(薩軍兵士の墓)
山都町は、矢部町、清和村、蘇陽町が合併して誕生した町である。誰がネーミングしたのか知らないが、行けども行けども山が重なる土地は、「山都」という町名がぴったりである。
西南の役 薩軍兵士三人の墓
長谷に薩軍兵士の墓がある。明治十年(1877)四月、御船方面の激戦で負傷した薩軍の青年三名が、十田里で息絶えた。この亡骸を歌野家の人が自分の墓地に「旅人」三人と称して葬った。
せっかく行き当てた墓地であったが、地震により全ての墓石が倒壊し、青いシートが被せてある状態であった。歌野家の墓地を特定することができたが、残念ながら薩軍兵士の墓は発見できなかった。
(金内)
金内橋
金内の集落の中心部に石造りの眼鏡橋が架けられている。金内橋は、嘉永三年(1850)、布田保之助によってかけられた。西南戦争では、官薩両軍がこの橋で休息をとったと言い伝えられている。
山都町指定文化財リストによれば、金内には和田弥一、平蔵父子の墓があるとされているが、道を尋ねるにも人影もなく、発見することはできなかった。和田弥一、平蔵父子は、金内村の庄屋を務め、官金の管理を任されていたが、薩軍(熊本協同隊)によって斬殺された。
山都町には、和田父子のほかにも猿渡の渡辺現、量蔵父子(戸長)も薩軍に斬殺されている。遠い道のりであったが、猿渡を目指して車を走らせた。やはり地震の影響により途中で通行止めとなっており、空しく引き返すしかなかった。
(浜町)
通潤酒造は、西南戦争時に西郷隆盛が本陣として使用し、奥の座敷に宿泊したと伝えられる。
通潤酒造
(中央公民館)
熊本有志隊結成の地
中央公民館の場所では、西南戦争の際、矢部と原水の有志により熊本有志隊が結成され官軍に投じた。矢部の有志二十四名は五月二十四日、浜町で結成され、翌日原水の有志と合流した。隊長芝藤完治、副隊長一瀬熊雄が約六十名を率いた。歩兵三連隊に配属され、竹田から鹿児島城山まで転戦して、凱旋した。
(通潤橋)
有名な通潤橋は、我が国で最大規模の石造アーチ式水路橋である。やはり熊本地震により放水は中止され、近づくことはできなくなっているが、それでも立ち入り禁止が解除されたのは幸いであった。
通潤橋
布田保之助翁像
通潤橋は、布田保之助が手掛けた事業の一つである。布田保之助は、天保四年(1833)から文久元年(1861)の約三十年の長きにわたり、矢部地域七十六ヶ村の長で、行政の責任者(惣庄屋)であった。保之助は、新田開発を目的とした用水路、溜池(堤)等の整備を行ったほか、道路や橋などの交通網を整備するなど、地域の実情に応じて数多くの開発事業を手掛けた。矢部地域で保之助の恩恵を受けない村はなかったといわれている。このうち最も有名なものが、白糸台地に安定した農業用水を供給することを目的に建造された通潤橋である。もはや土木事業というより、芸術作品と呼んでも良いくらいの見事な造形である。
(男成神社)
男成神社は、阿蘇大宮司が代々このお宮で元服を執り行ったことからその名前が付いたといわれる。西暦640年に阿蘇神社の分社として造られたという古い歴史を持つ神社である。
西南戦争では、熊本隊がこの地で招魂式を行い、祝宴で武運を祈った。翌日から熊本隊は、一足先に薩軍に続き人吉に向かった。
男成神社
西南戦争砲台跡
参道途中に日向往還道標があり、その側面に西南戦争砲台跡と赤い字で記されている。
(鮎の瀬大橋)
鮎の瀬大橋
通潤橋からひたすら南下すると鮎の瀬大橋という大きな橋に出会う。もちろん明治期にこのような橋は存在していない。この地が西南戦争の戦場となった。
橋を渡って東に少し進むと囲というバス停がある。この周辺が囲城跡である。バス停付近に根もとから折れてボロボロになった木標がある。辛うじて「西南の役 薩隊宿営地」と読める。
薩隊宿営地
(万坂峠)
万坂トンネル
現在、山都町から美里方面に抜ける国道218号線にはトンネルが穿たれているが、当時は険しい峠道であった。その峠付近に薩軍が砲台を構えて官軍の来襲に備えたという。
山都町は、矢部町、清和村、蘇陽町が合併して誕生した町である。誰がネーミングしたのか知らないが、行けども行けども山が重なる土地は、「山都」という町名がぴったりである。
西南の役 薩軍兵士三人の墓
長谷に薩軍兵士の墓がある。明治十年(1877)四月、御船方面の激戦で負傷した薩軍の青年三名が、十田里で息絶えた。この亡骸を歌野家の人が自分の墓地に「旅人」三人と称して葬った。
せっかく行き当てた墓地であったが、地震により全ての墓石が倒壊し、青いシートが被せてある状態であった。歌野家の墓地を特定することができたが、残念ながら薩軍兵士の墓は発見できなかった。
(金内)
金内橋
金内の集落の中心部に石造りの眼鏡橋が架けられている。金内橋は、嘉永三年(1850)、布田保之助によってかけられた。西南戦争では、官薩両軍がこの橋で休息をとったと言い伝えられている。
山都町指定文化財リストによれば、金内には和田弥一、平蔵父子の墓があるとされているが、道を尋ねるにも人影もなく、発見することはできなかった。和田弥一、平蔵父子は、金内村の庄屋を務め、官金の管理を任されていたが、薩軍(熊本協同隊)によって斬殺された。
山都町には、和田父子のほかにも猿渡の渡辺現、量蔵父子(戸長)も薩軍に斬殺されている。遠い道のりであったが、猿渡を目指して車を走らせた。やはり地震の影響により途中で通行止めとなっており、空しく引き返すしかなかった。
(浜町)
通潤酒造は、西南戦争時に西郷隆盛が本陣として使用し、奥の座敷に宿泊したと伝えられる。
通潤酒造
(中央公民館)
熊本有志隊結成の地
中央公民館の場所では、西南戦争の際、矢部と原水の有志により熊本有志隊が結成され官軍に投じた。矢部の有志二十四名は五月二十四日、浜町で結成され、翌日原水の有志と合流した。隊長芝藤完治、副隊長一瀬熊雄が約六十名を率いた。歩兵三連隊に配属され、竹田から鹿児島城山まで転戦して、凱旋した。
(通潤橋)
有名な通潤橋は、我が国で最大規模の石造アーチ式水路橋である。やはり熊本地震により放水は中止され、近づくことはできなくなっているが、それでも立ち入り禁止が解除されたのは幸いであった。
通潤橋
布田保之助翁像
通潤橋は、布田保之助が手掛けた事業の一つである。布田保之助は、天保四年(1833)から文久元年(1861)の約三十年の長きにわたり、矢部地域七十六ヶ村の長で、行政の責任者(惣庄屋)であった。保之助は、新田開発を目的とした用水路、溜池(堤)等の整備を行ったほか、道路や橋などの交通網を整備するなど、地域の実情に応じて数多くの開発事業を手掛けた。矢部地域で保之助の恩恵を受けない村はなかったといわれている。このうち最も有名なものが、白糸台地に安定した農業用水を供給することを目的に建造された通潤橋である。もはや土木事業というより、芸術作品と呼んでも良いくらいの見事な造形である。
(男成神社)
男成神社は、阿蘇大宮司が代々このお宮で元服を執り行ったことからその名前が付いたといわれる。西暦640年に阿蘇神社の分社として造られたという古い歴史を持つ神社である。
西南戦争では、熊本隊がこの地で招魂式を行い、祝宴で武運を祈った。翌日から熊本隊は、一足先に薩軍に続き人吉に向かった。
男成神社
西南戦争砲台跡
参道途中に日向往還道標があり、その側面に西南戦争砲台跡と赤い字で記されている。
(鮎の瀬大橋)
鮎の瀬大橋
通潤橋からひたすら南下すると鮎の瀬大橋という大きな橋に出会う。もちろん明治期にこのような橋は存在していない。この地が西南戦争の戦場となった。
橋を渡って東に少し進むと囲というバス停がある。この周辺が囲城跡である。バス停付近に根もとから折れてボロボロになった木標がある。辛うじて「西南の役 薩隊宿営地」と読める。
薩隊宿営地
(万坂峠)
万坂トンネル
現在、山都町から美里方面に抜ける国道218号線にはトンネルが穿たれているが、当時は険しい峠道であった。その峠付近に薩軍が砲台を構えて官軍の来襲に備えたという。
お墓は、金内の和田酒店を左手に455沿に少し行くと左側に徒歩で登れる丘(山)、があります。そこを登って行ったところです。昔はもっと道が悪かったのですが、行きやすくなってました。
メール有り難うございます。
大変恐縮でしが、和田弥一・平蔵の墓の正確な場所をご教示いただけませんでしょうか。和田酒店から何メートルほど455号線を進めんだところでしょうか。
具体的に決まっておりませんが、何時か再チャレンジしたいと思います。
弥一平蔵の墓は私の祖父の墓の近くにあって、もう祖父の50回忌を済ませてからは滅多に訪れることがなくなりました。昔は和田酒店の店主(遠い親戚)の所に車を止め、そこから歩いて登りました。酒店を左手に少し先に進むと、左側にトラックを停められるくらい、道が広くなっているところがあります。200メートルもあるかしら、そう遠くないです。そこから登ります。かなり古くからの和田家の墓が半分朽ちたようにたくさんありますが、弥一平蔵の墓はその中でも大きいです。ただ、熊本地震の後どうなっているのかわかりません。場所は変わっていないはずなので、いつかまた行けたら写真アップしたいと思います。
貴重な情報、有り難うございました。
いつになるか分かりませんが、いずれ挑戦したいと思います。