他人から見ればどうでもいいことなのに、つまらないこだわりというものがわたしにもあります。
たとえば大学。
いい大学、大学院に通っている人たちやそこで教えている人たちについて無条件に「そういう人たちはバカだ」という考えが浮かびます。
そういうわたし自身もかなり長い間大学院に在籍していました。その在籍期間中も、「大学」というものの存在をかなり汚らわしいものと思っていました。
「大学」という場所から離れて少し時間が経ちましたが、今でも大学の教員・教官や、大学院に通って「キャリア・アップ」を目指そうとしている人たちのことを見聞きすると、「そういう人たちはバカだ」と思いたい欲望がムクムクと出てきます。
今朝、台所でドイツ語と英語のテープをかけていると、父親が後ろを通ったときに、なんだかバツの悪い感じがしました。「無学」の父になんだか悪い想いがしたのかもしれません。
「外国語」というものは、日本の大学にとっては象徴かもしれません。ただの言葉なのですが、それが話せる人と話せない人を分け隔ててしまいます。「外国語」を中途半端に話せてもあまり大したことはないと個人的には思いますが、それでも話せない人からみればすごいことのように思えてきます。
わたし自身は英語もドイツ語もろくに話せないし聴けないのですが、それでもそれらのテープを流しているときに、後ろに父がいると悪い感じがしました。
これは、外国語だけでなく、「大学」というものが日本人にとって(そしておそらく世界中のどこでも)もつ象徴も同じだと思います。学歴コンプレックスで高い学歴を羨み尊敬しながら、どこかでそれをバカにしています。優越感と劣等感は同じコインの裏表です。
大学に所属しながら大学をバカにしていた私は、どこかで大学の権威を怖れていたのでしょう。もし大学とそこで教え学ぶ人たちが素晴らしい人たちだとしたら、そういう人はマブしく光っててまともに見ることができません。その光の中に入るのが怖いから、わざと大学は薄汚い世界だと思おうとしてきたのでしょう。
もし権威が素晴らしいとしたら、それは光り輝き私たちを照らし出します。でもその光の世界をわたし(たち)は怖れているのです。
そこでその権威を何とかわたし(たち)は腐して自分と同じ次元に引きずり落とそうと思います。大学教授、東大生、大蔵省、政治家、総理大臣、外交官、医者、弁護士、・・・
権威の光を怖れているかぎり、この世界を正しく視ることはできないのでしょう。
涼風