史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

さくら

2014年10月11日 | 栃木県
(押上)


戦死二人祭の碑

 慶応四年(1868)四月、負傷して道に迷った二人の幕兵は、押上村にて村人に殺害された。その後、この地域では洪水や疫病(コレラ)が相次ぎ、村人たちは二人の怨霊と恐れ、中には碑に斬り付ける者もいた。それから百年以上が経過し、いつしかこの惨事も忘れられ、古碑も路傍に消滅しかかっていた。近在の有志一同はこのことを深く憂えて、その由来を刻み、幕兵二人の鎮魂慰霊と成した。
 辺り一面には水田が広がりばかりで、何の目印もない。この小さな石碑を見つけ出すのは至難である。

(光院)


光院

 さくら市喜連川の光院は、恵心僧都を開基とし、最初は興国寺と称していたが、元和二年(1616)に、喜連川氏初代の喜連川国朝の養母光院が現在地に移したことから寺名を改めた。本堂裏に広大な墓地が拡がるが、二基同家墓所の中に喜連川偽謀事件の首謀者が葬られている。


賢徳院碩雲大光居士
集功院智皎良順居士
實性院勇道自顯居士
(二階堂貞明父子の墓)

 喜連川藩は、足利尊氏の次男基氏の流れを汲む名族で、石高は一万石に満たない(実高五千石という)極小藩ながら、家格は十万石並という扱いを受けた。
 慶応四年(1868)七月十五日、家老二階堂貞明は、喜連川藩が会津藩に内通していると新政府に讒訴した。藩主喜連川縄氏は、二階堂貞明、貞則父子を断罪し、同年八月十三日、首謀者三名が斬刑に処された。
 処刑された二階堂貞明(号は量山)は、先代熙氏に仕えて藩政改革に取り組んだ元家老である。熙氏が亡くなり、縄氏が家督を継ぐと、失脚した。讒訴の背景には、藩内の派閥争いがあったのであろう。

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