史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「図解詳説 幕末・戊辰戦争」 金子常規著 中公文庫

2017年07月29日 | 書評
陸軍士官学校を出て、自衛隊に入隊後、幹部学校戦術教官などを歴任した金子常規氏(故人)が昭和五十五年(1980)に刊行した「兵乱の維新史(1)」を文庫化するに当たって「幕末・戊辰戦争」と改題して復刊したものである。戊辰戦争の経緯を軍事専門家の目から検証するというだけでなく、まず序章では古代から幕末に至るまでの戦乱の歴史を解説する。それだけで二十二ページを費やし、筆者のこだわりを垣間見ることができる。
幕末の戦乱、戊辰戦争について、純軍事的な分析だけでなく、筆者の独自の目線から当時の政治的背景にまで踏み込んで言及しているのが、本書の特徴である。
たとえば、大村益次郎について。司馬遼太郎先生の小説「花神」では、あたかも幕末の戦乱を終息させるために忽然と出現し、天才的な才能によって上野戦争や東北の戦乱を短期間で終結させたように描かれるが、金子氏は終始大村益次郎に批判的である。
筆者はいう。
――― 海江田(信義)の表現は多少オーバーであったが、大村のいうほど彰義隊は弱くなかった。
――― 大村はもちろん、自らの戦略・戦術は大成功裡に上野で終り、今また再び会津に向かって進んでいるとますます自信を深めたし、薩側でも、薩兵が強かったからこそ上野戦争は勝利したのだと考えたことであろう。どのように問題の多い部署。指導でも勝利に終われば成功であり、そうなれば欠陥も逆に長所と見られ、多くは反省を生まない。そしてそこには、進歩は生まれずただ停滞があるのみである。
――― 仙台に近づくにつれて抵抗が激化するのは当然で、大村の予測が大幅に甘かった。
――― 八月に入っても、会津攻略の戦況は一向に進まなかった。すなわち大村の会津攻略の構想が実情に合わぬ甘いものだったため、平潟軍の前進はすでに一か月以上遅れており、降雪期に入る前に、米・庄を攻略するのは今や困難と考えられてきた。

 一般には作戦の成功によって政府が勝利を治めたように解釈されているが、実は「中央の戦略失敗の穴を伊地知正治、板垣退助以下の第一線の指揮官の先見・努力と将兵の奮闘が埋めた」というのが筆者の見解である。
 西郷隆盛が無血開城以降、失脚に近いかっこうで政府を追われたということを安藤優一郎氏が盛んに主張しているが、この本でもその経緯が描かれている。同時に筆者は、三条、木戸、大村ラインの、力で敵を圧倒し以後の支配を容易にしようという「覇者の論理」に対し、西郷、黒田らの薩藩の戦争を和で終結させようという姿勢との間に対立があったことを指摘する。戦争の帰趨がほぼはっきりした北越戦線や箱館に、時期を失したようなタイミングで西郷が現れたのは、和の実現を確認するため(あるいは後押しするため)だったという指摘は納得感がある。
 個人的には「庄内藩における学問を重んじる気風と兵の強さは何らか相関があるのでは」と感じていたが、筆者によれば「他藩の多くが朱子学を主軸とし」ていたのに対し、庄内藩の方針は「実利実学に焦点を置き」「いわゆる優秀な第一線従業員・忠実な第一線兵士の養成を狙った」ものだったという。これまた納得感のある答えであった。

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