史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大牟田

2016年04月15日 | 福岡県
(三池小学校)
 荒尾の宮崎兄弟記念館、宮崎家の墓を訪ねた後、県境を越えて福岡県大牟田市に入る。大牟田の三池は立花家一万石の小藩である。三池藩は六代藩主立花種周のとき、陸奥国下手渡(現。福島県伊達市月舘町)へ転封された。同じ一万石といえ、肥沃な三池と比べて山間の僻地で、明らかな左遷であった。以来、立花家にとって三池復封は悲願となった。種周から四代目の立花種恭は、文久三年(1863)幕府の大番頭に登用され、さらに同年九月には若年寄に抜擢された。その後も十四代将軍家茂の側近として長州征伐に随行するなど重用されたが、明治新政府樹立後、辞職謹慎した。奥羽越列藩同盟が成立し、下手渡藩も同盟に加わったが、藩主種恭は新政府に恭順を示しており、その矛盾した行動を仙台藩に問題視された。八月には仙台藩が下手渡藩領に進攻し、陣屋を占拠、城下も焼き払われた。下手渡の陣屋が焼失したことから、藩主種恭は居所を三池に移し、再び三池藩が成立することになった。明治二年(1869)には三池藩知事に任命されている。


三池小学校

 現在、三池小学校のある場所が、三池藩陣屋跡である。陣屋の遺構らしきものは少ないが、学校の西側の藩主居館跡、それに通じる石段、周囲の掘割や石造りの橋等は往時のままであろう。


三池藩陣屋跡


三池藩主居館跡


大手橋

(早馬神社)
 大牟田市宮部は、幕末の剣術家大石進を産んだ土地である。
 大石進は、寛政九年(1797)、柳川藩武術師範の家に生まれた。幼少の頃より、祖父に新陰流剣術と大島流槍剣術を学んだ。長じて柳川藩の剣術師範を継いだ。身長六尺五寸の大男で、容貌魁偉、長大な竹刀を愛用し、喉突きが得意技であった。十八歳のとき、大石新陰流を創設した。天保三年(1832)、三十六歳のとき、江戸勤務となり、当時江戸を代表する男谷精一郎、千葉周作、桃井春蔵、白井亨らに挑戦し、いずれも互角以上であったという。天保十年(1839)再び江戸に上がると、旗本や諸藩の武士が入門を請うた。藩主立花鏡寛(あきとも)は、六十石から七十石に加増してその功を称えた。嘉永元年(1848)、家督と剣槍術師範を二代目の進(種昌)に譲り隠居。文久三年(1863)、六十七歳で死去した。


早馬神社

 宮部の早馬神社境内に大石道場跡を示す石碑がある。


大石道場跡

 この付近には、大石進顕彰碑や墓所があるはずだが、見つけられなかった。

(紹運寺)


紹運寺

 紹運寺は、三池藩主立花家の菩提寺として、元和七年(1621)に建立された曹洞宗の寺である。境内の立花家墓地には、二代藩主立花種次、八代藩主種徳の墓がある。


三池藩主墓地

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