考えるための道具箱

Thinking tool box

もうジョゼに会えないなんて。

2005-09-06 23:14:08 | ◎観
「人間ってのは、どこまで睡眠時間を削減できる動物なのか」というかなり危険度の高い実験にひととおりの区切りがついたので、なんか書いてみようかなあと、久しぶりにエディターを開いてみる。ところが、どうも自分のための浮かれた文章なんて書く気になれない体質になっちまってる。不眠実験から検出された副作用のその1は、「やる気」がなくなる。やばいね。これは。まあつまりはバーンアウトということなんだけれど、そんなときに『ジョゼと虎と魚たち』なんか観てしまったもんだから、放心に輪がかかる。恢復への願いをこめて、少し言葉を集めてみよう。

その日の夕方から東京へ出張に出なければならない日曜日の午後のわずかな時間。なにをするにも中途半端なこの時間に、ぼくが選んだのはHDDレコーダーのチェック。なんだか適当に撮り貯めたものがたくさんあるような気がしたので、ちょっとザッピングしてみると、出る出てくる。『ロード・オブ・ザ・リング』の最後のやつとか『21グラム』とか『キルビル2』とか。で、まあわかりやすいやつがいいかと『ジョゼ…』を選んだわけだけど、あまりに良い映画すぎて、余韻というか余波から逃れられない。以来、ずっと妻夫木恒夫くんのこととか、もちろんジョゼ池脇のことを考えている。

演技力とかせりふの巧さなどいろいろな切り軸で評価/反評価できるところはあるのだろうけれど、私的にポイント絞り込むと、「男泣き」と「断ち切らなければならない人間関係」というところになる。

親愛の人が亡くなったときに泣くというのはわかりやすい。もちろん悲しすぎて泣けないというのはあるかもしれないけれど、一般的には悲哀のジャンルでは、いちばんだ。そして、今回の恒夫の涙がきっと2ばんめにあたるのだろうと思う。自分のなにかが損なわれ、自分により親愛の人のなにかが損なわれ、哀しいし、さびしいし、可哀想だし、ふがいないし、そしてなによりくやしい。しかし、ときがたてばきっと忘れてしまうという予感。「くそ、なにやってんだよ俺ってやつは、いまからでも戻したいけれど、なんで戻れないんだ」みたいなときに絞り出てくる野郎の嗚咽は、かなり実感的で、この恒夫の気持ちがよくわかる。『ノルウエイの森』の冒頭で、「僕」が悔恨により混乱するくだりもこういったことだろう。この重要な状況を、妻夫木恒夫は、かなりうまく演じていた。その恒夫が頭から離れない。


落涙は、「もう2度と会えない/会わない」という決意、つまり「断ち切らなければならない人間関係は確実にあるのだ」という現実に起因している。ここで生き続けている以上、「もう会わない」なんて気負って決めなくてもよいのではないか?なにも、世の中のことはふたつにひとつというわけではないんだから、これからも会ってもいいんじゃないか?と考えてしまうのだが、恒夫は思い決めてしまう。憎悪がないにもかかわらず人間関係を解消してしまわなければならないというのはやはり酷だ。勝手に「ひるんだ」、まったくもって勝手な話という見方もあるかもしれないし、逆に、悔恨と無の間にあって、決定的な悔恨のほうを選んだという見方もできるかもしれない。ジョゼの強い意志のうえに成り立った別れであることも明確だ。しかし、それでも、こういった決断をしなければならない人間関係が存在するという厳然とした事実はとても哀しいし、この物語はその厳しさを突きつけた。決してアンハッピーエンドではなく、ある種の爽快感すら感じさせる『ジョゼ…』がそれだけでは終わらず、2日3日の穏やかな時を経てもなお強い余波を残し続ける。池脇ジョゼと会えないことが、こんなにつらいことなのかと。人間ってのはなんてややこしいんだと。



といったようなことを考えると、やっぱり『メゾン・ド・ヒミコ』もみたくなっちゃうね。ゲイの父親が恋人と経営するゲイのための老人ホームで、何年も会っていなかった娘が働くって話。安易に死の涙に流れていなければいいんだけれど。『ジョゼ…』のサントラのくるりは、相当いい線いっていたけれど、今回は細野晴臣で、こちらもなかなかよいようです。