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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 1

2007年03月15日 | Book

             花壇の中の二人


社会学者のアンソニー・ギデンズが1992年に発表した『親密性の変容』を読みました。もう15年も前の本ですが、僕自身が考えたい問題の論点はここですでに論じられているという感じです。現在の社会学者たちにとって、この本の論点はすでに古臭いのだろうか?あるいは今でも読まれているのか?

この本で触れられていることは、「アンソニー・ギデンズ」という名前がなければ学者たちは気にも留めないことかもしれない。この本であからさまにギデンズは、巷に氾濫するセルフヘルプ・ポップ心理学・恋愛エッセイの価値観を積極的に肯定しているのだから。

この本に限らないのですが、ギデンズという人の文章・主張は一見平板でありながら、重要なことをポロッポロッと言います。また饒舌でありながら、その重要な論点を徹底的に論理的に突き詰めることもしません。読みやすいようで読みにくいのですが、この本の中でわたしにとって印象的だった部分を紹介したいと思います。

この本の副題には「セクシュアリティ、愛情、エロティシズム」という文字が並べられています。その通り、この本では現代社会におけるこれらの感情・心理のあり方が分析されています。ただギデンズはそれらの問題を、単なる個人の私生活上の問題として論じるのではなく、この「セクシュアリティ、愛情、エロティシズム」に対する個人の心理・感情のあり方が現代の人間のあり方を分析する際に決定的な指標となるのであり、また個々人がいかに「セクシュアリティ、愛情、エロティシズム」に向かい合うかが、その人が私的・公的生活において他人とどのような関係を結ぶのかに決定的な影響を与えているとみなします。

男性の不安

「セクシュアリティ、愛情、エロティシズム」というと女性が得意とする分野だと思いますが、ギデンズはこの本でむしろ男性がなぜこれらの分野に及び腰になるのかを積極的に問おうとします。

例えば精神科医のジュディス・ハーマンは著書心的外傷と不安の中で戦争・家庭内暴力・幼児虐待等における被害者が深刻な心的外傷を負う要因と回復の条件を詳細に描き出しましたが、なぜ加害者たちがそのような加害を行うに至ったかには触れませんでした。ギデンズがこの本で対象とするのは、主に加害者となる男性たちが暴力行為へと駆られていく要因の分析だと言えます。

男性が特有の感情的不安を抱える原因についてギデンズは、おそらく多くの論者と同じように、エディプス・コンプレックスをもつことを挙げています。

男の子にせよ女の子にせよ、異性の親に愛情を持ち、それゆえ同性の親をライヴァル視することは共通しています。

ただ違うのは、女の子が母親をライヴァル視しつつも、女の子であるゆえに同じ女性として母親から女性特有の濃やかな愛情を受け継ぐ傾向があるのに対し、男の子はまさに母親とは異なる性であるゆえに、母親に愛情を抱きつつも母親から〈外の世界〉へと投げ出される傾向があるということ。著者は次のように述べます。

「男の子は、自分が頼りにする最も重要な、最愛の大人である他ならないその人によって、男たちの世界へと遺棄されていくため、生きる上での安心感のまさしく源泉となる基本的信頼は、本来的に危険にさらされているのである」(p.173)。

このことから男性は、「根深い不安感、つまりその人のそれ以後の無意識の記憶に絶えず付きまとう喪失感」を抱えながら生きることになります。

(たしかに母親と息子が一種独特の強い感情的結びつきを持つことはありますが、それはあくまで例外であるがゆえに注目を浴びているというだけです。むしろ大部分の男性は、〈男らしさ〉を身につけるべく、母親の女性的愛情とは距離を取りながら成長していきます)

著者によれば、この母親からの分離により濃やかな感情から疎遠にされた男性たちは、感情という自律的感覚の基盤を失ったがために、代替的な支柱を求めます。その代替物が〈勃起したペニス〉です。この勃起したペニスは子供(男女とも)たちにとって、「母親の愛情や気遣いから距離を取ることができる能力だけでなく、母親に対する抗し難い依存状態から自由になること」の象徴として映ります。この「母親への依存からの自由」とは、言い換えれば「外的世界の具現者たる父親との同一化」を意味します。

このペニスへの同一化の願いは、男の子にとって、母親の濃やかな愛情を手放し、「外の世界」に踏み出し、「自由」と「強固な意志」を手に入れることを意味します。それゆえに男性(性)はより活力に満ち、闘争的になります。ただし同時に、これがギデンズのこの本の中心的な論点ですが、男子はその積極的な行動の裏に、母親の濃やかな愛情を失ったという「原初の喪失感」をつねに隠し持ったまま生きていくことになります。

ここで男性は、母親によって教えられる感情ではなく、ペニスという物体に依存した生き方を指向していくことになります。ギデンズによれば、このことが現代の男性を感情面での不全に陥らせ、ひいてはそれが経済・政治生活においてマイナスの影響をもたらしているということです。

ロマンティック・ラブの出現

ペニスというのは、まさに性的能力を有す身体の一部であり、異性・同性との身体的接触を促す性器です。性的側面で男性がペニスに頼ること自体は、おそらくあらゆる歴史上の時期において共通すると思います。ただ現代がそれまでの時代と異なるのは、男性が〈性〉の面でペニスに頼り続けるのに対し、近代になって女性が、おそらくヴァギナなどの性感帯以外の部分で〈性〉について考える習慣をもつようになったことでした。

たしかに女性あるいは母親が男性に比して濃やかな愛情を感じ表現する傾向は歴史的に一貫して見られるものだったでしょう。ただ近代の特徴は、女性がその感情表現能力を、自分の人生の発展に積極的に応用し始めたことでした。女性はその感情表現能力を発展させ、異性・あるいは同性との関わりを〈性愛術〉〈性的快感〉といった局所的な体験に止めず、〈恋愛〉という人生の重要な局面としてみなして行くようになりました。

分かりにくい表現を使ってしまいましたが、要するに、近代以降の女性たちは、〈恋愛〉というものを考える際、男の子以上にそれを自分の人生を展開させる推進力とみなしていきました、いわば〈恋愛〉は、それまでの伝統の楔から解き放たれた自由な人生を表現するものとして、女性たちの憧れとなりました。

〈恋愛〉を考える際にギデンズは、〈情熱恋愛〉〈ロマンティック・ラブ〉〈ひとつに融け合う愛情〉という三つの類型を挙げています。

〈情熱恋愛〉とは中世の貴族同士に見られた恋愛を指します。それらの恋愛は、あくまで生活の糧の心配の無い者たちが行うゲームであり、そこでどれだけ感情的なもつれが起き、当該者たちに真剣さがあろうとも、それは当該者たちの人生を大きく変革するものではありませんでした。どれほどその恋愛が真剣なものであろうと、それは貴族の特権的な生活の領域内部でのみ成立するゲームでした。

それに対し、〈恋愛〉が個々人の人生を大きく変革する様相を帯び始めたのが、〈ロマンティック・ラブ〉の出現でした。

〈情熱恋愛〉が性愛と感情の高まりを同時に実現し、それゆえに生活習慣を一時忘れさせるものだったとすれば、〈ロマンティック・ラブ〉とはそのような現実逃避ではなく、より人生を積極的に展開させるための重要な体験としてとりわけ女性に受け止められてきました。

ギデンズは〈ロマンティック・ラブ〉の特徴を次のように述べています。例えば女の子にとって初体験とは、男の子とは異なり、単なる性的快感や性技の経験を積むことではなく、むしろ自分の人生の構築に関わるひとつの重要なイヴェントとして受け止められています。それゆえ彼女たちにとっては初体験において重要なのは、「最適な時と条件をどのように選択するか」であり、また彼女たちは自らに「相手は自分のことをどう思っているだろうか?二人の思いは、長期に及ぶ親密な関係を十分支えるほど「心底深い」ものだろうか?」「私は、性的欲望によって、自分の将来の生き方を決めていってよいのだろうか?私の性的欲望は、私に性的な力をもたらしてくれるのだろうか?」といった反省的な問いを絶えず投げかけます。それにより女の子たちは、自分の人生をより自分の気に入るようにコントロールして構築しようとします。そのことをギデンズは、「多くの点で精神的に苦しい、不安だらけの過程であるが、それにもかかわらず未来に参加していくための積極的な過程」と呼びます(p.72,80-81)。

こうして恋愛は、世俗の雑事から解放されるためのゲーム(情熱恋愛)から、むしろ人生を積極的に構築していくための契機(ロマンティック・ラブ)へと変貌していきました。ロマンティック・ラブにおいても性的快感は重要な要素ですが、同時に別の要素が恋愛に入り込みます。〈ロマンティック・ラブ〉の関係においては、男女双方にとって「高潔さ」(“integrity”か?)が相手に求められ、それは場合によってはセクシュアリティよりも重要になります。相手に対して「高潔さ」を見出すことにより、自分にとって相手は道徳的潔白さを備えた「特別な存在」として映るようになります(p.65)。

また〈情熱恋愛〉にとっては〈一目惚れ〉は、相手の持つ性的魅力への反応を意味しています。しかし〈ロマンティック・ラブ〉における〈一目惚れ〉は、相手の人柄の直観的把握であり、すなわち「自分の人生を、いわば「申し分のない」(“impeccable”か?)ものにしてくれる人に魅了されていく過程」として体験されます。

こうしてまず、女性は恋愛を、自分の感情を表現し、それによって自分の人格と人生を構築する契機とみなしていくようになります。多くの男性たちが今でも恋愛を現実逃避or余暇の楽しみとしてとらえて、人生上の休日に行うものとしてとらえるのに対し、女性たちは近代になって、それまでの伝統の楔と役割から自分を解き放つ契機として恋愛をとらえるようになりました。多くの女性にとって恋愛は、自分の人生を表現する手段であり象徴となります。それゆえに女性は、恋愛においては性的快感のみならず、その恋愛を豊かにするために、濃やかな感情を積極的に表現するようになりました。彼女たちにとって感情表現は、人生をより彩り豊かなものにするために不可欠なものでした。それに対し男性は、依然として恋愛以外の領域を人生の主要舞台とみなしているため、その舞台である経済・政治の領域では感情を切り捨てたまま生活を行います。

おそらく多くの社会学者が認めるように、このような感情の開発が女性に主に委ねられていった原因の一つとして、〈母親の理想化〉〈母性概念の創出〉が挙げられます。工場・事務所などの近代的組織の出現に伴い職場と家庭が切り離されることで、家庭の運営は母親に全面的に委ねられるようになります。それにより子育てと感情面の開発はより女性に委ねられるようになりました。

ロマンティック・ラブは、一方では近代になって女性が家庭に押し込められたがゆえに、女性たちが自らの感情面の開発に没頭することによって生まれました。家庭という役割にたしかに女性たちは束縛されていたのですが、それは前近代の家族・コミュニティとの結びつきはもたないため、より自由に自分の感情を見つめることを女性たちに可能にしました。それが結果的には、後の世代の女性たちにとって、ロマンティック・ラブをより自由な人生を送るための手段へと変えていったのです。ロマンティック・ラブは、女性たちが家庭を自由に支配する感情の開発に取り組むことを可能にすると同時に、家庭を飛び出てより自由な人生を送ることが可能であるという信念をも女性たちに植え付けることになったのです。

ロマンティック・ラブからひとつに融け合う愛情へ

面白いことは、また分かりにくいことに、ギデンズはおそらく「ロマンティック・ラブ」とはべつの恋愛観が、より現代の恋愛の理念型として重要であると考えていることです。それは「ひとつに融け合う愛情」という恋愛のあり方です。

「ロマンティック・ラブ」は、現代の私たち、というより多くの女性たちが「恋愛」とみなすものに近いか同じだと思います。

ギデンズは「ロマンティック・ラブ」という言葉を正確に使う際、「抑圧されたロマンティック・ラブへのこだわり」と言います。私の印象では、これは簡単に言えば、「恋愛」という幻想への執着という意味だと思います。著者によれば「ロマンティック・ラブ」とは、「将来パートナーとなる人どうしが互いに心をひかれ、強く結ばれるようになるための手段である《情熱恋愛》という自己投影的同一化が図れるかいなかにかかってい」ます(p.95)。

「自己投影的同一化」とは、先に引用した「相手の人柄の直観的把握」であり、「この人こそが私の人生を幸せにしてくれる(はず)」という歪んだ思い込みです。

たしかにこのようなロマンティック・ラブの幻想は、女性たちに自分の人生を自分の思い通りに構築できる可能性があるという希望をもたらしてきました。ギデンズは、知識人が嘲笑を浴びせてきた19世紀の空想恋愛文学(おそらく現在で言う「ハーレクインロマンス」のようなもの)ですら、「一人ひとりの生の諸条件の大々的な再編成」に関与したと指摘しています(p.73)。

しかし同時に、ロマンティック・ラブは相手への依存の一つの形であり、自分ではなく他者によって人生を変えてもらおうとする大きな期待の表現です。ロマンティック・ラブは前近代的な共同体の束縛から女性を解放させる役割を果たしはしても、女性たちは今度は「家庭」という檻にはまりこむようになりました。

女性たちはロマンティック・ラブにおいて感情表現を人生の構築と結び付けてきました。しかしその感情は、相手となる男性への過剰な期待であり、依存です。結局ロマンティック・ラブにおいてなされる感情表現とは、女性が感情に振り回されていることを指します。それは自分の感情を相手に適切に伝えるのではなく、自分の感情が分からないために、なりふりかまわずヒステリックに感情を相手にぶつける形に終ります。女性たちは、自分の中に感情というものがあることをたしかに発見しました。しかし、彼女たちはその感情を感じ昇華することなく、多くはその感情の前になす術もなく振り回されているだけでした。

おそらくギデンズは、現代になって多くの女性たちは、この感情に振り回される状態を脱しつつあるとみなしています。

女性たちが男性に対して「~して欲しい」という感情をぶつければぶつけるほど、男性たちは自分たちの感情を閉ざすようになります。それは、家庭に閉じ込められることで自己の感情を見つめるよう促されていった女性と、上で述べたように母親の愛情を手放し、経済と政治の競争の世界へと踏み出した男性という、役割分化がもたらした帰結です。

現代になって多くの女性たちは、もはや感情を相手にぶつけることは男を変えることにはならないし、そうすることは自分たちの惨めさを増すだけだということに気づいています。おそらくギデンズの言う「ひとつに融け合う愛情」とは、女性たちがもはや男性たちに依存せず、対等な立場で男性と付き合うことを模索している際の感情の状態を指しています。

ギデンズはこの「ひとつに融け合う愛情」を別の言い方で「純粋な関係性」と呼びます。これはおそらく正確に定義することは難しい概念ですが、言わば最も健全なあり方の感情をもった人同士が結ぶ関係を指しています。伝統という慣習にも依存せず、また他人にも依存せず、つねに自律的な決定を行いながら、同時に他者と関係を結ぶことを指しています。

慣習・外的制度によらずに対人関係を結ぶというだけでは「純粋な関係性」とは呼べません。「ロマンティック・ラブ」は外的な制度によっては制御されていませんが、それでもそれは一種の感情的な依存状態を表しており、自律的な個人による対等なパートナーシップとは言えません。

著者は「ひとつに融け合う愛情」の特徴を次のように述べています。すなわち、それは「対等な条件の下での感情のやり取りを当然想定して」いるのであり、その場合「愛情は、親密な関係性が育っていく度合いに応じて、つまり、互いに相手に対してどれだけ関心や要求をさらけ出し、無防備なれる覚悟ができているかによって、もっぱら進展してい」きます。

ギデンズによれば「自分を幸せにしてくれる特別な人」を探し求める「ロマンティック・ラブ」においては、男性は感情表現をもっぱら女性に委ね、自分は競争世界の経済・政治に没頭するため、「ひとつに融け合う愛情」のように自分の感情を無防備にさらす能力を抑制してきたということです。「ロマンティック・ラブ」においては、女性が家庭でひたすら愛情を求め、男性が逆に感情を遮断し競争の世界で活動しています。「ロマンティック・ラブ」においては、女性は魅力的な男性を「よそよそしい、近寄りがたい存在として多くの場合描写してきた」のは、そのような男性の「よそよそしさ」が、感情に振り回されヒステリックになる女性の状態と対応しているためです。+と-が惹かれあってしまうように(p.96)。

それに対し「ひとつに融け合う愛情」は、次のような特徴をもっています。

「ロマンティック・ラブと異なり、ひとつに融け合う愛情は、性的排他性という意味での一夫一妻婚的な関係では必ずしもない。純粋な関係性を一つにまとめ上げているのは、関係の継続を価値あるものとするに十分な利益が二人の関係から互いに得られる点を、双方の側が「折って沙汰のあるまで」認め合うことである。この場合、性的排他性は、二人が互いにそうした性的排他性を、どの程度望ましい、あるいは不可欠なものと見なすかによって、関係性の中で重要様な役割を果たしていくのである」(p.97)。

著者によれば、離婚者や未婚者が増大している背景は、多くの女性たちが「ロマンティック・ラブ」の段階を乗り越え、この「ひとつに融け合う愛情」の段階をより重要な恋愛の形とみなしていることによります。「ロマンティック・ラブ」のように、運命によって定められ永遠に結ばれる「特別な人」と一緒にいることではなく、自分たちの感情・関係を絶えず吟味・反省しながら(その際にはセルフ・ヘルプやカウンセリングの知識が使用される)、二人の関係を絶えず利益をもたらすもの・実りあるものとして構築することを志向します。それゆえ、もはやどのように努力しようとも関係が利益をもたらさないと判断すれば、関係を終わりにする覚悟を多くの女性はすでに持っています。

著者は、このように純粋に「関係」そのものに関心を向ける「ひとつに融け合う愛情」によって初めて、同性愛が異性愛と同等の重みを持つことになると指摘し、またそれは「ロマンティック・ラブ」とは異なる点であることを強調します。「ロマンティック・ラブ」が異性に対する感情的依存の表現であるとすれば、「ひとつに融け合う愛情」は対等な関係を目指すものであり、そこで重要となるのは「愛情」という感情の状態であって、異性愛という幻想ではありません。そこではもはや、異性愛と同性愛の区別は重要なものではなくなります。


『親密性の変容』 アンソニー・ギデンズ(著) 2に続く


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