joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『仕事のなかの曖昧な不安 ―揺れる若者の現在―』

2005年10月10日 | Book
最近は「若者」の無業問題や経済的不平等が流行のトピックです。多くの学者や評論家がこれについて論じているし、私もこの問題には関心があります。

この「問題」が関心を集めるのには、やはりそのセンセーショナルな雰囲気が論じる側にも聞く側にも心地いいのだろうなと思います。ある研究者が現在の経済格差について論じた本を読んでいると、「ああ、この人(その本の著者)は社会の不平等を憂いているけど、本人も気づかないうちにこの問題を論じることにカタルシスを感じているんだな」と思わされました。つまり、この豊かなはずの日本で「貧困層」が形成されるという議論をしていて、そのショッキングな事実を指摘することに著者自身が快感を感じているのです。

こういう心性は社会の恵まれない人を論じるさいに書き手が陥りやすい罠です。ジェンダーであれエスニック・マイノリティであれ障害者であれ、そして「ニート」であれ、彼らの境遇の「悲惨さ」を摘発する過程で、対象に対する共感能力をどこかで失い、その状況を指摘することの快感に書き手が酔いしれてしまうのです。

これは書き手だけでなく読み手も同じ快感を感じているし、だからこそそういった本が売れる市場が形成されます。私もこういうブログで社会の不正義を指摘することに快感を感じているし、またそういう書物を読むことに快感を感じています。

ただその快感は、ちょうど銃をぶっ放し敵を殴るヴァイオレンス映画を観るときの快感と似ているかもしれません。

社会的不正義を論じることは重要でも、どこかで対象に対する共感を失う危険性はつねに注意されてよいものだと思います。


『仕事のなかの曖昧な不安 ―揺れる若者の現在―』という本を読みました。2001年の本で、日本社会の経済不平等や若者の働く意識の低下を指摘する論調が流行し始めた頃の本です。ただその後の議論はこの本の議論を踏まえていないことがわかります。

一つは、多くの若者が無業やアルバイトの生活にとどまる背景には、中高年の雇用を維持する制度が日本の起業では採られていること。「リストラ」は90年以降の日本の顕著な現象に思えますが、少なくとも大企業では決して多くみられていないこと。この中高年の雇用を維持することで必然的に若年の採用が抑えられてきました。

また誰もが憧れる一流企業での採用が厳しくなるほど、若者は自分の希望に沿わない企業での労働を強いられ、働く意欲が減退すること。こういうと「好き嫌いをいわず仕事に取り組め」というお叱りが中高年から聞こえてきそうですが、現実には条件のいい企業で働く中高年ほどその企業にとどまり、不満を持つ人ほど転職を繰り返してきたという当たり前の現実があります。こういう状況でせっかく採用されても意欲を持てず辞めていく若者の中には、不況の中で正社員になれる新たなジョブを見つけられない状況に陥る者が出てきます。

つまり今の若者の働く意欲の減退について、中高年の人、とりわけ大卒の団塊世代が理解することはきわめて困難だということです。少なくとも経済的な保証を得られてきた団塊世代と、その世代の雇用維持のために希望する職を得られない若年者との間には埋めがたい溝があります。

またこうした若年者のジョブを見つける困難さのしわ寄せは結果的にもっとも学歴の低い高卒者や中卒者に押し付けられていきます。

さらに、若者の労働意欲の減退が多く指摘されていますが、現実には無業やアルバイト生活の若者を大きく上回る20代の人たちがフルタイムで働いていること。というより、企業が新規採用を控えているため、兵隊的な下っ端の労働はこれら若年社員にいつまでも押し付けられ、彼らは過酷な残業労働を強いられていること。一方で働く意欲が減退する若者いながら、もう一方でハードワークを強いられる若者に二極化しているわけですが、これは同じコインの裏表で、企業の労働条件が悪化しているために、過酷に働かされる若者がそれに耐えられず辞めていくという構図が想像できます。

つまり、今の若年労働者はかつて経験したことのない過酷な現場に曝されており、またそれを押し付けているのは企業の上層部すなわち中高年労働者であり、その経営姿勢が多くの若者を労働世界から追い出している可能性があること。

この構図を考えると、若年者の無業問題は世代をこえた社会全体の責任であることが想像できます。

この本には他にも現在の労働世界について興味深い指摘が多くあるので、また書いてみたいと思います。


涼風