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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 2

2007年03月15日 | Book

             草に立てられた白いフェンス


『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著)1 からの続き

家庭内暴力かロマンティック・ラブか

上で述べたように、「ロマンティック・ラブ」とはパートナーに対する感情的な依存の表現であり、ギデンズにとって克服されるべき感情の状態です。またおそらくギデンズは、近代が生み出した「ロマンティック・ラブ」という概念と、「家庭内暴力」の発生とは、同じ根をもつとみなしています。

「ロマンティック・ラブに対する抑圧されたこだわり」においては、人はパートナーを「特別な人」とみなし、「この人が私を完璧にしてくれる」“You complete me.”と想うようになります。ギデンズは「ロマンティック・ラブ」に陥った人の感情を、有名な「共依存」という概念で説明します。彼は次のように述べます。

「共依存症の《人》とは、生きる上での安心感を維持するために、自分が求めているものを明確にしてくれる相手を、一人ないし複数必要としている人間である。つまり、共依存症者は、相手の欲求に一身を捧げていかなければ、みずからに自信をもつことができないのである」(p.135)。

ギデンズは、「ロマンティック・ラブ」に衝動強迫的に依存していく女性たちは、家庭生活上の役割(「例えば、家事や子供たちの要求に対する儀式化した没頭」)に執着していくと指摘します。そのような役割への執着の中で、女性たちは自分のアイデンティティを自分以外のもの、それはパートナーであったり、「固着化した日々の型にはまった行い」(上記の家庭上の役割など)であったりしますが、に見出し、自分で自分を律することが不可能になっていきます。

ただし、女性にとってはこの「ロマンティック・ラブ」の状態は、自分たちの感情をどう表現すべきかについて模索している中での過渡的形態でもあります。彼女たちは愛情のあり方を模索している過程で、「ロマンティック・ラブ」は自らを自由にしないことを認識し、より自由で対等な関係をパートナーと築く「ひとつに融け合う愛情」を求め始めています。「ロマンティック・ラブ」はそこにたどり着くまでに女性たちが払った決して少なくない犠牲でしたが、それにより女性たちはますます自分の感情と向き合うことが可能になっています。

それに対し男性は、近代を通じて感情の開発をもっぱら女性に委ねてきたため、女性が「ロマンティック・ラブ」に没頭しているにもかかわらず、というよりだからこそ、自分たちの感情に向き合うことを拒否してきました。

最初に指摘したように、男性にとって愛情・感情とは母親の下から離脱した時点で棄て去っているのであり、それ以降彼らは父親のペニスと自己を同一化し、経済と政治という競争の世界で活動することに専念してきました。その過程で男性たちは自己の感情を切り捨ててきたため、あるいは自己の感情をヨリ意識の奥に埋め込んでしまったため、意識できない過去の記憶・感情に振り回される結果に陥っています。自分たちが母親の愛情を切り捨て、また切り捨てたことの罪悪感をも意識の奥に深く埋め込み、その記憶に向き合うのを男性たちは拒否しているため、自分たちが持っている罪悪感に気づかず、それゆえにその罪悪感から逃避するための行動に埋没していきます。その行動の一つが「仕事」であり、性愛の場面ではポルノなどへの没頭です。

(ポルノは男性たちにとって、性愛に含まれる感情から目を背けることを可能にし、ペニスの局所的な快感にのみ耽ることを許してくれます。近代におけるポルノ産業への男性たちの没頭は、性欲をもちながらそれをパートナーへの愛情と結びつけることに恐怖をもつ男性たちが、自己の感情に向き合うことから逃避していることの表れです)。

ギデンズは次のように説明します。

「男の子に関する限り、母親との断絶は、男の子の女性に対する依存心が隠蔽され、そして、無意識のレベルで、また多くの場合意識のレベルにおいても否定されていくという帰結をもたらしている。そのため、男の子はその後の人生で、セクシュアリティを、自己の再帰的自己自覚的叙述のなかに組み入れていくことが困難になる。繰り返していえば、男性が抑制するのは人を愛する能力ではなく、親密な関係性を維持するために重要な感情的自立なのである」(p.187)。

このような自己の感情と向き合うことへの怖れのゆえに、男性はパートナーに自分の感情をさらすことを怖れます。またこのような怖れのゆえに、男性は性愛に含まれる愛情という感情に触れることを拒否し、性を愛情ではなく、むしろその反対物である暴力と結び付けようとします。ギデンズは次のように述べます。

「勃起した男根が本当にペニスになるまで、男性のセクシュアリティは、一方で、暴力の行使を含めた有無を言わせない性的支配と、他方で、性的能力に対する絶え間ない不安とのおそらく板ばさみになっていく」(p.177)。

男性が女性に対して性的暴行をふるうのは、歴史を通じて全般に見られるものという印象があります。しかし著者によればそれは正確ではなく、むしろ前近代においては、平和時においては、統治が行き届いている範囲において、女性たちは近代よりも暴力にさらされることは少なかったと指摘します。たとえ女性たちが前近代においても暴行を加えられていたとしても、それはあくまで「社会の周縁部で、つまり、辺境の地や植民地、交戦状態、未開な状態で、さらには掠奪軍や侵略軍の間で」頻繁に行われていたのであって、そのような場面で危険にさらされていたのは女性だけではありませんでした。

たしかに前近代において女性は男性よりも低い地位にあり、すなわち女性は男性の「所有権」の支配下にありました。しかしこのことは同時に、男性にとって女性と付き合う上で自己の感情を考慮することなく、「所有権」という外的な制度に頼っていさえすればよいことを意味していました。

近代は、この男女の不平等を作り出す障壁を取り壊してきましたが、それゆえ男性たちは女性と向き合う際に伝統的な制度・慣習にもはや頼ることはできなくなりました。そのとき男性たちは、制度に頼ることもできず、かと言って生身の自分の感情をさらけ出して相手と向き合うような勇気をもつこともできませんでした。そのとき男性たちは女性と付き合う際に、自己の不安を押し隠すために、暴力に頼ることになります。ギデンズは次のように説明します。

「(近代では)女性は未だかつてないほど頻繁に匿名性の高い公けの舞台で生活し、働いており、男女を遮断してきた「分離し、かつ不平等な」隔壁は実質的に崩壊してしまった。男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつのである。言い換えれば、今日、男性の性暴力の多くは、家父長的支配の連綿とした存続よりも、むしろ男性のいだく不安や無力感に起因しているのである」(p.183)。

このような男性による性暴力あるいはポルノへの没頭は、ギデンズによれば衝動脅迫的なものとなっていますが、それは上で述べたようにこれまでよりかかっていた慣習が崩壊しているがゆえに、元々自律的な決定を行ってこなかった男性たちは自分たちの性愛欲をどう処理してよいかわからず、また愛情・感情を表現することは恐れているため、「取り付かれたように、しかも不安定な形で無意識に行動に表していく」という形を採っていくことになります(p.168)。


対等な関係の構築

ロマンティック・ラブと家庭内暴力に共通しているのは、どちらも固定的なジェンダーの役割に男女が固執していることです。女性は「特別な人」としての男性に期待し、男性は自己のどれである女性を支配する際にもはや伝統的慣習に頼ることができないために暴力に訴えます。男性は暴力で女性を傷めつけながら、同時につねに女性を自分の身近に置いておこうとします。ロマンティック・ラブにおいても家庭内暴力においても、当事者はパートナーが自分のそばにいることを病的に求めます。

それに対しギデンズが言う「純粋な関係性としてのひとつに融け合う愛情」とは、そのような外的なものへの依存ではなく、自身で自己を律しながら相手と付き合っていくという状態です。ギデンズに従えば、そのために必要なことは、自己と他者との境界をはっきり自覚していることです。著者は次のように述べます。

「親密な関係性とは、相手に夢中になるのではなく、相手の特質を知り、それを自分自身の特質に活かしていくことである。相手に心を開くためには、逆説的ではあるが、個人的境界が必要である。なぜなら、相手に心を開くことは、気持ちの通じ合いをどのように測るかという問題になるからである。相手に心を開くことは、個人的な考えを全く持たずに生きることではないため、心を開くためには、神経の細やかさや臨機応変の才も必要となる。関係性の中で人々が育む率直な心と傷つきやすい感情、信頼感とのバランスは、個人的境界がこうした気持ちの通じ合いよりを促すよりも、むしろ妨げるような障壁になるか否かを左右していくのである」(p.142)。

現代の私たちは、おそらく歴史上かつてないほどに、自分たちの感情を引き受けることを強いられています。それまで私たちは、かつては行動を伝統的慣習に合わせていればよく、一方では近代の開始とともに今度は経済・政治の世界の規律に、他方では「ロマンティック・ラブ」に代表される異性愛のルールにそって行動すれば事足りると信じていました。

しかし「ロマンティック・ラブ」が必ずしも自分たちを解放するわけではないことを知った女性たちは、より外的な規範から解放された人間関係=純粋な関係性を志向するようになっています。純粋な関係性においては、自分たちの行動をすべて自分たちで引き受けなければならないため、感情への対処においても、自分たちの中に生じる様々な感情を自分自身の中にあるものとしっかり認めることを人々は強いられています。

例えば、今日では男女関係において相手が処女か童貞であることを期待することは愚かとされています。また現在自分が付き合っている相手が以前のパートナーに対する感情を引きずっていることを否定するのも難しくなっています。そのような状況で生じる相手への疑いといった否定的な感情も、相手と付き合っていく上では引き受けなければなりません(p.203)。

私たちは誰かと関係を持つ際に、そのような疑いをもちながらも、「にもかかわらずその関係を維持するのだ」という決意をもつことを要請されます。そこで必要とされる心的態度が「コミットメント」です。ギデンズの次の記述は同性愛女性に求められるコミットメントについての説明ですが、それは同性愛女性にかぎらず現代における人間関係全般に当て嵌まる内容です。

「コミットメントを生み出し、共有の歴史を作り出すためには、一人ひとりが相手のために尽くしていく必要がある。つまり、その女性は(女性に限らないが 引用者)、二人の関係性が無制限に維持できる、いわば保証のようなものを、言葉や行いで相手に与えなければならないのである。しかしながら、今日の関係性は、かつて婚姻関係がそうであったように、ある極端な状況を除けば、関係の持続が当然視できる「おのずと生じていく状態」ではない。純粋な関係性の示す特徴のひとつは、いつの時点においてもいずれか一方の思うままに関係を終らせることができる点にある。関係性を十分長続きさせるためには、コミットメントが必要である。しかしながら、無条件で相手にコミットメントしていく人は誰でもみな、仮に万一関係が解消した場合には、将来きわめて大きな精神的打撃というリスクを冒すことになるのである」(p.205)。

現代の私たちはこのような精神的打撃を負うリスクを背負いながら、人間関係を構築する必要があります。すべての人が自分を裏切りうるという可能性を認めた上で、それでもなお相手を信頼するという勇気をもつことが、純粋な関係性においては求められます。著者は次のように述べます。

「純粋な関係性では、信頼感は外部からの支えをまったく欠いているため、人々は、親密な交わりをもとに信頼を育んでいく必要がある。信頼とは、相手の人間を信用するだけでなく、相互の絆が、将来生じうる精神的打撃に耐えうる力を持つ点を信用していくことでもある。…相手を信頼することはまた、相手の真に誠実に振舞うことができる能力に、一か八か賭けることでもある」(p.206)。

このような関係を構築する上では、一方では「ロマンティック・ラブに対する抑圧されたこだわり」に見られたように相手に「特別な人」となってもらうことを期待したり、他方では「家庭内暴力」で見られるように相手を奴隷として手元に置くように、パートナーをコントロールすることとは反対の態度が求められます。その際の難しさを著者は次のように述べます。

「自己のアイデンティティの流動性は、純粋な関係性が要求することがらを必ずしも受け入れることができるわけではない。信頼感は、相手が求めるいろいろな展開の軌道にともかくも順応していかなければならない。信頼には、つねにある程度の放縦さ(おそらく、相手が予測不可能な行動を取る可能性を認め受け入れることを指している 引用者)が必要なのである。誰かを信頼することは、その人たちを監視したり、その人たちの活動を特定の型枠のなかに押し込むのを、たとえその機会があっても差し控えることを意味している。しかし、人は、他者に対して認められる自立性を、相手が関係性の中でいだく要求を充たすようなかたちで活用するわけでは必ずしもない」(p.209)。


民主制に必要な感情的自律

ギデンズがこのような性的関係の変化を重視するのは、そのような性的関係に見られる感情の成熟度が、社会全体の秩序を見るバロメーターになるからです。

性的関係は、それが性欲を含むために、一方では双方に生の喜びを与える実り豊かな関係になる可能性もあれば、他方では支配・被支配の関係になる可能性を秘めています。外的規範が崩壊した現代においては、「純粋な関係性」を一から個々人は作り直さなければならないため、そのような支配・被支配の関係に陥る誘惑を避けながら、関係を構築する努力を迫られます。その際に人は、単に過去のパターンを繰り返し自分の感情を押し隠す行動を取るか、自分の意識・感情をつねに反省しながら自律的な決定・選択を行うかの二者択一を迫られます。

何をもって「自律的な選択」と呼べばいいのか、最終的な答えはありません。私たちは幼い頃は親から、大人になってからも周りから情報を得ることで、自分の選択を決めていきます。その際に、どこまで他人に言われたことに従っているだけで、どこから自分で決めて行動しているのかは、容易に境界を引くのが難しい問題です。

しかし、むしろ「自律的な選択」とは、そのような“答えの無いこと”を引き受け、絶えず自分の意識・感情への反省を怠らない態度を示します。自分が間違った選択を行う可能性を絶えず考慮に入れながら、そのとき正しいと思った選択を行うこと、それが「自律的な決定」に一つの特徴です。

それに対し過去のパターンを繰返す行動とは、自分は最終的な答えを見出したと思い込むことだとも言えます。それは、たえず自分は正義を行っているという思い込みのことを指す場合もあれば、アルコール中毒に陥ることも指します。アルコール中毒においては、中毒者は自分の人生の改変をあきらめ、人生のあらゆる可能性が閉ざされたという思い込みを持ちます。中毒者は、事実がどうであるかを吟味することは無く、人生の可能性はすでに閉ざされているという“最終解答”を握り締め、それ以上は自分の行動に反省を加える余地はないという決定を下します。すべてが終わりであるという“最終解答”をもった彼らは、自分たちから状況を変えるアクションを起こす責任を拒否し、例えばアルコールに耽るなどの逃避行動を行ないます(これはかなり単純化した中毒者の戯画化です)。

アルコールやドラッグ中毒にせよ、配偶者への暴力にせよ、それらに走る人たちに共通するのは、自分たちは答えを得ているという思い込みです。そのような中毒者たちは自分たちの行動を改変するための反省的モニタリングを放棄し、過去に形成された感情・行動のパターンに支配され続けることになります。

このように過去に支配された行動パターンは、男性においては、ポルノ産業への没頭・女性への誑し込み・家庭内暴力として表れ、あるいは「仕事」への中毒として表れます。母親の愛情を断ち、社会的なものを代表する父親のペニスと同一化しようとした男性たち(と一部の女性たち)は、母親の愛情を見捨てたという罪悪感に直面することを拒むために、ビジネスにおけるハードワークに陥り、そこで他者との競争を志向するようになります。ビジネスや政治の世界のおける男性たちの競争への没頭は、自己の感情に向き合うことを拒否することに由来します。

こう説明すると、なぜギデンズが性愛における感情の成熟度を、社会秩序を論じるうえで重要とみなすのかは一目瞭然であると思います。社会の秩序を不安定にする競争に男性(と一部の女性)が埋没していることと、男性たちが「純粋な関係性」を前に女性と成熟した感情の関係を結ぶことを怖れていることとは、明らかな対応関係にあるからです。

例えばギデンズは、政敵との競争のみを考えるのではなく、健全に政治的対話を行なうには、成熟した感情を備えることが必要なことを指摘します。

「民主制とは、討議、つまり意思決定を(そのなかで最も重要なのが政治的意思決定であるが)おこなう他のさまざまな手段に比べ、「より好ましい議論による説得力」を生み出すための機会を意味している。民主的秩序は、調停や折衝のための、さらに必要な場合には妥協を得るための、制度的取り決めとなっている。公開討論の遂行は、それ自体が民主教育の手段なのである。他の人々との討議への参加は、啓発された、もっと懸命な市民の出現を結果的にもたらすことができる。こうした帰結は、ある意味で一人ひとりの認識範囲の拡大に由来している。しかしまた、正統性の多様さは―つまり多元主義―の承認と、感情教育にも由来している。政治的素養を身につけた討議参加者は自分の感情を建設的な形で伝えていくことができる。つまり、論争術や感情的非難によって浅ましい考えに加担するのではなく、事実にもとづいた確信をとおして、論理的に判断を下すことができる」(p.275)。

人が競争を志向するのは、親から伝えられようとした愛情を自ら拒否したという罪悪感と、また同時に自分が親に求めた愛情が得られなかったという失望感に直面することを拒否することに由来します。そのような過去の子供時代の感情に直面することを拒否するとき、人は逃避のために競争的・攻撃的な態度を取ることで過去の記憶・感情を意識の奥に押し込めようとします。

しかしギデンズが言うように、論争術などに陥らずに他者と健全な対話を営むには、そのような競争心を超えて、自分の感情をあますところなく感じ把握することが求められます。それは、自分の中にある感情を認めることが、自分の意識のパターンに支配されずに、自律的に考え行動するための条件だからです。

ギデンズの言う民主制とは、投票などの制度を指すのではありません。投票・選挙とは実態は競争の一種であり、建設的な討論ではなく形式的な手続による支配を意味します。むしろ“真の”民主性を志向するとき、人は、自分の意識の過去のパターンに支配されずに、そのときの論点をニュートラルに検討するだけの感情的成熟が求められます。

そ感情的成熟を備えた者同士の関係を著者は次のように描写しています。

「自己の自立は、民主的秩序に固有な他者の有す能力や才能に例の敬意を払うことを可能にする。自立した個人は、他者をやはり自分と同じ自立した個人と見なし、その人たちのそれぞれ別個な潜在的能力の発達を脅威とは受け止めないようになることができる。自立はまた、関係性の首尾よい管理運用にとって欠かせない個人的境界を定めることを促していく」(p.278)。

多くの心理療法が「感情に触れること」をセラピーの重要な手段として挙げていることをギデンズが重視するのは、これまで述べてきたように、それが―性愛の関係のみならず―他者との競争を克服してニュートラルに論点を検討しあうための感情的成熟を促すからです。そのような感情的成熟によって初めて、人は家庭でも、職場でも、また国会やサミットの場でも、相手と健全な対話を営むことができます。

そのような「感情を感じること」を、心理専門家に言われるよりも先に実践してきたのが、「ひとつに融け合う愛情」を志向してきた人たちでした。こうした人たちが実践している成熟した人間関係に、ギデンズは、現代と未来のあるべき人間関係の姿、また家庭・経済・政治において人が振舞う際の指針を見出そうとしています。

最初に述べたように、この本が出たのは15年前ですから、多くの社会学者にとってこの本の議論は古臭いかもしれません。またこの論点が古臭いのであれば、それは歓迎すべきことでもあります。そのとき社会学者や専門家たちは、ギデンズが指摘した「感情に触れること」の重要さを踏まえたうえで、あるべき人間関係の姿、また家庭・経済・政治において人が振舞う際の指針について、この本以上に詳細に論じているに違いないからです。

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