史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

須坂

2018年08月18日 | 長野県
(奥田神社)
 須坂市の中心部に位置する奥田神社の場所に、かつて須坂藩の館が置かれていた。この館は二代堀直升によって元和三年(1617)に築かれたといわれる。この奥田神社を中心に、須坂小学校や須坂東高校前の通りまでを占めていた。十四代藩主堀直明のとき版籍奉還を迎え、東京鎮台の所轄となり、明治五年(1872)廃城に至った。


奥田神社

 奥田神社の祭神は、初代堀直重と十三代藩主堀直虎の二柱である。明治十三年(1880)の建立。慶應四年(1868)一月十七日、徳川慶喜は朝廷に対し恭順を進めたが、これに納得のいかない藩主直虎は慶喜に激しく諫言した後、江戸城にて自刃して果てた。藩領においては、藩政改革に取り組み、全藩英式の兵制を取り入れ、甲冑弓槍を売却して銃器や洋服を購入した。人民の貧苦を救うために一年間の納税を免除する等、治教徳政を施した。

(招魂社)


上高井招魂社

 奥田神社に隣接して招魂社が建てられている。明治元年(1868)の戊辰戦争において、東山道総督軍の先鋒に属し、四月十六日から十八日に至る間、下総国茂呂村、武部村および鬼怒川等で奮戦し、須坂藩兵より七名の戦死者を出した。彼ら七名を慰霊するため、明治十二年(1879)、旧藩主堀直明に具申して、旧藩主邸跡に移祀し、建立したものである。その後、西南の役、日清日露戦争、さらに太平洋戦争に至る戦死者を合祀して現在に至っている。


小林季定先生之碑

 小林季定は通称は要右衛門。文政十二年(1829)、直心影流の達人で多くの門人を持っていた要右衛門季阿の二男として生まれた。 江戸勤番を経て、文久二年(1862)二月藩主・堀直虎の側近に登用された。明治元年(1868)一月に藩主・堀直虎が江戸城中にて諫死し、藩は騒然となった。総督府より呼び出しがあり三月に季定は藩の代表として大垣の総督府に赴き、出兵の命を受け兵一小隊、砲一門を率いて出陣し、参謀祖式金八郎の手に属し、館林藩の一小隊と共に四月五日に結城城を攻略し、これを守備した。四月十六日に茂呂にて千八百余名の東軍と大激戦となり、十七日には包囲され撤退を余儀なくされた。維新後は剣術、銃術、馬術の教授主事及び藩主の家扶を命じられた。明治三十四年(1901)四月没。翌年門人によって銅像を建立したが、昭和十八年(1943)、戦争のために回収され、現在は台座のみが残っている。


須坂表忠碑

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