joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

マイネッケ

2005年10月25日 | 日記

マイネッケという人がいます。ドイツの歴史家で20世紀初めに活躍した人ですが、今では誰も知らないし、ドイツ人のほとんども知りません。学者でも知りません。

私は彼について修士論文で書きましたが、それは主体的に彼をテーマとして選んだのではなく、指導する先生のアドヴァイスをそのまま受け入れたからでした。主体性のない私には、何を自分が研究したいのかも分からず、それゆえ先生が薦めてくれるものを進んで受け入れました。

そのテーマ選びにおける主体性のなさは修論執筆で容赦なくツケが回ってきました。マイネッケのことが好きでもないし重要だとも思っていないのにそれを読むことはつらく、本当に身体の調子がおかしくなりました。

マイネッケとは、国家が有機体であることを信じている人であり、その国家が善であることを信じており、しかしその国家が戦争をすることに悩んだ人でした。

なぜ国家は戦争をするのか?なぜ高潔な政治家が戦争をするのか?

今の学者であればそれについて、心理学的な人間の権力欲・攻撃性を分析したり、社会科学的に経済的要因を摘出したりします。

しかしマイネッケは、国民国家が有機体であり一つの人格であることを信じている彼は、ただ悩むだけです。「なぜ国家は善であり悪なのか?」そんなことは悩んでも仕方ないし、現在の学者から見ればいろいろ論理的に説明できる事柄なのですが、彼はただひたすら悩むのです。なぜ悩むのかと言えば、国家とは一つの人格であることをどこまでも信じているからです。今、そんなことを信じている人はいません。そんなことを信じているのは気がふれている人です。

そんな気がふれている人の文章を読むのはつらい。こんな頭のいい僕がこんな頭のおかしい人間の文章を読むのはつらい。もっと他に流行のきらびやかな学問がたくさんあるじゃないか。なんぜよりによって僕だけこんなものにかかわらないと駄目なんだ。

それがなんでなのかは要するに私に主体性がなく、自分で研究テーマを選べる大人ではないからです。

さて、そのマイネッケについての文章を来年の4月までに書く依頼を受けました。それで久しぶりに彼の文章を読み始めました。修士論文を書いていたときの気分の居心地の悪さを少し感じました。

ただ、どんなに学問が進歩しているように見えようと、天下国家を論じるさいに「日本は」「アメリカは」と誰もが言うし、それのアンチテーゼとして国家の社会科学的分析を提示する20世紀的やり方は、それ自体がすこし古臭さを帯びてきているのも事実です。

そういう中で、私はマイネッケのいい部分をちゃんと読むことができるでしょうか?

涼風

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