そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

7月4日(木)長い会議

2013年07月04日 | 校長は日々是口実

 午前中は大学で卒論ゼミ。とにかく夏休み前に、ウソでもいいから目次を作れと指示する。今日は家族の一人の誕生日なので、高校へと移動する途中、東京駅近辺でささやかなプレゼントをもとめる。会議の具合によっては、帰りが遅くなるかもしれないから。

 で、14:00からの職員会議の15分前に到着し、会議室の中央に座ったが、事情があってなかなか始められなかった、1時間後に、やっとこさ議事をスタートする。

 懸案事項が山積みで、3時間以上かかったが、揉めれば揉めるほど世の中良くなるの道理の通り、いくつか画期的な決定もできた。閣内?不一致も、衆議に任せた結果、おのずからなる着地ができたと思う。本日の議事進行には、特段苦情も出なかった(各人の心中は察することはできぬけれども)。四面楚歌…という状況からは、徐々に脱しつつある有若亡校長。

 しかし、どうして教員は、こう職員に仕事を押しつけようとするのか? 物事は合理化、能率化をはかること勿論大切だが、面倒は事務所がやりゃいいぢゃないかは通らない。教員と職員とではラインが違う。学校の運営は本来、徹底して官僚組織であるし、あるべきなのである(と地方公務員の倅である私は確信する)。夢と希望も大切だが、お金で動いているのだよ(ウチの高校は年間13億円強の規模。寄付金はまったく取るに足らず、赤字経営だ)。精神的に向上心の無い者は河馬の逆立ちだが、コスト意識を持たない仁も同断である。責任の持ち方だって、教職は違うのだ。この高校は、まだまだ教員の意識に問題がある。もしかして、職員は教員に「奉仕」すべき存在だと、勘違いしている仁がいるのではないか? 教員こそが学校の主人公だと、思いあがっていはしないか? 校長の勘違いならばよいけれど…。

 会議後の処理事項をこなして、それでも20:00前の新幹線に乗ることができた。帰宅すると家族は食事中で、プレゼントを渡し、ケーキを食った。

  高校オリジナルグッズ、いよいよ生産のよし。夏休み前に間に合わせたかったのだがなあ。相当インパクトのあるシロモノですぞ。乞うご期待。関係者各位に深謝、深謝。とくにCOOPのHさんには、本当にご馳走でもして差し上げなければ、深甚の謝意は到底お伝えできませんわ。

 山陰線、じゃなかった参院選が始まった。島根には高校の同期生が立候補している。保守系だから、当選確実なんじゃないかな。私は基本サヨクの大学教員なので、当然××××党にしか入れませんがね(でも、憲法は変えるべきだと心に強く思っているのだが)。 あ、現在は箇所長職を務めているため、組合員ではないのだった! では、どうするかな? 今回は典型的な浮動票といきませうか。


7月4日(木)生徒寮通信

2013年07月04日 | 校長は日々是口実

 私が校長を務める学校には生徒寮があり、全国、いや全世界?から生徒がやって来る。その保護者向けメールニュースにエッセイを書かせろと担当の先生にお願いしたら、どうぞどうぞと言われたので、早速駄文を弄した次第。

「自分自身を見つめるには」
  8 年間、高等学校(男子校)の国語科教諭を勤めた。当然組主任を拝命し、LHR の時間にはシタリ顔で「自分自身を見つめろ」などと歯の浮くような訓話を垂れていた。すると、ある生徒が「では有若亡先生、どうやったら自分自身を見つめることができるのですか?」と質問してきたから、それは簡単、こうするのだよと即座に教えてあげた。
  深夜に勉強していて疲れた頃、外へ散歩に出かける。近くの公園あたりで一休みした後(煙草を吸ってはいかんよ)、部屋へともどり、中の有様をよくよく観察する。それがすなわち、さっきまでの自分の頭の中なのだ。東大の解剖学教授だった養老孟司が当時唱えていた唯脳論(人間のあらゆる営為は脳の構造の反映だとする論)の応用だ。
  部屋が散らかっている輩は、頭の中も散らかっているのだ。エッチな本は、母ちゃんに見つからぬよう机の抽斗の中の、そのまた奥のほうに隠してあるだろ、あれは性的願望を隠蔽し、抑圧しているのだ。この見方は応用がきいて、教員室の先生方の机の上の様子を観察すれば、それぞれの先生の精神状態がたちどころに分かると、ついつい要らぬことまで教えてしまった。先ごろお連れ合いに先立たれた数学の××先生のお机を見よ、何もかも片づけてしまって、「無」と書いた色紙を1 枚だけ置いていらっしゃるじゃないか…。
  散歩に出かけるのは今までの自分から脱却するためである。メーテルリンクの「青い鳥」の話を想い出して欲しい。現在の居場所の本当の意味を知るためには、いったん外の世界を遍歴する必要がある。そのトリップを最短で行うための深夜の散歩なのだ。
  寮生諸君が、寮生活でもしも煮詰まるようなことがあったら、こうした方法も試してごらんになるとよい。あ、そうか、生徒寮には厳しい門限があるのだった。まあ、ともあれ、「身じんまく」を整えれば、自ずと頭の中も整理されてくるということである。

 人前でお話しすることと、文章を書くことについては、ささやかながら自信がある。痩せても枯れても(痛風だけど)文学教授だもの。このニュースは教員にも配信されているが、興味深く拝読しましたとメールをくれたのは、高校生時代に私に国語を習ったという先生であった。いやはや、狭い世界である。

 T学部長のA教授からも、先にお送りした拙エッセイの感想がメールされてきた。袋草紙という平安末期に書かれた書物の完全版を発見したという、私の乏しい研究業績の一つについて記したものだったが、面白かったと書いてある。舌先三寸、ペン1本(実際はPCだが)でどこまでやれるか、まあ私の持ち味はここまでだがな。

 しかし、筆?が滑って、学校案内は刷り直しとあいなった。事務の担当者がその旨校内に一斉メールを流したから、申し訳なしと補足説明のメールを出しておいた。費用はO部長殿がもってくれるよし。さすが、一緒に戦地へと赴き、ともに歩兵銃を撃ちまくった戦友は違う。ありがたや。きょうび信頼が置けるのは、先の大戦にともに出征し卑怯未練の振る舞いのなかった戦友のみ、という気がいたしますわ。ねえ、A教授。戦中派のぼやきより。

「 行って来るぜ、野田クルゼ」と言いながら、今しがた娘は出勤して行った。DNAは恐ろしや!