史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

匝瑳

2010年01月09日 | 千葉県
(脱走塚)
 この日は、中央線から総武線経由、千葉で総武本線に乗り換えて八日市場(匝瑳市)まで出掛けてきた。旅行時間は片道三時間以上。成東を過ぎた辺りから、車窓には田圃が広がるだけの単調な風景が続く。


脱走塚

 八日市場駅からはバスに乗ろうという腹積りだった。ところが、当地の循環バスは土日祝日運休だということが現地に行ってから分かったため、仕方なく歩くことにした。順当にいけば二十分ほどで目的地に行き着くはずだったのが、途中で道に迷ったので脱走塚まで倍以上時間を要した。
 脱走塚には、匝瑳市民病院を目指して行けばよい。病院から徒歩五分くらいの場所である。

 明治元年(1868)十月三日、水戸城を追われた諸生党一行九十余は、銚子、飯岡を経て八日市場の福善寺に入った。諸生党を追って天狗党が八日市場に入り、福善寺に火を放った。同六日、諸生党と天狗党はこの地で激突し(松山戦争)、諸生党は壊滅した。戦死した三十名は首を奪われ、残された首の無い死体は村人たちによって埋葬され、脱走塚と呼ばれるようになった。
 写真中央は吊英魂碑、右手の祠の中には「戦死二十五人墓」と刻まれた墓石が収められている。

(福善寺)


福善寺

 八日市場駅から北に真っ直ぐ行ったところに、諸生党が籠った福善寺がある。

 安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、そして天狗党の騒乱に至る水戸藩の内紛は、年を経るに従ってエスカレートしていった。その終着点がここ八日市場の脱走塚である。長年にわたる血で血を洗う抗争は、ここで終止符を打ったのである。明治政府が戊辰戦争で勝利を収めた余勢をかって、最期は天狗勢が勝利を得たが、これを真の勝利と呼べるだろうか。維新を迎えたとき、水戸藩の人材は払底し、ほとんど人材を新政府に送り込むことはできなかった。水戸藩の抗争は、テロと戦争の応酬は勝者を生まないという教訓を我々に伝えている。
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