(JR清川口駅北側)
北斗市は、平成十八年(2006)に上磯町と大野町が合併して誕生した市である。まず函館市に近い旧上磯町から回る。
官修墳墓
隊長 黒澤博之丞
七重浜で戦死した弘前藩士十名と箱館府兵四名の墓である。中央の一番大きな墓石正面に「隊長 黒澤博之丞」とあるが、墓に葬られているのは側面に名前の刻まれている四名である。墓を移設した際に向きを間違えたらしい。
この官修墳墓を撮影したあと江差線の踏切を越えて矢不来方面に向かおうとしたとき、ふと清川口駅を見ると、そこに我が息子を発見した。待ち合わせしたわけではないというのに、この広い北海道で息子と再会するとは何という偶然であろう。こちらが少々興奮していると、息子は「じゃあ、これを頼むわ」といって手にしていた衣類の詰まったバックをこちらに渡した。結果的にまるで息子の大きな荷物を預かるために落ち合ったようなものであった。
(有川大神宮)
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有川大神宮
有川村は、北前船が出入りするほど近在では大きな港町であった。明治二年(1869)四月二十九日、海岸沿いに撤退を続けた旧幕軍はこの地で踏みとどまり、激戦となった。この戦闘で衝鋒隊最高幹部永井蠖伸斎が戦死している。守備兵は持ち場を捨てて北方へ潰走した。現地で指揮していた大鳥圭介も味方の崩壊を止めることができず、敗走することになった。
官修墳墓は、当初有川大神宮の境内にあったが、大正三年(1914)に現在地である清川駅北側に移された。
(種田家)
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種田家
種田家は代々有川大神宮の宮司を継ぐ家系で、本家八代目種田金十郎は漁業で財を成し、戸切地陣屋の造営や、箱館戦争でも松前藩の会計方として深く関わった。
(東浜)
東浜 古戦場跡
この松林は、文久二年(1862)、箱館奉行支配組頭栗林瑞見が、松苗を植樹したもので、その一部が現在も松林となって残っている。箱館戦争ではこの付近でも激戦となった。
(矢不来台場跡)
矢不来台場跡
JR江差線茂辺地トンネル上付近で、国道228号線を茂辺地から旧街道を入ると矢不来台場跡である。現在、「やふらい」と読まれているが、当時は「やぎない」と呼ばれていたそうである。箱館奉行時代、この辺りに当初盛岡藩が台場を築き、その後松前藩が引き継いで警護していた。旧幕軍でもここを箱館の防御拠点として重視し、土塁や火薬庫を置いて陣地としていた。
旧道を入って数百メートル進むと、北斗市教育委員会が建てた説明がある。この背後に土塁などが保存よく残されているらしいが、かなり雑草が生い茂っており、この中に足を踏み入れるのは躊躇われた。
(矢不来天満宮)
矢不来天満宮
旧幕軍は茂別館から矢不来天満宮にかけて無数の塹壕を掘って、攻撃に備えた。しかし、新政府軍は艦砲射撃によって旧幕軍の陣地を攻撃したため、この時すでに開陽を失い制海権を奪われていた旧幕軍は海岸部から崩壊した。その日の夕刻には矢不来天満宮は新政府軍に占拠された。旧幕軍五百名のうち衝鋒隊を率いる天野新太郎ほか百六十人が戦死し、七十~八十人が負傷した。会津遊撃隊の諏訪常吉も重傷を負って、箱館病院に運ばれている。
矢不来を破った新政府軍は、一気に箱館に迫った。
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史跡 茂別館跡
(富川八幡宮)
富川八幡宮の石段を登ると神社の本殿がある。その裏手一帯が箱館戦争の戦跡である。今も土塁や砲座跡が残っているそうだが、特定できなかった。
富川八幡宮
(松前藩戸切地陣屋跡)
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松前藩戸切地陣屋跡
蝦夷地の防衛を強化する目的で幕府は安政二年(1855)に松前藩に命じて戸切地(へぎりち)陣屋を構築させた。その四稜郭状の陣屋内には十七棟の建物があり、約百二十人が守備にあたっていた。明治元年(1868)の箱館戦争のとき、旧幕軍に陣屋を利用されないよう松前藩は自ら火を放って建物を焼き払った。