史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

藤枝 Ⅱ

2022年05月21日 | 静岡県

(大慶寺)

 大慶寺は田中藩主太田家の菩提寺である。その関係で、墓地の一角に田中藩士の墓が集められている。ただし、歴代藩主は江戸詰めだったため、ここには田中藩初代藩主太田資直(1658~1705)の墓があるのみである。

 

大慶寺

 

 大慶寺境内には、樹高約二五メートル、根回り約七メートルという久遠の松がそびえている。

 

田中藩士墓碑

 

 中央の背の高い墓石が太田資直のものである。

 

縄齋石井先生之墓

 

 石井縄齋(じょうさい)は、田中藩本多家の家臣。日知館創立者として漢学師範を勤め、経史を講じ、門下より熊沢(漢史学)、恩田(兵学)、佐竹(槍術)等多くの逸材を輩出した。天保八年(1837)に開かれた日知館は、水戸弘道館とともに「天下の二関」と称され、東海道文武の関門であった。天保十一年(1840)、五十五歳にて没。

 

贈従五位熊澤先生墓碑

 

聡明院慧智日徳信士(熊沢太郎の墓)

 

 熊沢太郎の墓碑の前に置かれている小さな墓石が当人の墓である。

 熊沢太郎惟興は、寛政三年(1791)の生まれ。中小姓御広間番、学問所世話役を経て、藩儒石井縄齋の代講を勤め、石井の帰藩により昌平黌に学んだ。天保五年(1834)、田中藩諸稽古場ができるに及び、世話役・目付となり、またこれが日知館と改称されると、その教授方を勤めた。弘化四年(1847)、上方を旅すると、暇を願って出発。密かに歴代御陵を調査して「御陵私記」二巻を著わしたが、事顕れるときは没書の難を恐れて深く秘蔵した。平素勤王の志が厚く、国体に関する史伝・考証に関する著書が多い。維新に際し、田中藩が方向を誤らなかったのは、太郎の教化によるところが大きいといわれる。安政元年(1854)、年六十四で没。

 

香遠院荷渓日泰(大塚荷渓の墓)

 

 大塚荷渓は、安永七年(1778)、藤枝宿屈指の豪商として栄えた奥州屋の大塚家に生まれた。奥州屋は、酒造業のかたわら、中央の文化人との交流に力を入れ、郷土の文化の拠点としての役割も果たしていて、荷渓はその中心となった。南画や漢詩に優れ、幅広い教養を兼ね備えていた。荷渓は詩社「紅山社」を結成し、石野雲嶺などの後輩の育成に力を入れた。天保十五年(1844)没。

 

田中藩士の墓(鈴木只六、青島専右衛門の墓)

 

 手前は棒術師範鈴木只六清久の墓。その奥は砲術師範青島専右衛門有方の墓である。鈴木只六は、安政二年(1858)、六十一歳にて没。青島専右衛門は安政五年(1855)、六十五歳にて没。

 

 

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