それだけ母親の体を「愛している」ことの表れなのですが。

しかし、子供がそれだけ攻撃性を大人に向けながら、それでもなお大人が倒れずに子供の前に立ちはだかるとき、子供は罪悪感を発達させることができます。罪悪感は、自分にとってポジティブなものを自分は破壊しようとしたという意識から生まれます。その罪悪感を子供が発達させるには、それだけ親が子供にとって「よいもの」である必要があります。ここで言えば、子供の攻撃にもかかわらず、今なお子供を保護するだけの強さを持った存在であり続ける必要があります(そして、私たちの社会のほとんどの人が罪悪感を持っているという事実は、その人たちの親が子供の攻撃に対して「生き残った」という事実を表しています。つまり社会のほとんどの親は、子育てに成功しているということです)。

この場合の、親が子供の攻撃に対して「生き残る」とは、例えば子供の攻撃にもかかわらず親は強い存在であり続け、また「彼女自身であり続け」、自分の子供に共感し続けることなどを指します。

赤ちゃん・児童は、自分の攻撃にもかかわらずそのように「生き残った」親に対して「罪悪感」を感じ(このとき幼児は、この世には「悪」が存在し、自分はそれを親に対して駆使してしまったと気づきます)、愛する者のために自分の攻撃性を抑制することを学びます。ウィニコットは、本来であれば赤ちゃんはもっと母親の乳首を噛むにもかかわらず、実際に噛むのは(授乳回数に比べて)わずかであり、それは赤ちゃんが妥協することを学んでいるからだと指摘します(しかしそのわずかな回数で母親は、一時的にですが、赤ちゃんに憎しみを覚えてしまうのですが)。

罪悪感を学ぶこの機会に、同時に赤ちゃんは、自らがなした「悪」を償おうという意欲をも身につけるようになります。そこで、自分の攻撃に耐えてくれた大いなる存在である母親に対して、赤ちゃんは、気遣い・思いやりというものを発揮するようになります。

(この気遣い・思いやりと同時に、ウィニコットによれば、遊び・仕事・芸術なども、自らの攻撃行為を悔いる気持ちに由来しており、それらは「空想における危害への後悔の念」「事を正したいとする無意識の願望」の表れだということです)

世界に対するこのような建設的な態度は、親・大人が自分の攻撃性を承認し、自分の攻撃を親が受け止めてくれたと子供が感じたときにのみ発生します。攻撃性とは人間・幼児の本能であり、それを大人に認めてもらったときにのみ、子供は自分の攻撃性を償い、自分から親・周りの人に対して貢献しようという意欲をもつようになります。

逆に言えば、親・大人が自分の攻撃性を受け止めくれていると感じないとき、子供はその親に対して償おうという意欲・すなわち気遣いや思いやりの能力を発達させることはできません。子供が償いの気持ちをもつには、自分の攻撃行為を償うに足るだけの価値が自分の親にはあるのだと思わなければならないのです。

自分の親がそのような価値を全くもたないと子供が思うとき、つまり親が子供に対して全く反応せず、子供に共感を寄せないとき、子供は思いやり・気遣いはおろか親を攻撃することすらしないようになります。

言い換えれば、子供が少年・少女になり非行に走るとき、それはまだ自分の攻撃性を親・大人・社会は受け止めてくれるのではないかという期待をもっていることを意味します。自分の攻撃を受け止めるだけの強さが保護者たちにあると確認できることは、彼らにとっては、幼児の時には確認できなかった保護者の強さを実感することであり、自分を保護してくれる存在を実感できることだからです。

非行に走る、つまり暴力行為や盗みなどは、それだけ自分を巡る親・大人・社会の強さ・安定度を試す行為だと言えます。幼児の頃に保護者の強さを感じることができなかった少年・少女は、成長してなお、大人たちに強さを求めます。彼らは未だに周りに攻撃をしかけることで、大人・社会は自分たちを保護できるほどの強さを持つことを実感したいという欲求を抱えています。

少年少女の反社会的傾向は、自分の破壊的な行動から生ずる緊張に耐えうるだけの量の安定性を探していることの表れです。彼らは社会の枠組みを再構築するよう大人たちに強いています。ウィニコットは、人間は、そのような安定した枠組みにおいてのみ、自発性や思いやり・気遣いという建設的な態度を養うことができると指摘します。

また盗むという行為は、子供たちにとって、自分が当然得る権利がある母親を探し求めていることの表れだと著者は指摘します。

このようにみると、非行に走る少年少女に対しては、もちろんケースによって取るべき対処方法は違うでしょうが、その攻撃衝動を是認するという態度が基本になるべきということになります。このことは、攻撃を「容認」するということとは違います。

反社会性とは、この社会は自分を保護できるほど安全ではないという少年たちの意識の表れです。彼らは幼い頃に、自分の攻撃衝動を受け入れるだけの存在に出会うことがありませんでした。そのような恐怖に満ちた社会に対して彼らが取ることのできる唯一の行動が、非行という反社会的行為です。

しかしそれは同時に、心の奥底では、自分の攻撃衝動を受け入れるだけの存在を未だに探し求めていることを意味します。まったく希望のない存在ではないからこそ、彼らはまだ社会を挑発し続けるのだとも言うことができます。

ウィニコットは、このような少年少女たちは、一度は親に愛情を与えられながらも、そのような愛情を剥奪された存在だと述べます。彼らが非行に走るのは、自分が奪われた安定した環境を取り戻そうと、もう一度社会の安定度を確かめようとしているからです。

彼らは「ほどよい母性的保護」を与えらなかったために、親や周りに貢献しようという能力を発達させることができませんでした。それは、ただ周りを攻撃するだけで、「自分は…である」と言う能力・すなわち安定した自己を発達させる機会を奪われたことを意味します。彼らの一部は、迫害妄想・幻覚をもち、「永遠に落ちていくこと・バラバラの断片になること・方向を失うこと」への恐怖に侵されています。

それゆえに、自分の周りを攻撃することしかできませんが、同時に自分の攻撃を受け止めるだけの強い保護者を求めています。そのとき初めて彼らは安心感を得て、自己というものを発達させることができるからです。

それゆえに大人には、彼らの行為を罰しつつも、彼らの動機を理解し共感することが求められます。また彼らを処罰する際にも、もし目的が彼らの更正にあるのであれば、つまり彼らに世界に対する建設的行動を求め、思いやりや気遣いなどの貢献を求めるのであれば、大人・社会は彼らの攻撃を受け止めるだけの強さをもつことを示すような態度が求められます。つまり、大人・社会は彼らに対して「強くて愛された信頼できる父親像」を子供たちに示す必要があるのです。そのことができない懲罰は、単なる「社会の無意識的な復讐の盲目的な表現」(p.223-4)です。


こうした視点は、少年少女と日々関わる人たちにとっては自明な見解なのでしょうが、それでも今一度、この社会に存在する「悪」の起源を私に確認させてくれます。つまり「悪」の発生の由来と、「悪」をなす人たちが本当は何を求めているのかということです。

少年たちの非行に関わらず、「犯罪」を犯した人たちに対する復讐の雰囲気が、最近はメディアによって安易に醸成されています。犯罪被害者の心情を今まであまりにも無視してきた反動で、今度は犯罪者に復讐することが正義だと主張する人が増えているのです。

ウィニコットの冷静な議論は、そのような視点を私たちにもう一度疑うことを可能にしてくれます。

同時に日々の生活のレベルでも、人間関係の間で行われる攻撃がどういう意味をもつのかについても、著者は気づかせてくれます。つまり、誰かを攻撃する人は、実はその人に負けて欲しくないし、実は攻撃対象となっている人に助けてもらいたがっているという事実です。

このことは、親と子供だけでなく、教師と生徒、先輩と後輩、上司と部下の間で頻繁に見られる現象でしょう。そのとき、「保護者」の立場にいる人たちは、じつは「部下」の攻撃に耐えることが求められています。

「生徒」「部下」「子供」は、実は「保護者」に自分の攻撃に耐えて欲しいのです。保護者が自分の攻撃に耐えてくれることで、保護者はとても強い存在であり、自分はその強い存在に守られているのだという安心感を「子供」は感じることができるのです。

今まで自分が見捨ててきた「子供」のことを考えると、余計にこの教訓の重みを感じます。

嫌う

2007年08月15日 | reflexion


私(たち)は、誰かを嫌うとき、必ずと言っていいほど、その嫌っている人の中に羨ましいと思っている部分があります。

羨ましいとも思わない人のことをわざわざ嫌いにはなりませんからね。

誰かを「嫌う」というのは、自分の「こうありたい」という欲求を素直に表現できないこと、それどころか「こうありたい」という欲求をもつことはよくないことと思っていることのあらわれなんでしょうね。

誰かを「嫌う」とき、私(たち)は、実はその人のようになりたいんですね。

映画 『レミーのおいしいレストラン 』

2007年08月14日 | 映画・ドラマ
映画『レミーのおいしいレストラン』を観て来ました。

この映画、上映されているのは吹き替え版ばかりで、字幕版はレイトショーのみ。洋画の日本語吹き替えは嫌なので僕は字幕版に行ってきました。

でも、今考えれば、べつに吹き替えでもよかったかもしれない。

洋画の吹き替えが嫌なのは、声優の演技が不自然に感じるからだけど、アニメーションの場合は元々も声優が喋っているんだから、日本語の吹き替えで観ても違和感はなかったかもしれない。

映画は、内容が始まるまでピクサー・ディズニーという会社の宣伝みたいなアニメーションが長い間流れていて、僕はちょっとイライラしてしまった。ひょっとして間違って別の劇場に入ったんじゃないかと思ったくらい(シネコンなのでたくさん劇場がある)、本編と関係ない・しかし予告編でもないアニメーションが流れるのです。

でも、本編は面白かったですよ。この映画は基本は子供向けで、でも作り手が決して「子供向け」として妥協したりせず、結果的にそのクオリティはだれが見ても傑作と思える水準に達しているのです。

こういうアニメを見ていると、実写もアニメも区別はないよなぁと思ってしまう。これは、技術的発展という以上に、作り手の意識が、アニメと実写の間の違いを超えようと狙っているのだと思う。

それは登場人物たちの表情やセリフの作り込みに表れている。本物の俳優に演技させて後から絵にしているのかもしれない。でもそれだけでなく、脚本や絵の構図も実写を思わせるのです。

その点日本のアニメは、実写とアニメを別物ととらえているところはないかな。

スリルも興奮も感動もある、子供が見ても大人が見ても満足できる、素晴らしい映画です。


レミーのおいしいレストラン オリジナル・サウンドトラック
サントラ
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ドライミスト

2007年08月13日 | 日記


クリーニングにズボンをもっていくと、一週間以上かかると言われました。お盆休みが始まるからです。

この一週間は暑さも格別なものになりそうです。

昨日のテレビでは、「ドライミスト」という、水によって外気の温度を下げる装置を取り上げた番組がやっていました。

まぁ、下がる温度は一度ほどらしいですけど、それでも大きな効果です。こういうのを見ると、誰も使わない道路や空港を作らずに、このドライミストをいたるところに設置してよぉと思ってしまいます。

財政支出も、もっとクリエイティブな発想に投資できるようになればいいですね。


最近思うこと

2007年08月12日 | 日記
キムタク(木村拓也さん)ってよくない?

僕は今まで彼に惹かれたことはなかったのだけど、最近のCMとか見ているとなかなかカッコイイように思うようになった。


井川くん、苦労してるんだね。

基本的にすべてを自分のペースでやりたい彼にとって、雑音の多いNYはやりづらいかもしれない。

でも、先発がだめなら、中継ぎで使っていけばいいのだと思うのだけど。一年ぐらいじっくり育ててやって欲しいのだが。

親子連れ

2007年08月12日 | 日記


毎日暑いですね。

街を歩くと、親子連れの姿を見かけます。どこかに遊びに行くのか、行ってたんですね。

やっぱり小学生くらいまでは、親とどこかに遊びに行くのが楽しいんですね。子供は皆楽しそうでした。

親子を見ていて気づくのは、子供は必死で親を喜ばそうとしているということ。しきりに母親にたくさん質問したり、注意を惹くために話かけていた子供もいました。

でも親は疲れているからか、あまり十分には返事しているようには見えません。

まぁ、親にしてみれば、いつものことなので、その都度応えていたら身がもたないのかもしれません。

ただ、親があまり返事をしなくても、子供の多くは何度も何度も明るく話しかけます。

子供も、親が疲れているのだと、知っているのかもしれないし、それでも話を聞いてくれていると分かっているのかもしれないですね。


『暴走する世界』 アンソニー・ギデンズ(著)

2007年08月11日 | Book
社会学者アンソニー・ギデンズの『暴走する世界』(“Runaway World”)は、本国では1999年に出され、邦訳は2001年に出されました。かなり前です。

その内容は、『モダニティと自己アイデンティティ』『親密性の変容』『第三の道』『右派左派を超えて』などでなされているギデンズの年来の主張を短いパンフレットにまとめたもの、という感じです。この本は、彼の主張をより人口に膾炙させることが目的だったのでしょう。

読んでいて「あ、そうか」と思わされたのは、歴史とは必然的に共同性を帯びた物語だということ。人によっては当たり前すぎる命題だけど、なんだか初めて腑に落ちた気がする。

自分が生まれる前から現在までのストーリを作るとき、それが国家の歴史であろうと民衆の歴史であろうと、その歴史の主役は共同体あるいはそれを代表する人であらざるをえない。自分が生まれる前からの歴史とは、すなわち自分が絶対にその確実性を信頼できない事柄だけれども、そういうことを語るということが、必然的に、自分と他者との結びつき、自分と他者との同一性を想定したものだということです。

「伝統を重視する社会では、人々が共有する信念と感情を通じて、過去が現在を設計する」(p.98)

言い換えれば、伝統(歴史)とは、人が他人と共有していると信じている信念と感情によって組み立てられるということです。

「伝統の崩壊」とは、人が他人と共有できる信念・感情が喪失することです。あるいは、これまで共有してきた信念・感情を信じることができなくなったとき、伝統(歴史)は崩壊します。

中・高で学ぶ歴史は、そのような他者と共有できる信念・感情が喪失したがゆえに、あれだけ無味乾燥な事実の暗記に終始しているのだろうか?それとも、一見無味乾燥に見える年号等の知識も、それを大量に頭に入れることで、一つのストーリーとして受験生に共感されているのだろうか?

ただ、いずれにしても、国から信念・感情を注入されたいと思う人は、どんどん減っているでしょう。

「美しい国」を作るとはどういうことだろうか?これまでの歴史(共有された信念・感情)をもう一度思い出すということなのだろうか?それとも、新しい歴史(共有される信念・感情)を作るということなのだろうか?

もし、新しい歴史を作るとしたら、それは「国家」という存在は自明でもなく、人々の生き方も、働き方も、結婚も、恋愛も、すべてはその時々によって変化しているという事実を受け入れることだろう。

今という時代にあった歴史を構築するとすれば、過去の歴史の中に、時代の動きが急速に変化し、人々が自明と思っていたものが崩れていった事例を探し、その中で人々がどう生き抜いたかを示すことだろう。

それによって私たちは、歴史に生きた人々と自分との共通性を感じ、つまり他者とのつながりを感じることができるだろう。




書籍 『コフートの心理療法』 中西信男(著)

2007年08月10日 | Book
『コフートの心理療法―自己心理学的精神分析の理論と技法』という本を読みました。著者は中西信男さんという方で、1991年に出されています。

この本を読もうと思ったのは、20世紀を代表する精神分析家ハインツ・コフートの翻訳『自己の分析』を読もうとして、しかしまったく読めなかったから。文字を追っても全然頭に入ってこなかったのです。それでもコフートの考えは知りたいと思ったので、上記の本を手にとってみました。

この本は、コフートの考えがとてもわかりやすくまとめられていて、かなり読みやすかったです。この本を読んだあとなら、コフートの書いたものを読んでも頭に入るかな。

「鏡映」「自己対象」「断片化」といった専門用語の使い方が一見してハッキリしないので、解説書を読んでもコフートの思想はすぐには分かりません。でも、じつはコフートの考えというのは、それほど複雑ではないように思う。

自己愛行動障害

コフートにとって、幼児とは他者すなわち大人に絶対的に依存しなければならない存在です。自分がどういう存在かも、また周りの世界がどういうものかも知らない幼児は、大人が彼(彼女)を支えて初めて、自分というものの存在と外界とを認識できるようになります。

コフートがユニークだった点は、おそらく、幼児が大人を頼る際に、その大人を理想的な存在として憧れるという心的傾向を通じて、幼児は自分自身の素晴らしさを認識しようとしているという洞察です。

幼児自身は無力な存在ですから、自分の価値を最初から感じることのできる幼児はいません。しかし同時に、すべての幼児は自分の素晴らしさを認識したいという心的傾向はもっています。

そのような時に幼児は、自分ではなく、自分を支えてくれる(はずの)大人を素晴らしい存在とみなそうとします。自分の代わりに自分の周りの人を理想的な存在とみなすことで、自分はその素晴らしい存在と共にいるという感覚を味わい、自分の価値を確認しようとするのです。これはつまり、自分の「素晴らしさ」を大人に鏡映(投影?)しているということです。

もしその幼児の大人たち、とりわけ親たちがその幼児に対する十分な愛情と世話を与えた場合、幼児は成長するに従って、自分が親たちに投影していた「素晴らしさ」は、じつは自分の幻想にしか過ぎないという事実に気づくだけでなく、同時にその事実を受け入れることができます。それだけでなく彼(彼女)は、親に投影していた「素晴らしい」という価値は、親ではなく本来は自分自身に見出すべきものであることを認識するようになります。コフートの言う「変容性内在化」「自己対象の内在化」とは、おそらくこのような事態を言おうとしています。

しかし、私たちの殆どがそうであるように、そのような理解ある親に恵まれることは稀であり、また私たち自身が完璧に理想的な親になることも稀でしょう。コフートはそのような事態で育った人たちの心理分析に取り組みます。

上で述べたように、無力な存在である幼児は、自分の価値を認識するのが困難であるがゆえに、自分を世話する大人に価値を見出そうとすること(理想化)で、自分は素晴らしい人と共にいることを実感し、それによって自分にも価値を見出すことを試みます。

しかし、大人(親)がその幼児に対して十分な配慮を見せず、幼児の期待にそぐわない行動を見せたとします。このとき幼児は、親を理想化することができないがゆえに、その親と共にいる自分にも価値を見出すことができません。その時に幼時に起こる心理現象を、コフートは「断片化」「弱体化」と呼びます。

言い換えれば、それは一貫した「自己」という存在を実感できない状態です。自己価値を見出していないがゆえに、本来自分は何が好きであり何がしたいのかといったことも分からなくなるのです。

このように自己価値を見出せず、それゆえ「一貫した自己」「凝集した自己」を維持できないがゆえに、その幼児は年齢的に成長しても、不安・自信喪失という傾向を持ち続けます。著者の中西さんは、コフートはこのような人の心理傾向として、喜びの喪失、批判・失敗を指摘されることへの敏感さ、引っ込み思案、孤独の苦痛、人と出会うことへの抵抗などを指摘しているといいます。

またそのような心理的に萎縮した状態の反動として、自己愛からの他人に対する激怒、傲慢さなどを見せます。また、自己価値・「一貫した自己」のが欠如しているがゆえに、「自己」というものを維持するために、自分の外側のものに依存していきます。それには、薬物やアルコール、同性愛などが挙げられます(同性愛を依存の例としてあげるのは、もしコフートが異性愛をも依存の例に加えないのなら、彼が偏見をもっていたことの例証かもしれません)。

「凝集した自己」の認識、すなわち「自己」という存在を一貫して認識することとは、例えば自分の記憶と現在の自分との関連や、自分のいる位置を時空間の秩序に照らして把握できることを意味します。しかし、大人によって感情的に十分に配慮されなかった子供は、「自己」認識が上手く行かず(例えば記憶喪失、現実検討能力の欠如、脱線する連想)、上記のような知覚作業を適切に行えません。

自分のいる位置を自分で把握できないことは、その人に自信の喪失や不安感を呼び起こし、成長しても、心気症をもたらし、あるいは指しゃぶりなどの刺激や、特定のもの(上で述べたように、同性愛・薬物・アルコールなどをコフートは挙げる)に異常に没頭することによって「自己」存在を確認し続けようとします。宗教への度を越した傾倒も、同じように解釈できます。また、盗みや非行なども、大人から十分な配慮を与えられなかったことの代償を求める行為として表れます。

また自分の中に価値を見出しえないことは、空虚さや孤独の感覚を生み、それが彼(彼女)の傲慢さや横柄な態度につながっていきます。

さらに、このような人は(すべての人に多かれ少なかれこれらの傾向はあるのですが)、大人(親)は自分の期待に十分に応えてくれなかったという想いをもち続けています。かれ(彼女)は、自分の周りの人が無力な存在である自分に代わって素晴らしい存在であることを求め続けます(理想化)。しかし、このような期待はいずれ破られます。ただ、健全な自己をもつ人は、そのような事態をも受け入れることができるのに対し、「自己の凝集性」を喪失した人は、元々内面が空虚であるゆえに、自分の期待が周りの人間によって適えられなかったという事実に耐えることができず、更なる喪失感を抱え込むことになります。

分析家の対応

このような自己愛行動障害をもつ人(上でも述べたように、多かれ少なかれ誰にでもこの傾向はあります)に対して分析家は以下のように対応することが求められる。

まず、「患者」は必然的にカウンセラーを、かつての親の代わりとして、自己の理想を実現する存在として見なします(転移)。患者は、自己の空虚感を埋めるため、分析家を理想的な存在と見なすことを通して、それと共にいる自分の価値を確認しようとするのです。

分析家がまずすべきことは、そのような患者に十分な共感の姿勢を見せ、患者にとって自分が味方であることを示すことです。精神科医の神田橋條治さんは、セッションにおいて治療者の患者に対する「抱え」を強調していますが、それはコフート(中西さん)が言う共感と似ているのだと思います。

それにより患者は、ますます治療者を「理想の親」として見なすようになります(理想化転移)。同時に患者は、そのセラピストが患者の素晴らしさを認めて欲しいという欲求も持ちます(鏡映転移)。

治療者は、患者が自分に対して理想化を行っていることを認めた上で、一時的に安定した関係をきづきます。その関係が築き上げられた上で、治療者は患者に対し、患者が行っていることは「転移」であり、治療者は患者の理想の保護者にはなりえないという「説明・解釈」を提示します。

ここで患者は、子供時代と同様に、理想化に失敗することになります(「自己対象の失敗」)。

このように、親や周りの大人が自分にとって理想の保護者ではないという事実は、誰もが遅かれ早かれ直面するものです。ただ、普通の人の場合は、それでも一定程度の配慮を親から与えられ続けたがゆえに、失望を経験しながらも、自分の親が理想の存在ではないという事実を受け入れることができるのです。また同時に彼(彼女)は、親に見出そうとした価値を、今度は自分自身に見出そうとします(「自己対象関係の内在化」)。

しかし、そのような一定程度の配慮すら親(大人)から与えられなかった人は、失望感があまりにも大きいため、親が理想の存在ではないという事実を受け入れるだけの心理的余裕を発達させてくることができませんでした。そのために彼(彼女)は、自信の喪失など上記に挙げた様々な症状を見せるようになります。

したがって、セラピストがそのような患者に対してすべきことは、患者にとっての理想の親という役割を演じ続けることではなく、セラピストは患者の理想の親にはなりえないという事実を患者自身が受容できるようにサポートするということになります。コフート(中西さん)の見方では、そこでセラピストは、患者に対して十分な共感を見せることが必要になります。

そのような「抱え」の姿勢を示すことで、患者が、患者自身が過去に味わった過去の児童期の失望を受け入れ、患者が自分自身に対しても共感的姿勢をもつことができるようサポートしていきます。

そのようにセッションが成功裡に進めば、患者は周りの人間の中に見出そうとしてきた理想的な人間のあり方を、自分自身の中に今度は見出そうとします。つまり、自分には価値があるということを意識し始めるようになります。



社会学者のアンソニー・ギデンズは、現代の人間の心理を特徴づけるのは、「良心」と「罪の意識」(フロイト)ではなく、「恥」(コフート)であると指摘しています(『モダニティと自己アイデンティティ』)。

コフートにとって「恥」が人間の心理を特徴付けるのは以下の理由によります。人間には元々「理想的にこうありたい」と願う想いがあり、その想いを実現するためにまず親(大人)を理想的な存在であるとみなします。しかしそれは、本来は自分の中に見出したいと願っているものなのですが、無力な存在である幼児は、自分はそんなことに値するとは思えません。そこで、大人を理想的な存在と見なすことで、なんとか自分の価値を確認しようとするのです。

しかし、遅かれ早かれ、幼児は、親(大人)がそのような理想的な存在ではないことを知ります。そのとき幼児は、自分自身もがそのような理想からは遠いと感じ、自分の中が空虚であると感じます。

多くの人はその児童期の経験をもちながら成長します。つまり彼は、自分自身は不十分な存在であると思い続けます。それが「恥」を感じるという心理傾向につながります。

これは別の面から言えば、人間にはつねに「理想の存在でありたい」と願う傾向があることを意味します。

フロイトにとって人間の心理は、衝動(エス)とそれを抑圧する超自我が主な役割を果たし、それゆえ人間は罪の意識と良心によって縛られる存在とされていました。

それに対しコフートは、人間は、理想を追い求める傾向と、それが挫折することによって、その人生が形成されていくと考えます。

コフートが芸術の人間に対する価値を認めるのも、芸術は、人間が幼児期の失望により空虚さ・「自己」の喪失を味わう中で、「自己」を再統一しようとする表れだからです。

また芸術だけでなく、つねに自己の理想・野心を追い求める傾向と、自分が持つ技能とのバランスをはかりながら、自分の創造性を発揮させようとする性向を本来は人間は持っているという見解にもつながります。


ただ自分の衝動を飼い馴らすことだけを考えることよりは、それは人間のあり方の中に希望を見出せる視点ではないかと思います。

写真集 “PHOTOGRAPHS” 上田義彦

2007年08月10日 | 絵本・写真集・画集
上田義彦さんの写真集PHOTOGRAPHSを見ました。

これはどういうコンセプトの写真集なのだろう?とにかく、これまでの上田さんの仕事の中から何枚かをピックアップしたという感じ。

僕は上田さんのこれまでの業績を詳しくしらないけど、傑作写真集という感じもしない。かといって、上田さんが特に思いいれのあるものを集めたという感じもしない。もっとも、それは本人に聞いてみないと分からないけど。

でも、にもかかわらずというか、だからこそというべきか、写真家・上田義彦の特徴がよく出ている写真集であるとは言えるのかもしれない。

上田さんの写真は、被写体を“モノ”として撮っている。その被写体から何か生命力が湧き起こる、という感じではないように思う。むしろ、被写体が本来もっていた生命が消され、上田さんによる構図によって新しい存在として再構成されている。それはあくまで上田さんの構築物であって、その被写体が元々持っていた独自性はそこに存在しない。

それは、写真家による独自の視点、というよくある言い方とは違う。むしろ、写真家によって、被写体は写真の中で別の存在としてあるのです。

私はそんな印象を受けました。



PHOTOGRAPHS
上田 義彦
Editions Treville

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今年の夏

2007年08月09日 | 日記


とても暑い日が続きます。


今年の夏と今までの夏との違いは、蚊取り線香を全然使っていないこと。

なぜだろうか。

刺されたらムヒで対応しています。なんだかそれで十分だ。

クーラーをかけるときは部屋を閉め切るし、寝るときは扇風機をかけているからから、蚊が寄ってきません。

なければないで、やっていけるんですね。