史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八王子 Ⅻ

2020年11月21日 | 東京都

(八日市宿)

 八王子宿は甲州街道の宿場町で、八王子十五宿とも呼ばれる。八王子十五宿は、横山宿と八日市宿(八王子市八日町8‐1)を中心に繁栄した。元治元年(1864)にはスイスの貿易商カスパー・ブレンワルドが八王子宿を訪れている。彼の残した日記には「たった一本の広くて長い道がこの町を作っており、家々は横浜よりずっと美しくて大きいものだった。公の建物はその大きさと優雅さで群を抜いていた。日本では何もかも非常に清らかに保たれている。」と描写されている。

 当時の八王子宿は道幅九間(約十六メートル)、街並みは横山宿から八木宿の外れまで約二キロメートル続いた。

 

甲州道中 八日市宿跡

 

 ブレンワルドは、八王子宿の大勢の子供につきまとわれ「唐人! 馬鹿!」など、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられた。食事をすれば、大衆が集まってきて好奇心むき出しでじろじろと見る。食事を済ませて散歩に出ようとすると、あまりに多くの人が集まってきたので、身の危険を感じて茶屋に戻っている。当時、八王子宿周辺までが外国人遊歩区域とされていたので、時々外国人が町に現れた。当時としては珍しい外国人を八王子の人びとは好奇の目で見たのであろう。

 

(禅東院)

 

禅東院

 

 禅東院は、八王子夢美術館の裏側(北側)に位置している(八王子市本町17‐19)。

 元治元年(1864)、天狗党約千人余が常陸を出て、利根川を越えて本庄宿(現・埼玉県本庄市)に向かったとの情報を得て、若年寄田沼意尊は、川越藩に対して今市、越生、扇町屋(現・埼玉県入間市)、八王子周辺への出兵を命じた。天狗党の一部が箱根ヶ崎から横浜へ向かうとの風評があったため、川越藩兵約三百は同年十一月十六日、禅東院に宿陣した。

 さらに江川代官の手代や幕府歩兵隊、若年寄本多能登守忠紀の一隊、講武所奉行堀親義など入れ替わり八王子宿に現れ、かつてない慌ただしさと緊張が走った。結局、天狗党が八王子宿に近づくこともなかったため、十二月二日には駐屯していた川越藩兵も去っていった。

 

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