史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

深谷 Ⅴ

2016年04月01日 | 埼玉県
(清心寺)
 十二世紀の源平一の谷の合戦において、源氏方の岡部六弥太忠澄が、平氏きっての智勇の持ち主といわれた平薩摩守忠度(ただのり)を討ち、その菩提を弔うために、自身の領地の中でもっとも景色の良いこの地に五輪塔を建てた。戦国期に入ると、深谷上杉家の三宿老の一人で、皿沼城主だった岡谷清美が天文十八年(1549)に清心寺を開いた。境内に平忠度の供養塔のほか、一族の岡谷繁實の墓がある。


清心寺


従五位岡谷繁實墓

 清心寺本堂の直ぐ横に岡谷繁實(おかのやしげざね)の墓がある。夫人の墓と並んでおかれている。
 岡谷繁實は、天保六年(1835)、館林藩中老の家に生まれた。弘化四年(1847)、家督を継ぎ、広間番方となった。主命により水戸青山延光の塾、さらに昌平黌に学んだ。万延元年(1860)、上京して勅使東下を内願。藩内に勤王を説き、文久三年(1863)、藩の文領河内国の雄略天皇陵の修復に当たった。幕府の征長の議が起こると、藩主秋元志朝と長州藩主とは兄弟の縁があるため、藩主に従って上京し命により公武の間を調停して一時朝議は中止に決定した。しかし、元治政変により藩主は致仕、繁實も蟄居を命じられ、武蔵国深谷に寓居した。慶応三年(1867)、復籍の命があったが、時局の緊迫を憂え辞して上京、慶応四年(1868)一月には小沢一仙らとともに高松隊の参謀となって甲州へ進出したが、帰還を命じられた。このとき小沢一仙は捕えられて処刑されているが、岡谷は生き延びている。ついで遷都の議が起こると、大阪を退けて江戸遷都を主張した。明治二年(1869)二月、行政官出仕。ついで民部省に転じ、岩代国巡察使附属、若松県、水沢県出仕等を経て、明治七年(1874)、内務省出仕。明治十一年(1878)には修史館御用掛、明治三十四年(1901)、鎌倉宮宮司、翌年には氷川神社宮司を歴任した。この間、長慶天皇の研究、足利学校、金沢文庫の再興、「皇朝編年史」等の修史事業に功績があった。大正九年(1920)、八十六歳で死去。

(惣持寺)
 惣持寺に幕末の剣豪塚田源三郎の墓がある。


惣持寺


塚田源三郎之墓

 塚田源三郎は、上増田の蛭川一(はじめ)の門下に入り、甲源一刀流を修めた。免許皆伝を得て、自宅に道場を開き、多くの門人を育てた。維新後は出身地の明戸村や蓮沼村の戸長や村長を務めた。明治三十八年(1905)、六十八歳にて死去。

(上増田)


蛭川一翁之碑

 出身地の上増田の蛭川一の顕彰碑が建てられている。
 蛭川一忠康は、武蔵国幡羅郡(現・深谷市上増田)に生まれ、紀州徳川家指南役強矢良助の門に入り、江戸四谷の道場で甲源一刀流を学んだ。文久三年(1863)、十四代将軍家茂の上洛の折には、六か月間その身の警護に当たった。後に上増田榛沢、新堀道場に師範代を置き、関東甲信越十数か国を歩き、その間、門人は千人を越えたという。明治三十六年(1903)、大阪で開かれた武道大会において高齢者の部で抜群の剣技を見せ、大日本武術総裁彰仁親王より二度にわたって賞を受けた。
 埼玉県下には、甲源一刀流の名を記した奉納額が各所の神社に掲げられているが、中でも甲源一刀流一門をあげて靖国神社に掲げられた奉納額には、逸見宗家に継いで最上席に掲載さている。蛭川一は甲源一刀流門下において最も有力な師範者であったということらしい。


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