(神崎寺)
神埼寺
逸民飛田先生墓
(弘道館教授)
飛田逸民は、安永七年(1778)に生まれた。大田錦城、藤田幽谷に学び、彰考館で「大日本史」の編纂にも関わった。文政七年(1824)、大津浜に異国船の乗組員が上陸するという緊急事態が発生したとき、会沢正志斎とともに現地に急派されたことがあった。このとき水戸藩では異国船(イギリス船)に対して薪水を支給して去らせたが、これ聞いた藤田幽谷、東湖父子は憤ったという。文久元年(1861)八十四歳で死去。
贈正五位稲田重蔵墓
稲田重蔵は、文化十一年(1814)に那珂郡下国井村に生まれた。父は農民であったが、重蔵は農民となるのを嫌い、水戸に出て田丸直諒(田丸稲之衛門の養父)に仕え、のちに町方同心に推され、金子孫二郎が郡奉行のとき、郡吏に取り立てられた。万延元年(1860)の桜田門外の変で大老井伊直弼を襲って闘死した。時に四十七歳。襲撃側二十人の中で、現場で命を落とした唯一の人物である。
神埼寺
逸民飛田先生墓
(弘道館教授)
飛田逸民は、安永七年(1778)に生まれた。大田錦城、藤田幽谷に学び、彰考館で「大日本史」の編纂にも関わった。文政七年(1824)、大津浜に異国船の乗組員が上陸するという緊急事態が発生したとき、会沢正志斎とともに現地に急派されたことがあった。このとき水戸藩では異国船(イギリス船)に対して薪水を支給して去らせたが、これ聞いた藤田幽谷、東湖父子は憤ったという。文久元年(1861)八十四歳で死去。
贈正五位稲田重蔵墓
稲田重蔵は、文化十一年(1814)に那珂郡下国井村に生まれた。父は農民であったが、重蔵は農民となるのを嫌い、水戸に出て田丸直諒(田丸稲之衛門の養父)に仕え、のちに町方同心に推され、金子孫二郎が郡奉行のとき、郡吏に取り立てられた。万延元年(1860)の桜田門外の変で大老井伊直弼を襲って闘死した。時に四十七歳。襲撃側二十人の中で、現場で命を落とした唯一の人物である。
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