joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

不可避の議論 『これからの日本とアメリカ』 

2005年10月09日 | Book

『これからの日本とアメリカ』という、1995年に出版された長谷川慶太郎さんと竹中平蔵さんの対談を読みました。

1995年の本ですが、時代はすでに日本のこれまでの経済成長の全体が崩れている時なので、そこで行われている議論は今でも通用します。

インターネットの普及でグローバルな経済競争が実現すること。これはまさにその通りになっています。

同時に、資本移動の垣根がなくなっているので、これからはどれだけ外資を自国に呼び込めるかが経済成長の鍵になること。これは竹中さんが自民党入りしてから、アメリカの年次改革要望書に添う形で日本では促進されています。

またアジアでの外資金融の大量進出も指摘されています。アジアショックよりも2年ほど前ですが、すでにひじょうに顕著な現象だったことがわかります。

こうした資本移動に日本の金融業界は当時は迅速に対応できていませんでした。株式や債券などの金融商品を扱うことが当たり前なアメリカのスタンダードからすれば、二人の目には日本の金融業界は動きが遅すぎるように映ったのでしょう。

その後の竹中さんの金融改革は、日本の銀行を企業に融資する経済成長の支え役から直接に金融商品で利益を上げるアメリカ的な銀行へと変化させることを意図したものだと思います。

それは、竹中さんがアメリカ的な資本市場の競争による利益獲得に親近感をもっているからだとも言えるし、言い換えれば、これまでのような企業融資重視の銀行経営は産業構造の変化と製造業の衰退という時代情勢から見れば正しい選択だと彼が判断したからだとも言えます。

こうした大量生産方式ではないサーヴィス中心の経済体制への移行を認識しているからこそ、また竹中さんはこれまでの完全雇用といった雇用形態はもはや経済成長の観点から維持すべきでないと主張しています。これも今に至る彼の一貫した視点です。それは、そうしなければ国民経済は発展しないし、結果的に国民生活にプラスにならないと判断しているからです。

つまり組織に保護されたビジネス人生はもはやありえないというのは一貫した彼の視点です。それが企業であれ国家であれ。

他にも多くの点が論じられていますが、その経済分析はやはりとても明晰です。産業構造の変化を正確に認識し、それに見合った個々人のビジネスのあり方は、これまでの組織官僚制の成員的なものから、起業家的なものが中心になることを把握しています。これはアメリカより20年ほど後れて日本が同じ途を辿っていることをよく分かっているからでしょう。またこうした視点から、多少激しいやり方に見えるビジネスを行うホリエモンに竹中さんが親近感をもっていることもよくわかります。


最後に竹中さんは、日本の公共投資は変革すべきだが、それは地方に誰も通らない道路を造るのではなく、もっと都市に投資すべきだと説いています。伝統的に社会資本の整備が整っていない日本では急激な近代化のツケが都市に現れているからです。

また、アメリカのチャリティ・隣人愛の精神を日本人も学ぶべきだと説いています。今でもこの自分の言葉を彼が胸にいだいていてくれればと思います。


この本は全般的にアメリカン・スタンダードを直接的に日本に移植しようという議論にも見えますが、でもそれは日本が変革を迫られていることを知っているからこそ、そうした議論にならざるをえないのでしょう。正しいか間違いかはともかく、当時も今もこうした議論が出てくることは不可避だし、わたしたちが議論しなければならないことを提示している本だと思います。


涼風

美人の条件 『トップモデル物語―マイナス10歳の「キレイ」をつくるレシピ』

2005年10月07日 | Book
  
先日、「あるある大辞典」をちらっと見ていたら、30代、40代で増えてくる顔のシワやたるみを少なくするためのエクササイズを紹介していました。(このエクササイズは『発掘あるある大辞典』「放送テーマINDEX 『オバさん顔を克服 顔のたるみが10日で戻る!』のHPで紹介されています)。

興味深かったのは顔の筋肉のハリを支えているのは僧帽筋という首から背中にかけての筋肉であるということ。この後ろの筋肉が後ろから顔の表情筋を引っ張っているのだそうです。ということは、必然的に背後の筋肉が衰えると顔のハリも衰えるというわけです。逆に言えば、背筋がしゃんとして後ろの筋肉を動かしている人は顔も若く見えるそうです。

これはホントにそうなのでしょうね。森光子さんが80歳を越えているのにあんなに若く見えるのも、背筋をつねに伸ばしているからだという話を聞いたことがあります。また元モデルで今は50歳前後の宇佐美恵子さんという人は、彼女は少し暗いところに立っていれば今でも20代に間違われるのですけど、それは背筋を伸ばしているからだとおっしゃっていました(『トップモデル物語―マイナス10歳の「キレイ」をつくるレシピ』)。

宇佐美さんは、美人に見える秘訣の一つが、背筋が伸びているかどうかだと言っていました。たしかに若い子で服や化粧に思い切り気を使っている子がたんにケバケバしく見えるときは、たいていその子は背筋が曲がっています。そういう子は高いヒールを履くので余計に背中が曲がっているので、若いしきれいな顔立ちをしているのに、“おばさん”という雰囲気を出しているのです。

また、そういう女性にかぎって、なんだか他の女の子と群れて歩いています(まるでダメンズ・ウォーカーの反対みたいな文章だ)。中谷彰宏さんは、女性は3人以上集まって行動するとおばさんになると言っていました。でも、これは大きなお世話なのでしょう(笑)。

宇佐美さんが自著で言っていたことでもう一つ興味深かったのは、美人に見えるもう一つのポイントは、口角が上がっているかどうかだそうです。口がちゃんとU字形になっているかどうかですね。逆にヘの字形になっていると、顔の他の部分がどれだけキレイでも美人には見えないそうです(『トップモデルが明かす「いい女」になる33のヒント―ここに気づけばガラリと変わる!』

これは絵で見るとよく分かりますね。宇佐美さんが付け加えているのですが、口角が上がっている人の顔は美人に見えるのに、ヘの字形の人は不美人であるだけでなく、運も悪く、つねに不平不満を感じているように見えます(と言うのは言いすぎの場合もあるけど)。

こうやって専門家の意見を聞くと、いい顔に見えるかどうかは顔の筋肉を普段どれだけ刺激しているかであり、またその筋肉を刺激するには、背筋を伸ばしていることが重要みたいです。

カイロプラクティクスとかロルフィングマッサージというのは、そういうのを刺激するのにいいのかな。ロルフィングというのは一度受けてみたいなぁとよく思います。


涼風

自己と“流れ”

2005年10月06日 | Book
  以前にポストした文章でアメリカの社会心理学者チクセントミハイを引用しました。このチクセントミハイの議論はもっと自分なりに消化したいと思っているのですが、読んでいる間はフムフムと納得しても、読後に記憶にフックしていない感じで、なんだかすっきりしない感じです。

チクセントミハイの議論が興味深いのは、個々人にとっての「ライフワーク」というものを実証的に議論していること。アメリカ流の自己啓発ではよく「好きなことをやろう!」と言われますが(それ自体は20世紀の重要な提言だと思いますが)、その「好きなこと」とは個人にとってどういう意味をもつのかをさしあたり突き詰めているのがチクセントミハイのように思います。

今日、ずっと図書館から借りていた『フロー体験』を返すのですが、チクセントミハイの言う「フロー」とは決して大袈裟なものでもないし、むしろ地道な体験の積み重ねです。それは必ずしも快楽を安易にもたらすのではなく、かといって苦行でもないもののようです。

チクセントミハイは人がフローに入るきっかけとして、「フィードバック」の大切さを指摘します。つまり、自分のしていることの成果が一つ一つ、結果を通して、あるいは他人との対話を通して、自分に感じられていくことです。その中で、自分の取り組むことについて一歩一歩進み、その一歩一歩の中で自然と自己が作業の中に没入し、その作業と自分が一体化することで、もはや外界は彼に対して大きな影響をもたらさず、その作業の経過それ自体が自己であるような状態を生み出すもののようです。

それは自己が消えることを意味しません。むしろ「自己」と外界との区別がなくなり、自己がまさに“流れ”の存在へと消化されるような状態です。

これはちょっと抽象過ぎる説明で、チクセントミハイ自身はもっと実証的な議論を積み重ねている人です。

また彼について話すことができればと思います。

涼風

臆見を外す

2005年10月05日 | reflexion

ほとんどすべての批判というのは、過去のレッテルを相手に押し付けています。むしろ、過去のレッテルを押し付け、相手を生き生きとした新鮮な姿で見ないからこそ、そこに批判が生じるとも言えます。

わたし自身にもこの傾向が深く染み込んでいます。それから脱することは難しいけれど、一つ一つ臆見を外していければと思います。


涼風

天才レベルのビジネス

2005年10月04日 | Book
   
現在のビジネスでは「スピード」が重要だと誰もが口を酸っぱくして言います。消費者の趣向が質の高いものを求めるため、つまり大量生産的製品を拒否するため、生産者のクリエイティビティのあるものを求めます。クリエイティビティは人によって違うので、どのクリエイティビティに消費者が反応するかについて、供給者はつねにアンテナを張る必要があります。

ただ、このクリエイティビティを「アイデア」と同一視することで、多くのビジネスマンは無限のスピード競争に巻き込まれているのではないかとも思います。

顧客心理をひきつけるテクニックで、これまでにない「アイデア」が色々と生み出されます。消費者は、というより人間は刺激を与えられると反応するのでその「アイデア」にとりあえず飛びつきます。ジェットコースターや銃を使ったアクション映画と同じです。とりあえずこちらの攻撃性を刺激され、私たちのアドレナリンは高まり、積極的な消費行動に出ます。

しかし、こちらの攻撃性・競争性を求める心理はつねにさらなる刺激を求めるので、既存の「アイデア」では物足らなくなります。

もちろん「アイデア」を出すことは素晴らしいのだと思います。ただその「アイデア」がたんに消費者に刺激を与え感情を煽っているのか、それとも消費者の利便性を本当に考えているのかには、違いのある場合も多いのではないかと思います。

もちろん「利便性」と言っても、消費者はすぐに既存のサーヴィスに有り難味を感じなくなるので、次々に新しい「サーヴィス」を考える必要性もあります。しかし同時に、消費者が「有難い」と感じる感情を呼び起こすサーヴィスの質には、じつはそれほど大きな差がないのではないかとも思います。それは、「この人はいい人だな」と感じる相手の特徴は、大体同じようなものではないかと思うのと同じです。あるいは、人に好かれる人の特徴が、無数にあるわけではないということと同じです。


経営コンサルタントの本田健さんは、ビジネスには4つのレベルがあると言います。「天才」「優秀」「「普通」「損した・失敗した」レベルです。

この中で、「天才」レベルのビジネスについて本田さんは次のように言っています。

「老舗と言われる名旅館へ行くのは、ワクワクするためではありません。そこで味わえる、ゆったりとした感覚を得たいから行くのです。
 
 本物には変わらない良さがあります。むしろ、太枠は変わらないけど、毎回少しずつ何かが違う、というぐらいのほうがいいのです。それが、たえずワクワクを提供しなければ生き残っていけない優秀レベルのビジネスと違うところです」(『夢をかなえるお金の教え 豊かさの知恵』


「IT革命」で、世界中の顧客の嗜好の変化に追いつくため、「スピード!スピード!スピード!」が唱えられます。この世界では、消費者が優位に立つためデフレが不可避だと評論家は言います。

おそらくそれは違うでしょう。むしろ変わらない「本物」には、収入にかかわらずお金を出すのが、今の消費者なのだと思います。


涼風

参考:『経済自由人の感性をわかち合うBlog』

『レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体』(上巻)

2005年10月03日 | Book

『レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体』という本の上巻を読みました。著者はアメリカ人ジャーナリストで、インターネットによって加速した世界の資本移動をさまざまなエピソードによって具体的に説明しています。

原著は1999年の出版ですが、まだまだ現在の世界にも通用する議論です。

インターネットではモノの売買でユーザーと売り手との垣根をとっぱらわれましたが、それ以上に世界に大きなインパクトを与えているのは資本の移動です。この資本移動が短期の利鞘に左右されてあまりにも素早く世界中をかけめぐるため、もはや国家はそれらを有効にはコントロールし得ないという通説がここでも述べられています。

ただ著者は、そのうえで国家ができることは、少しでもこの資本を呼び込むために、国内の市場取引に関する法整備・正常な取引慣習を完備することを強く主張しています。彼から見れば、1997年のアジア・ショックも、ロシアの金融危機も、それら国内の金融の債務が多すぎ、企業会計が厳密に行われていなかったりすることに由来するのだと述べています。著者曰く、これらの国は経済に関する法が未整備なため、公正な取引がおこなわれていないため、「泥棒国家」だということです。そうした不安定な経済状況では、一時的なバブルが起きようと、危険を察知して資本が逃避していくのは当たり前だということです。

このあたりは、バブルの崩壊は資本市場では不可避だとするジョージ・ソロス(『グローバル資本主義の危機―「開かれた社会」を求めて』)と対照的です。まさに資本市場の現場で動いてきたソロスが資本の取引は実体経済を離れて海外からやってくるトレーダーたちの集団的な非合理な思惑に左右されることを強調するのに対し、ジャーナリストのフリードマンからみれば、資本市場のかく乱はその国の経済取引の慣習の混乱に起因するのです。

これはまるでアメリカ人による世界への「警告」にも見えます。しかし著者はそう受け取られるのを承知の上で、資本の呼び込みをすべての国が率先し、経済取引に関する障壁を取り除かなければ、その国は没落することを主張します。彼から見れば、アメリカですらそのリスクを負っているとのことです。


個人的に興味深かったのは、この地球的な自由市場の完成においては、もはや各国内の政策に政党間で違いがでないということ。どれだけ世界的な自由市場に対応できる体制を採れるかが重要であって、つまり目的はかわらないのであって、そこに行き着く政策にバリエーションがあるだけだという指摘です。

これもその通りですね。今のドイツの与野党の拮抗がいい例です。お互いの政策が経済成長とこれまでの肥大福祉の削減を主張する点では変わらないのです。ただその方法に違いがあるだけで。もちろん今回の日本の選挙も同じです。郵政民営化という点では民主党も自民党も同じです。財政を削減すべきという点でも同じです。

そのように主張に差が出ない以上、どれだけ党首にカリスマ性・アイドル性があるかが鍵になるかも、日本もドイツも同じです(シュレーダーが「俳優」であることは、ドイツ国民も認めています)。

世界的自由市場の下でつねに不安定に曝される以上、この先採るべき政策は知識人にすらはっきりしません。であれば一般国民にはなおさらです。そうした状況では、余計にどれだけ分かりやすさときらびやかさを国民に見せることができるかが重要です。どうすればいいか誰もわからないのですから、とりあえず何かをしてくれそうな人を私たちは求めます。


この上巻では主に、ネットで加速した取引の増大に焦点が当てられていますが、下巻では目次を見ると、それにともなう不平等の拡大について述べられているようです。またレポートできればと思います。


涼風


参考:“The Lexus and the Olive Tree: Understanding Globalization”『CD、テープを聴いて勉強しよう!!』

パウロ・コエーリョ

2005年10月01日 | Audiobook
先日、英語とドイツ語のAudiobookを最近はよく聴いているという記事を書きましたが、ドイツ語についてはパウロ・コエーリョの小説を聴いています。

コエーリョはブラジル人作家ですから、当然ドイツ語はブラジル語、じゃなくてポルトガル語からの翻訳です。どうせドイツ語を聴くのならドイツ人が書いた小説にしたほうがドイツの生活や文化についてよく分かるのではないかとも思うのですが、ゲーテやシラーの名前は知っていても現代ドイツの作家でかつ面白い小説を書く人を知らないのです。

それに、コエーリョはアメリカや日本でも大人気ですが、ドイツでもそれに劣らず、あるいはそれ以上に人気で、彼の小説は必ず翻訳されるし、また彼の小説のAudiobookも必ず出されるのです。ドイツのアマゾンのベストセラーリストに必ず顔を出すし、僕がドイツにいたときも書店の目立つところにいつも飾られていました。それだけドイツ人に受け入れられているのでしょうね。

パウロ・コエーリョというと読む人に希望を与える小説という印象をもつ人がいるかもしれません。たしかに世界的ベストセラーで彼をガルシア・マルケスと並ぶ南米の人気作家に押し上げた『アルケミスト』には、比較的オプティミスティックな文章が並んでいます。

でもそれ以外の彼の作品を読むと、むしろ絶望に彩られた文章が並ぶ作品ばかりですね。もちろんその絶望の果てに一筋の光をもたらすし、そこに行くまでの過程にこそコエーリョ作品の特殊性があります。

たとえば『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』 『ベロニカは死ぬことにした』『悪魔とプリン嬢』『11分間』といった作品では、若い女性が主人公ですが、彼女たちはみなどこかで人生を諦め、また諦めているからこそ「堅実で間違いのない」人生を歩もうとしていました。自分の夢を追い求めるよりも、多くはなくても確実な収入を求めて、「人生はこれでいいのだ」と自分を納得させようとします。

なにかこの閉塞的な雰囲気は、私にはドイツから感じた社会の雰囲気ととても親和的なように感じました。経済が不安定なため、余計にどれだけ安定したジョブを得るかを若い人が考えています。

でもそれは日本も、そして世界中どこでも同じなのでしょうね。

本田健さんやロバート・キヨサキさんの本はたしかに衝撃的でした。いわゆるミドル・クラスという存在、いい学校を出ていい企業に入り人生を送る生活は奴隷の生活であることを鮮やかに彼らは教えてくれました。

彼らの本がベストセラーになったり、また起業ブームが起きたりは確かにしています。

でも同時に、いかに自分の人生のリスクを減らし多くない収入でも生活を安定させるかに若い人は腐心している傾向もあると思います。

そうしたグローバルな心理傾向をもつ人たちにとって、コエーリョの作品はたしかに自分のことを言っているように感じているのでしょう。

私はコエーリョのAudiobookはまだ3つしか聴いていなくて、また1つ『11分間』(“Elf Minuten”、がもうすぐ家に届きます。ドイツ語のAudiobookはamazon.co.jpでも品揃えが悪く、紀伊国屋BookWebを通して注文したら、3週間ぐらいかかりそうです。でも、ドイツのアマゾンよりも紀伊国屋webの方が安そう。

3つ聴いていると言っても、べつに意味がすぐに分かるわけじゃもちろんありません。というより、理解するために何度も何度も聴いている最中なんですけどね。

アメリカ同様にドイツでもAudiobookの出版が盛んなんですけど、例えばニーチェのCDもたくさん出ています(因みにマルクスは『共産党宣言』だけ)。ゲーテやシラーといった「ドイツ文化」を代表する人たちのCDも出ているけど、ニーチェも彼らと同じように思われているんですね。でもカントやヘーゲルのCDなんて僕は知りません。
(そのニーチェのCDを買おうかなと知人に言ったら、「ニーチェなんて聴いたら怨念が頭に入ってくるからやめとけ」と言われました。たしかにそうかもしれない)。

もっと安価に外国語のCDを入手できたらと思います。コエーリョのCDは3600円です。まあ6枚もCDが入っているのですが。

じつは“audible.com”という安価に海外のAudiobookを入手できるサイトがあるんですけど、コンピュータに詳しくない自分は、どう活用しようかと今悩んでいます。


涼風

audible.comについての参考サイト:「audible活用法」『CD、テープを聴いて勉強しよう!!』