(柳生陣屋跡)
柳生陣屋跡
この日は奈良県下の天誅組関連史跡を中心に回る予定でいたが、大いに目論見が外れてしまった。その最大の原因が、奈良市柳生の訪問と見学に予想以上に時間を要したことである。柳生は、奈良市に所在しているとはいうものの、市街からだと自動車でも片道四十分以上を要する。現地における見学を考えると、最低でも半日は見ておかなくてはならないだろう。柳生陣屋跡、芳徳寺、家老屋敷跡を見学して、次の目的に向かったときには、既にお昼が近かった。
柳生陣屋跡
柳生藩の藩祖は柳生宗矩。その長男が有名な柳生十兵衛三巌である。石高は一万石程度の小藩であるが、代々将軍の剣術指南役を務める家柄であった。十三代にわたって柳生藩を支配した。
この陣屋は寛永十九年(1642)、宗矩が二年の歳月をかけて建造したもので、その後、三代宗冬の時に増築整備されたが、延享四年(1747)の大火で全焼した。仮建築のまま明治維新を迎えた。
(芳徳寺)
芳徳寺は、柳生家の菩提寺である。寛永十五年(1683)、柳生宗矩が父石舟斎の菩提を弔うために創建し、沢庵和尚が開山したものである。もともとこの地には柳生家の居城があり、石段、掘割などにその名残をとどめている。
芳徳寺の北側五十メートル、裏山の松林の中に柳生家歴代の墓がある。
芳徳寺
大機院殿前備州刺史智峯紹転大居士(十代 柳生俊章の墓)
陽徳院殿前但州刺史剛巌宗健大居士(十二代 柳生俊順の墓)
幕末の柳生藩主は十二代俊順(としむね)。旗本武田氏から養子に入ったが、文久二年(1862)二十五歳の若さで病死し、跡を養嗣子で弟の俊益(とします)が継いだ。柳生家は代々将軍家の剣術指南を務める家で、その関係で佐幕色の強い藩であったが、最終的には勤王に決した。
(柳生藩家老屋敷)
柳生藩の家老小山田主鈴の屋敷である。小山田主鈴は、文政九年(1826)、国家老として江戸から奈良に移り、藩財政の立て直しに成功した。弘化三年(1846)、家督を譲って院隊士、さきに藩公柳生俊章から賜っていたこの新邸で余生を送った。この建物は弘化四年(1847)に着工し、嘉永元年(1848)六月に上棟したものである。
主鈴は、安政三年(1856)、七十五歳で世を去ったが、その子孫は明治の廃藩後もここにとどまった。主屋はほぼ創建当時の姿をとどめている。
柳生藩家老屋敷
なお、この屋敷は昭和三十九年(1964)、作家山岡荘八が買い取り、しばしばここに滞在した。柳生宗矩を扱った昭和四十六年(1971)の大河ドラマ「春の坂道」の原作も、この屋敷で想を練ったといわれる。
長屋門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/ad/342e1f404aaaaa265e81bbf015f13893.jpg)
柳生藩家老屋敷
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/5e/cde02c97b401d0aeb755440c20e0b749.jpg)
柳生陣屋跡
この日は奈良県下の天誅組関連史跡を中心に回る予定でいたが、大いに目論見が外れてしまった。その最大の原因が、奈良市柳生の訪問と見学に予想以上に時間を要したことである。柳生は、奈良市に所在しているとはいうものの、市街からだと自動車でも片道四十分以上を要する。現地における見学を考えると、最低でも半日は見ておかなくてはならないだろう。柳生陣屋跡、芳徳寺、家老屋敷跡を見学して、次の目的に向かったときには、既にお昼が近かった。
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柳生陣屋跡
柳生藩の藩祖は柳生宗矩。その長男が有名な柳生十兵衛三巌である。石高は一万石程度の小藩であるが、代々将軍の剣術指南役を務める家柄であった。十三代にわたって柳生藩を支配した。
この陣屋は寛永十九年(1642)、宗矩が二年の歳月をかけて建造したもので、その後、三代宗冬の時に増築整備されたが、延享四年(1747)の大火で全焼した。仮建築のまま明治維新を迎えた。
(芳徳寺)
芳徳寺は、柳生家の菩提寺である。寛永十五年(1683)、柳生宗矩が父石舟斎の菩提を弔うために創建し、沢庵和尚が開山したものである。もともとこの地には柳生家の居城があり、石段、掘割などにその名残をとどめている。
芳徳寺の北側五十メートル、裏山の松林の中に柳生家歴代の墓がある。
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芳徳寺
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大機院殿前備州刺史智峯紹転大居士(十代 柳生俊章の墓)
陽徳院殿前但州刺史剛巌宗健大居士(十二代 柳生俊順の墓)
幕末の柳生藩主は十二代俊順(としむね)。旗本武田氏から養子に入ったが、文久二年(1862)二十五歳の若さで病死し、跡を養嗣子で弟の俊益(とします)が継いだ。柳生家は代々将軍家の剣術指南を務める家で、その関係で佐幕色の強い藩であったが、最終的には勤王に決した。
(柳生藩家老屋敷)
柳生藩の家老小山田主鈴の屋敷である。小山田主鈴は、文政九年(1826)、国家老として江戸から奈良に移り、藩財政の立て直しに成功した。弘化三年(1846)、家督を譲って院隊士、さきに藩公柳生俊章から賜っていたこの新邸で余生を送った。この建物は弘化四年(1847)に着工し、嘉永元年(1848)六月に上棟したものである。
主鈴は、安政三年(1856)、七十五歳で世を去ったが、その子孫は明治の廃藩後もここにとどまった。主屋はほぼ創建当時の姿をとどめている。
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柳生藩家老屋敷
なお、この屋敷は昭和三十九年(1964)、作家山岡荘八が買い取り、しばしばここに滞在した。柳生宗矩を扱った昭和四十六年(1971)の大河ドラマ「春の坂道」の原作も、この屋敷で想を練ったといわれる。
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長屋門
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柳生藩家老屋敷
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