(本立寺)
本立寺
本立寺はもともと信濃国深志(現・長野県松本市)に所在していたが、小笠原氏の転封に伴い、播磨国明石、豊前小倉へと寺地を移した。慶応二年(1866)の幕長戦争で城下町が焼失した際、本立寺も一時廃されたが、明治二十年(1887)、豊津の地に再建された。国学者西田直養の墓があるというので、探してみたが、墓地すら発見できないまま撤退することになった。
(峯高寺)
峯高寺
峯高寺を訪れると、ちょうど庭の手入れをしている御婦人がおられたので、墓の所在を確認することができた。墓地は境内を出て少し離れたところにある。墓地を入ったところに岡出衛の墓がある。
花柳院遊夢俊治居士(岡出衛墓)
岡出衛(いずえ)は、文化九年(1812)小倉藩士の家に生まれた。初名を半五郎といった。二十代後半から太腿の肉が「腐肉」となる奇病に悩まされた。様々な治療を試みたがいずれも効果がなかった。竹中謙随という医師に診てもらったところ、十年越しの病はウソのように完治した。ようやく職務に専念できるようになった出衛は小倉藩の縁戚である播磨安志小笠原藩一万石に派遣され、そこで家老席に列するなど手腕を振るった。小倉に帰郷すると、用人役を命じられ、奥向きの御用掛や新設された政事掛奉行職に登用されるなど、出格の扱いを受けた。維新後も小笠原家の家令を務め、その家政を支え続けた。
(甲塚墓地)
秋月士族戦死墓
秋月藩士の墓
明治九年(1876)の秋月の乱の際、秋月党の人々が旧小笠原藩士の蹶起を促すためにこの地へ来て説得を始めたが、結局小笠原の人々は動かず、やがて小倉から派遣された政府軍との間で戦闘となり、秋月の人々は十七名の戦死者を出して敗走した。十七名の遺骸はこの場所に葬られ、翌年遺族らによってこの墓標が建てられた。
斗南藩郡長正霊位(郡長正の墓)
郡長正は、会津藩家老萱野権兵衛長修の二男に生まれた。萱野権兵衛は会津戦争の敗戦の責任を負って自刃し、萱野家は断絶。遺族は郡という姓を名乗ることになった。維新後、藩では同じ佐幕派として戦った小笠原藩の藩校育徳館に長正ほか六名の若者を派遣し、留学させた。わけても長正は文武にわたって優れていたという。彼が故郷にあてた手紙の中に寮の食事に関することが書き添えてあり、それがたまたま他の生徒の目に触れて問題となった。ついには武士の精神をなじられるに至り、長正は会津武士の面目を守るため切腹して果てた。明治四年(1871)五月一日のことであった。この墓は遠く三百里を隔てた故郷会津に向けて建てられている。
(育徳館高校)
豊津高校の一角に、豊津高校の前身育徳館の校門が残されている。この黒塗りの門は「黒門」と呼ばれている。育徳館は、小笠原藩の藩校である。第二次征長戦の小倉口の戦いに敗れた小倉藩が、藩庁を田川郡(現・香春町)に移した際に、小倉城三の丸にあった藩校思永館も閉鎖され、新たにこの地に藩校を開くことになった。黒門も育徳館正門として建てられたものである。育徳館は明治十二年(1879)県立豊津高校(現・育徳館高校)に発展した。
育徳館高校
育徳館 黒門
郡長正ゆかりの石
昭和三十一年(1956)、会津鶴ヶ城茶室の庭石と郡長正の実家である萱野家の墓石の一部が、郡長正ゆかりの石として育徳館高校に寄贈された。
本立寺
本立寺はもともと信濃国深志(現・長野県松本市)に所在していたが、小笠原氏の転封に伴い、播磨国明石、豊前小倉へと寺地を移した。慶応二年(1866)の幕長戦争で城下町が焼失した際、本立寺も一時廃されたが、明治二十年(1887)、豊津の地に再建された。国学者西田直養の墓があるというので、探してみたが、墓地すら発見できないまま撤退することになった。
(峯高寺)
峯高寺
峯高寺を訪れると、ちょうど庭の手入れをしている御婦人がおられたので、墓の所在を確認することができた。墓地は境内を出て少し離れたところにある。墓地を入ったところに岡出衛の墓がある。
花柳院遊夢俊治居士(岡出衛墓)
岡出衛(いずえ)は、文化九年(1812)小倉藩士の家に生まれた。初名を半五郎といった。二十代後半から太腿の肉が「腐肉」となる奇病に悩まされた。様々な治療を試みたがいずれも効果がなかった。竹中謙随という医師に診てもらったところ、十年越しの病はウソのように完治した。ようやく職務に専念できるようになった出衛は小倉藩の縁戚である播磨安志小笠原藩一万石に派遣され、そこで家老席に列するなど手腕を振るった。小倉に帰郷すると、用人役を命じられ、奥向きの御用掛や新設された政事掛奉行職に登用されるなど、出格の扱いを受けた。維新後も小笠原家の家令を務め、その家政を支え続けた。
(甲塚墓地)
秋月士族戦死墓
秋月藩士の墓
明治九年(1876)の秋月の乱の際、秋月党の人々が旧小笠原藩士の蹶起を促すためにこの地へ来て説得を始めたが、結局小笠原の人々は動かず、やがて小倉から派遣された政府軍との間で戦闘となり、秋月の人々は十七名の戦死者を出して敗走した。十七名の遺骸はこの場所に葬られ、翌年遺族らによってこの墓標が建てられた。
斗南藩郡長正霊位(郡長正の墓)
郡長正は、会津藩家老萱野権兵衛長修の二男に生まれた。萱野権兵衛は会津戦争の敗戦の責任を負って自刃し、萱野家は断絶。遺族は郡という姓を名乗ることになった。維新後、藩では同じ佐幕派として戦った小笠原藩の藩校育徳館に長正ほか六名の若者を派遣し、留学させた。わけても長正は文武にわたって優れていたという。彼が故郷にあてた手紙の中に寮の食事に関することが書き添えてあり、それがたまたま他の生徒の目に触れて問題となった。ついには武士の精神をなじられるに至り、長正は会津武士の面目を守るため切腹して果てた。明治四年(1871)五月一日のことであった。この墓は遠く三百里を隔てた故郷会津に向けて建てられている。
(育徳館高校)
豊津高校の一角に、豊津高校の前身育徳館の校門が残されている。この黒塗りの門は「黒門」と呼ばれている。育徳館は、小笠原藩の藩校である。第二次征長戦の小倉口の戦いに敗れた小倉藩が、藩庁を田川郡(現・香春町)に移した際に、小倉城三の丸にあった藩校思永館も閉鎖され、新たにこの地に藩校を開くことになった。黒門も育徳館正門として建てられたものである。育徳館は明治十二年(1879)県立豊津高校(現・育徳館高校)に発展した。
育徳館高校
育徳館 黒門
郡長正ゆかりの石
昭和三十一年(1956)、会津鶴ヶ城茶室の庭石と郡長正の実家である萱野家の墓石の一部が、郡長正ゆかりの石として育徳館高校に寄贈された。