史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

知内

2013年11月09日 | 北海道
(建有川寨門跡)


建有川寨門跡

 木古内町と知内町の境界に建有川寨門(さいもん)があった。ここが松前藩領の東の境界となる。

(武揚松)


武揚松

 箱館戦争時に、榎本武揚が植えたといわれる黒松がある。碑文によれば、「(石碑より)北方の中ノ川沿いの黒松」がそれだというのだが、黒松は意外とあちこちに生えていて、どれが武揚松なのか特定できなかった。

(萩茶里橋)
 明治元年(1868)十一月一日、旧幕軍(彰義隊、額兵隊、陸軍隊)は、一ノ渡から萩茶里にかけて大雪の中、露営した。
 その日、夜になって松前藩兵五十が奇襲攻撃をしかけた。夜襲は成功したかのように見えたが、松前藩兵は家屋に手当たり次第に放火し、そこから発砲を続けたため、旧幕軍の標的となってしまい反撃を許してしまった。松前藩では五名の死体を遺棄して山林に逃げ込んだ。旧幕軍側に戦死者は無かった。


萩茶里橋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木古内

2013年11月09日 | 北海道
 二日目の宿泊は、息子の要望により木古内であった。木古内は特急が止まる駅であるが、駅舎を見る限りそれほど大きな駅に到底思えない。駅前には食堂もコンビニもない鄙びた土地である。

(更木岬)


咸臨丸終焉の地


咸臨丸


咸臨丸終焉の碑

 明治四年(1871)、九月二十七日、北海道開拓使所属となっていた咸臨丸は、北海道に移住する旧仙台藩士四百人余を乗せて、函館から小樽に向かっている途中、更木岬沖で座礁した。救助船が出て、乗客、乗組員全員が救助されたが、咸臨丸はこの地で沈没した。


木古内町で見かけたマンホールも咸臨丸

 この地で咸臨丸が最後を迎えたというのは、あまり知られていない事実であるが、木古内では、咸臨丸祭なるものも毎年開催されており、咸臨丸を観光の目玉にしている。

(木古内古戦場跡)


木古内古戦場跡

 かつて木古内古戦場には、それを示す標柱があったらしいが、いくら探しても見当たらない。一応、木古内町の観光パンフレットに古戦場跡で記載されている辺りを撮影した。

 北海道には豊かな自然が残されている。同時に貴重な史跡や文化財もよく保存されている方だと思うが、それでも残念なことに、少しずつ史跡を示す標柱などが消滅している。こういう実態に触れると切に何とかして欲しいと望む。

(薬師山)


霊場 薬師山 標高七十三・九m

 薬師山は、木古内の北に位置する小高い山である。木古内での戦闘では、大鳥圭介は薬師山山頂から白馬にまたがって指揮を奮ったといわれる。

(山形庄内藩士上陸之地)
中央公民館近くにあるという山形庄内藩士上陸の地碑を探して、付近を捜しまわった。今回の旅でもっとも発見に苦労した史跡の一つである。


山形庄内藩士上陸之地

一旦諦めて木古内駅まで息子を迎えに行く。その夜、息子と宿の湯船につかっていると、息子が渡島鶴岡駅の近くで山形庄内藩士上陸之地碑を見たと教えてくれた。早速、翌朝、鶴岡駅に直行した。
この碑は中央公民館の近くにあったのだが、新幹線工事に伴って鶴岡に移設されたのだそうである。
なお、地名の鶴岡は、この地に入植した鶴岡藩士に因んだもので、山形県鶴岡市とは姉妹提携をしている。
明治十八年~十九年(1885~86)、旧庄内藩から百五戸が木古内に入植し、現在の木古内町を開拓したという。

(禅燈寺)


禅燈寺

 禅燈寺は、境内を鉄道(江差線)が横断しているという、全国でも珍しい寺院である。息子によれば、業界では結構有名なお寺らしい。


松本十郎の碑

 禅燈寺山門脇に庄内藩の松本十郎の碑がある。松本十郎は、戊辰戦争では、酒井了恒(玄蕃)の指揮する二番大隊の幕僚として活躍し、降伏後は、東京に赴き黒田清隆ら新政府の首脳と交友を深めて藩の戦後工作に奔走した。明治二年(1869)、黒田の推挙により北海道開拓判官に任じられた。しかし、アイヌの人権擁護を主張する松本十郎は、開拓長官黒田と意見が合わず、明治九年(1876)、三十八歳のとき官を辞して鶴岡に帰った。大正五年(1916)、七十八歳にて死去。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北斗 当別

2013年11月09日 | 北海道
(川田男爵資料館)


川田男爵資料館

 当別には川田男爵資料館がある。川田龍吉男爵は、土佐藩の川田小一郎の長男である。川田小一郎は岩崎弥太郎を助けて草創期の三菱の経営に尽力した。のちに第三代日銀総裁を務め、男爵を授けられた。龍吉は、スコットランドに留学して船舶機械技術を学んで帰国すると、実業界で活躍した。明治三十六年(1903)横浜船渠会社社長退任をすると、請われて函館船渠会社の経営に携わるため北海道に渡った。函館船渠を退社後も北海道に留まり、余生を農業に近代化に捧げた。川田龍吉は長生きした人で、昭和二十六年(1951)に九十五歳で世を去った。川田男爵資料館は、川田農場の跡地に昭和五十八年(1983)に開設されたものである。

 北海道といえば、特産物が数えきれないほど多い。ジャガイモもその一つである。「男爵いも」と呼ばれる品種は、川田龍吉男爵が留学先のイギリスで食べたジャガイモの味が忘れ難く、日本に持ち込んだものである。川田男爵の留学には悲恋の物語があった。詳しくは川田男爵資料館HPを参照願いたい。

 明治元年(1868)十月二十七日、松前攻略を目指す旧幕軍は、當別に宿陣した。

(トラピスト修道院)


トラピスト修道院

 有名なトラピスト修道院である。トラピスト修道院は、明治二十九年(1896)にフランスから数名のシトー会の修道士が来道し、ここに白ペンキ塗りの建物を建てたのが始まりである。
ここでお土産のトラピスト・クッキーとバター飴を購入した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北斗 上磯

2013年11月09日 | 北海道
(JR清川口駅北側)

 北斗市は、平成十八年(2006)に上磯町と大野町が合併して誕生した市である。まず函館市に近い旧上磯町から回る。


官修墳墓


隊長 黒澤博之丞

 七重浜で戦死した弘前藩士十名と箱館府兵四名の墓である。中央の一番大きな墓石正面に「隊長 黒澤博之丞」とあるが、墓に葬られているのは側面に名前の刻まれている四名である。墓を移設した際に向きを間違えたらしい。

この官修墳墓を撮影したあと江差線の踏切を越えて矢不来方面に向かおうとしたとき、ふと清川口駅を見ると、そこに我が息子を発見した。待ち合わせしたわけではないというのに、この広い北海道で息子と再会するとは何という偶然であろう。こちらが少々興奮していると、息子は「じゃあ、これを頼むわ」といって手にしていた衣類の詰まったバックをこちらに渡した。結果的にまるで息子の大きな荷物を預かるために落ち合ったようなものであった。

(有川大神宮)


有川大神宮

 有川村は、北前船が出入りするほど近在では大きな港町であった。明治二年(1869)四月二十九日、海岸沿いに撤退を続けた旧幕軍はこの地で踏みとどまり、激戦となった。この戦闘で衝鋒隊最高幹部永井蠖伸斎が戦死している。守備兵は持ち場を捨てて北方へ潰走した。現地で指揮していた大鳥圭介も味方の崩壊を止めることができず、敗走することになった。
 官修墳墓は、当初有川大神宮の境内にあったが、大正三年(1914)に現在地である清川駅北側に移された。

(種田家)


種田家

 種田家は代々有川大神宮の宮司を継ぐ家系で、本家八代目種田金十郎は漁業で財を成し、戸切地陣屋の造営や、箱館戦争でも松前藩の会計方として深く関わった。

(東浜)


東浜 古戦場跡

 この松林は、文久二年(1862)、箱館奉行支配組頭栗林瑞見が、松苗を植樹したもので、その一部が現在も松林となって残っている。箱館戦争ではこの付近でも激戦となった。

(矢不来台場跡)


矢不来台場跡

 JR江差線茂辺地トンネル上付近で、国道228号線を茂辺地から旧街道を入ると矢不来台場跡である。現在、「やふらい」と読まれているが、当時は「やぎない」と呼ばれていたそうである。箱館奉行時代、この辺りに当初盛岡藩が台場を築き、その後松前藩が引き継いで警護していた。旧幕軍でもここを箱館の防御拠点として重視し、土塁や火薬庫を置いて陣地としていた。
 旧道を入って数百メートル進むと、北斗市教育委員会が建てた説明がある。この背後に土塁などが保存よく残されているらしいが、かなり雑草が生い茂っており、この中に足を踏み入れるのは躊躇われた。

(矢不来天満宮)


矢不来天満宮

 旧幕軍は茂別館から矢不来天満宮にかけて無数の塹壕を掘って、攻撃に備えた。しかし、新政府軍は艦砲射撃によって旧幕軍の陣地を攻撃したため、この時すでに開陽を失い制海権を奪われていた旧幕軍は海岸部から崩壊した。その日の夕刻には矢不来天満宮は新政府軍に占拠された。旧幕軍五百名のうち衝鋒隊を率いる天野新太郎ほか百六十人が戦死し、七十~八十人が負傷した。会津遊撃隊の諏訪常吉も重傷を負って、箱館病院に運ばれている。
 矢不来を破った新政府軍は、一気に箱館に迫った。


史跡 茂別館跡

(富川八幡宮)
 富川八幡宮の石段を登ると神社の本殿がある。その裏手一帯が箱館戦争の戦跡である。今も土塁や砲座跡が残っているそうだが、特定できなかった。


富川八幡宮

(松前藩戸切地陣屋跡)


松前藩戸切地陣屋跡

蝦夷地の防衛を強化する目的で幕府は安政二年(1855)に松前藩に命じて戸切地(へぎりち)陣屋を構築させた。その四稜郭状の陣屋内には十七棟の建物があり、約百二十人が守備にあたっていた。明治元年(1868)の箱館戦争のとき、旧幕軍に陣屋を利用されないよう松前藩は自ら火を放って建物を焼き払った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「近代日本の官僚」 清水唯一朗著 中公新書

2013年10月26日 | 書評
維新後、明治新政府にとって官僚の確保・育成は急務であった。当初は旧幕臣や藩閥出身者が集められたが、大学南校(東大の前身)が開校され、全国から学業優秀な俊才が集まるようになる。全国から満遍なく人材を集めるため、貢進生制度が導入された。貢進生出身者としては、小村寿太郎(飫肥藩、のちの外相、貴族院議員)、鳩山和夫(衆議員議長、法学博士)らがいる。彼らは藩という看板を背負い、夜を徹して勉学に励んだ。のちに外相として歴史に名を刻んだ小村寿太郎の原型を築いたのはこの時期の猛勉強にあったのであろうし、今日まで続く鳩山家の繁栄の基礎を築いた背景にも、貢進生鳩山和夫の壮絶な勉強があった。彼らは海外留学を経て、国家官僚へと階段を昇って行った。
明治新政府発足から帝国議会が開かれるまでの時期、政界でも藩閥が幅を利かせたように、官僚も藩閥に占有された。官途に就くとしてもほとんど藩閥の影響の薄い司法省を選んだ。一方、官僚を育成するための総合大学として全国に帝国大学が整備されることになった。同時期に試補制度が導入され、藩閥官僚に代わって専門教育を受けた学士官僚が占めることになる。この時期の学士官僚には原敬、清浦奎吾、浜口雄幸(いずれものちに首相)らがいる。
藩閥政治から政党政治に移行すると、学士官僚も政治とは無縁ではおられず、徐々に変容を強いられる。ある者は政党に取り込まれ、ある者は政治家としての道を歩むことになる。
本書は大正年間までの官僚の姿を描く。昭和から現代に続くパートは、次の課題ということだろうか。いつの時代も官僚は猛勉強をして激烈な競争を勝ち抜いた、時代の最先端のエリート集団である。昨今、政治の世界では、官僚を悪者にする風潮があるが、大いに違和感がある。国家の柱石となる人材に対して、相応の処遇をしないと国家そのものが立ち行かなくなる。シンガポールでは官僚が一番高い報酬を得ているが、それが本来の姿であろう。正当に処遇しないから、優秀な彼らの知恵と能力が、天下り先の確保とか自分の組織の肥大化に使われてしまうのである。
官僚を悪者呼ばわりしている政治家こそ、彼らに負けないだけの勉強をして欲しいものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「火城」 高橋克彦著 文春文庫

2013年10月26日 | 書評
いつか九州を旅する日を夢見て、少しずつ九州の情報を集めている。ターゲットは長崎そして「薩長土肥」の一角、佐賀である。
佐賀とは不思議な存在である。幕末、薩長土三藩が競って政治に参加し、政局の主導権を巡って激しく争っていたのを横に見ながら、ほとんど政治には無関心を貫いた。佐賀藩はひたすら技術立国を目指し、独自路線を歩んだ。その姿を、本書では「火城」という言葉に象徴させている。
幕末の佐賀藩を率いたのは、藩主鍋島閑叟(直正)の際立った個性であったが、その指導の下、七賢人と呼ばれる人材が育っていった。その一人が本書の主役佐野栄寿、のちの常民である。この人は、いわば佐賀藩の技術部長的存在であった。
佐野常民といえば、西南戦争で敵味方にかかわらず治療を施す日本赤十字社の前身、博愛社を興したことで歴史に名を刻んだ。維新前の活躍はあまり知られていないが(少なくとも私は全く存じ上げませんでした)、緒方洪庵、戸塚静海、伊東玄朴などに学び、佐賀藩の精錬方に中村奇輔ら技術者を藩に推挙し、自ら精錬方主任に就いた。佐賀藩精錬方は、蒸気船や蒸気車の模型製作に成功した。この辺りの経緯は本書に描かれている通りである(なお、これはこの小説の描かれた時代の後の話になるが、中村奇輔は火薬の製造実験中の事故で重傷を負い、廃人同然となったという)。
本書では何かというと涙を流して相手をかき口説く情熱家であり、先見の明を持ち大勢の人を巻き込む魅力あふれる人物として描かれている。ただ佐野常民が本当はどういうキャラクターだったのか、本書を一読しただけではまだまだイメージが結像しない。
本書は明治を迎える前に幕を閉じる。佐野常民の活躍はこれからというところであり、物語としては中途半端。できれば、明治後の活躍も含めた「完結編」を読みたいものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「官僚川路聖謨の生涯」 佐藤雅美著 文春文庫

2013年10月26日 | 書評
実を言うと、吉村昭の「落日の宴」(講談社文庫)を探していて、代わりにこの本に出会った。「落日の宴」は現在絶版になっていて、書店では簡単に入手できない状況である。
佐藤雅美という作家のことはよく知らなかったのだが、そういえば昔同じ作家の「幕末『住友』参謀 広瀬宰平」(人物文庫)を読んだのを思い出した。「広瀬宰平」は硬派な読後感であったが、「川路聖謨」も感触は同様であった。少なくとも色恋沙汰はほとんど描かれることはない。
本書の表題は敢えて「官僚 川路聖謨」としている。著者の描きたかったのは、幕末の官僚として異例の出世を遂げた川路の姿であろう。もとを正せば川路の出自は怪しいもので、父の代に名跡を買い取って、ようやく幕臣の端くれに連なったようなものであった。しかし、徳川の世もここまで来ると、世襲の官僚では相当実務能力に問題が生じていた。公事方(今風にいえば裁判所)に取り立てられた川路は、その時点で十年、中には二十年も放置されていた案件を、気が付けば自分の仕事がなくなるくらいの勢いで次々と片づけた。川路の処理能力が抜群であったのは紛れもない事実であるが、一方でほとんど役に立たない役人がどんよりと滞留していたのも間違いない。
出世を重ねる川路であったが、言動には細心の注意を払っていた。川路自身は酒が嫌いというわけではなかったが、酒を過ごすと争いやしくじりのもととなる。決して外では酒を飲まなかったという。役務柄、遠方への出張は多かったようであるが、自ら課したルールを決して踏み外すことはなかった。また政治向きの話、特に外事(この時代の最重要課題は開鎖のことであった)についても、もちろん彼自身には持論があったが、軽々に口にすることはなかった(それでも安政の大獄のとばっちりを受けたり、閑職に飛ばされたりという悲哀を味わう)。政見や肌合いの合わない老中や上司の指示にも、できるだけ意に沿うように全力を尽くした。著者がいう「江戸期を通じて最高の官僚」という表現が全くぴったりくる人物である。
とはいいながら、機械のように仕事をこなす堅物というわけではない。条約締結交渉で川路と深く接したプチャーチンは「その鋭敏な良識と巧妙な弁舌において、ヨーロッパ中のいかなる社交界に出しても一流の人物たり得るであろう」と絶賛している。
川路聖謨は、徳川幕府の瓦解が間近に迫った江戸開城の前日、ピストルで自殺する。自分が生涯をかけた組織の消滅とともに、自らの肉体も葬り去ったのである。この潔い死にざまにも川路聖謨の人格が表れている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

函館 川汲町

2013年10月20日 | 北海道
(川汲温泉ホテル)


川汲温泉


箱館戦争川汲戦戦死者慰霊碑

 川汲(かっくみ)温泉ホテルに慰霊碑が建てられている。この地における箱館府兵の戦死者は七名であった。
 鷲ノ木に上陸した旧幕軍は、人見勝太郎率いる遊撃隊と本多幸七郎の伝習歩兵隊三十人とともに先行させ、それを追うように大鳥圭介指揮の五百二十人(伝習士官隊、遊撃隊、新選組、砲兵隊)が続いた。これとは別に土方歳三は別働隊(額兵隊、陸軍隊、衝鋒隊)を率いて佐原、川汲を経て箱館を目指した。
 土方隊が川汲に到着したのが、明治元年(1868)十月二十四日。土方隊は峠に布陣していた箱館府の守備兵を撃退すると、川汲に戻って温泉を楽しんだと伝えられる。疲れを癒した後、翌朝五稜郭に向けて進発した。

 実は川汲峠付近に、二股口の台場山とは別の、もう一つの台場山がある。標高は485メートル。山頂には土方隊が築いた砲台跡があるというが、登山口が分からなかった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

函館 上湯川町

2013年10月20日 | 北海道
(トラピスチヌ修道院)


トラピスチヌ修道院

 トラピスチヌ修道院は、明治三十一年(1898)にフランスの修道院から八人の修道女が来たのが起源である。現在の建物は、昭和二年(1927)の再建。

 ほぼ五日間で予定の史跡を回ってしまった私は、最終日、せっかくだから少し人並みの観光スポットも行っておこうか、という気になり、当初の予定にはなかったが、有名なトラピスチヌ修道院を訪ねてみることにした。
 トラピスチヌ修道院へは、市電で函館駅前から終点湯の川まで約三十分。さらに函館バスに乗り換えて十五分ほど。トラピスチヌ入口で下車する。ここから五分も坂道を上ると到着する。市電+バス共通の一日乗車券を千円で売っているので、これを入手するとよい。


函館市電


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

函館 湯川町

2013年10月20日 | 北海道
(湯倉神社)


湯倉神社

 川汲峠を越えて箱館に入った土方軍は、湯の川に宿泊して、ここでも温泉で疲れを癒した。五稜郭に入って、翌日には松前攻略のために出動したが、大鳥隊と比べればほとんど戦闘らしい戦闘は経験しておらず、温泉三昧だった土方隊はすぐに動ける状態であった。


湯川温泉発祥之地碑

湯倉神社境内に、湯川温泉発症之地碑が建てられている。
旧幕軍は湯の川温泉の東に療養所を置いた。

 函館駅前から市電で湯の川終点まで約三十分。夕食を済ませて息子と温泉に行った。炎天下を歩き回って汗だくの毎日だったので、非常に気持ち良かった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする