史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「勝海舟と江戸東京」 樋口雄彦著 吉川弘文館

2016年06月25日 | 書評
勝海舟は明治三十二年(1899)、七十五歳で世を去った。当時としては比較的長命したことに加え、旧幕臣、薩長双方にも人脈を有し、幕末維新の重要な局面に関与した。
同時代でいえば、小栗上野介や福沢諭吉、少し時代は下るが蜷川新(官僚、法律家、小栗上野介の甥)など、海舟嫌い、アンティ海舟という人間も多い。薩長軍が江戸に迫ると、一戦も交えずに江戸城を明け渡した弱腰、さらに幕臣でありながら、明治政府で要職を務めた変節を批判する声は今なお強い。
しかし、江戸を戦禍から救い、慶喜を助命し徳川家を存続させ得たのは、あの場面では海舟しか成し得なかっただろう。鮮やかな印象を残す乾坤一擲の手であった。やはり海舟の功績は否定しえない。
海舟の生涯を追えば、そのまま幕末史を描くことになる。この本では海舟の生涯や歴史を記述しただけでなく、海舟と関与した、さまざまな知られざる人物・人脈を紹介している。
改めて、この本に紹介されている史跡を回ってみたが、たとえば谷中霊園の成川尚義の墓とか蓮光寺の山口泉処(直毅)の墓、本伝寺(大塚)の木城花野の墓などは発見できなかった。この本は二年前に出版されたもので、この二年間のうちに移葬、あるいは処分されてしまったものもあるかもしれない。

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小郡

2016年06月25日 | 福岡県
(乙隈)
 小郡市乙隈の宝満川沿いに「彼岸土居古戦場」を示す史跡説明板が建てられている。
 明治十年(1877)四月一日、明治新政府に不満を持つ旧福岡藩士の一部約百五十名は、轟警察署(現・鳥栖市)を襲ったが失敗。秋月の党と合流するために秋月に向かう途中、乙隈の彼岸土居で昼食のため休んでいた。その時、松崎通りの往還を福岡から熊本に輸送する弾薬等を積んだ車数十輌が通過するのを見つけ、これを奪おうとした。政府軍はこれを予期して、近くまで進出していた久留米の一個中隊と巡査隊六十名は、たまたま小倉から冷水峠を越え、木葉(熊本県)に向かっていた広島鎮台一個中隊に連絡した。広島鎮台兵は、丸町村から西小田村、津古村に廻り、横隈村の井ノ浦溜池付近に陣をしいた。久留米から来た鎮台兵と巡査隊は、干潟村側の往還より夜須川(草場川)の新井手の上に注ぐ三国用水に陣をしき、残党をめがけて発砲した。残党は蜘蛛の子を散らすように逃げ、主力は横隈村隼鷹神社の北方八竜付近に逃げて井ノ浦溜池付近の広島鎮台兵との挟撃に遭い、その場にてたちまち三十余名が戦死した。この場所における戦闘で、その他逃走中に討ち取られた者五名、捕縛十名余、自首七名、残りは秋月方面に遁走したという。


彼岸土居古戦場

(旅籠油屋)
 松崎宿は久留米藩の参府街道として整備され、宿駅が置かれた。薩摩街道と秋月街道が交差する地点であり、府中宿や羽犬塚宿とともに久留米藩領下の八宿の一つとして重視された。今も往時の姿を留める旅籠油屋は、西郷隆盛が愛用したといわれ、「油屋の二階の座敷に愛犬が上ってきた」とか、「下戸の西郷が油屋で酒を飲んだ」といった伝承とともに、西郷が使用したという盃なども伝わっている。私がここを訪れたとき、油屋は改修工事中であった。


旅籠油屋

 松崎宿には高山彦九郎が二度にわたり宿泊したという記録が残る。ほかにも平野國臣が薩摩に落ち延びる途中、月照とともに松崎宿に宿泊したとか、西南戦争の際には、総督有栖川熾仁親王が油屋に本営を置いたという歴史がある。のちには乃木希典も当地を訪れたこともあったという。

(古飯)
 小郡市古飯(ふるえ)は、古屋佐久左衛門と高松凌雲兄弟を生んだ土地である。「幕将古屋佐久左衛門誕生之地」と「高松凌雲先生誕生之地」二つの碑が並んで建てられている。


高松凌雲先生誕生之地碑

 高松凌雲は天保七年(1836)、古飯の庄屋高松与吉の三男として生まれた。安政三年(1856)、二十一歳のとき、久留米藩家老有馬飛騨の家臣川原弥兵衛の養子に入ったが、安政六年(1859)脱藩。兄佐久左衛門を頼って江戸に向かった。江戸の石川桜所や大阪の緒方洪庵に入門して蘭方医学を修め、横浜で英語を学んだ。慶応元年(1865)、一橋家に招かれ、翌年一橋慶喜の侍医となった。ほどなく慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣されることになった松平民部大輔(昭武)の付添医を命じられ、慶應三年(1867)一月、横浜港を出帆してフランスへ渡り、西欧諸国を視察した。慶応四年(1868)、江戸城無血開城の報に接し、五月に帰国すると、開陽丸に乗船して榎本武揚と行動をともにして蝦夷へと向かった。榎本のもとで箱館病院の院長となるが、西欧で学んだ赤十字の博愛精神を説いて、敵味方の別なく戦傷者を受け入れて治療を施した。このことが新政府軍の黒田清隆に評価され、旧幕府軍との和平仲介を依頼されることになった。凌雲の斡旋の結果、明治二年(1869)五月、榎本武揚は降伏を決意した。戊辰戦争終結後、幾度も明治政府から仕官を勧められたが固辞し、一医師として過ごした。明治十二年(1879)、医師仲間と「同愛社」を創設し、貧民施療のために尽くした。大正五年(1916)、肺結核のため東京で没した。享年八十一。


幕将古屋佐久左衛門誕生の地碑

 古屋佐久左衛門は、天保四年(1833)の生まれ。すぐ下の弟が高松凌雲である。嘉永四年(1851)、十九歳のとき、医学を志して長崎、大阪に向かうが、自分が医者に適さないことを悟り、江戸に出て苦行苦学を認められ幕府御家人古谷家の養子に入った。漢学、蘭学、ロシア学、算術、砲術、剣術などを修め、外国語も英語、オランダ語、ロシア語を習得した。元治元年(1864)、英学所教授方助、慶応二年(1866)、歩兵指図役、翌年には軍艦役並勤方を命じられた。この間、英国式の操兵術を学びながら、沼間新次郎らと「英国歩兵操典」や「歩兵操練図解」など、日本で初めて外国兵書を翻訳した。慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の敗戦後、佐久左衛門は武州方面への脱走兵を統率して衝鋒隊を結成し、その総督となった。江戸を脱した衝鋒隊は、信越を転戦して会津救援に向かうが、形勢不利とみて離脱。同年十月、榎本艦隊と合流して蝦夷に向かった。榎本艦隊は箱館を占拠、同年末には蝦夷地を平定した。しかし、明治二年(1869)四月、反攻を開始した新政府軍に蝦夷地上陸を許すと、その後、幕府軍は敗走を続けた。五月十二日、佐久左衛門は五稜郭への艦砲射撃により重傷を負った。弟凌雲の運営する箱館病院に収容されたが、治療の甲斐なく翌月十四日、没した。享年三十七。

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筑前

2016年06月25日 | 福岡県
(敬止義塾跡)


敬止義塾跡

 筑前町二字鐘木塚の旧長崎街道沿いに敬止義塾址碑が立っている。福岡藩士であった杉山灌園(かんえん)が、明治十年(1877)頃、自宅の離れで塾を開いていた。近隣から三十名ほどの塾生があり、寄宿している者もあった。教科書として「日本外史」「十八史略」「四書」などが用いられた。明治二十三年(1890)、灌園の死去とともに閉塾された。

(西福寺)
 「歴史読本 幕末維新人物総覧」(昭和五十一年臨時増刊)によれば、三隅十郎の墓が筑前町中牟田の西福寺にあるという。ちょうど本堂の前で寺の方が洗車されていたので、「三隅十郎の墓を探している」と告げたが、「ここには三隅姓の墓はありません」という答えが返ってきただけであった。


西福寺

 三隅十郎は、天保九年(1838)、筑前秋月に生まれた。名は勘蔵といった。商人で秋月の素封家。福岡在住の叔父三隅勘三郎の感化により、早くから勤王思想を抱いた。秋月藩士海賀宮門ら志士と交わり、財政的支援を惜しまなかった。平野國臣ら筑前勤王諸士の出入も多く、五卿大宰府寄寓の折は、その家臣らを通じて大いに尽力した。慶応二年(1866)、藩の咎めを受けて幽閉。維新後浜田県小属をつとめたが退官。生涯を勤王志士らの援助に捧げた。明治二十三年(1890)、五十七歳にて没。

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筑紫野

2016年06月25日 | 福岡県
(武蔵帆足商店)
 筑紫野市を訪ねるにあたって、筑紫野観光協会に五卿の歌碑の所在を尋ねるメールを送った。すると、歌碑の住所を返信していただいた上に、筑紫野市が発行している「歌碑・句碑を歩く」というタイトルの小冊子まで郵送していただいた。ここにも歌碑・句碑の住所まで記載されており、事前準備としては完璧であった。というのに、今回の旅行にこの小冊子を持参するのを忘れてしまい、失態を後悔することになった。

 筑紫野市には、五卿のほかにも万葉歌人らの歌碑なども建立されており、全てを網羅するなら一日では足らないだろう。


壬生基修歌碑

 ゆうまくれ しろきはゆきか それならて つきのすみかの かきのうのはな

 壬生基修の歌である。晩春の夕暮、垣根に咲く白い卯の花を詠んだものである。

(武蔵寺)
 今回、福岡県から大分県の史跡を回るに際して、ゴールデンウィークならではの異常な渋滞に出会うことはなかった。唯一の例外が筑紫野の天拝山歴史自然公園から武蔵寺にかけての混雑であった。特に武蔵寺(ぶぞうじ)は、藤やツツジが盛りを迎え、凄まじい人出でとても車を駐車できるスペースはなかった。写真は自動車から身を乗り出して撮影したもの。


東久世通禧歌碑

 藤なみの はなになれつつ みやひとの むかしのいろに そてをそめけり

 東久世通禧の歌碑。武蔵寺に遊んだとき、咲きにおう「長者の藤」を題材に、祖先の華やかな時代をしのんだものである。

(天拝山歴史自然公園)
 天拝山歴史自然公園も凄まじい人出であった。池上池のほとりに四条隆謌の漢詩碑がある。撮影が済んだら速やかに撤退せざるを得なかった。


四條隆謌歌碑

 青山白水映紅楓
 楽夫天命復何疑

 筑紫野の美しい自然を歌うと同時に王政復古を「天命」として成し遂げようという決意をこめた詩である。


池上池

(湯町大丸別荘)
 大丸別荘は、老舗の温泉旅館である。駐車場に入ると、早速仲居さんが出てきた。慌てて車を下りようとしてドアに膝を痛打した。「三条実美の歌碑を見学にきた」旨を伝えると、代わって年配の仲居さんが出てきて、丁寧にその場所を教えてくれた。三条実美の歌碑は、駐車場とは反対側の裏玄関前にある。


三条実美歌碑

 王政復古を目指す心情を、湯の原(二日市温泉)に遊ぶ鶴に託して詠んだものである。

 ゆのはらに あそふあしたつ こととはむ なれこそしらめ ちよのいにしへ

(東峰マンション二日市Ⅱ)
 大丸別荘の駐車場に車を置いて、裏玄関に回る途中に三条西季知の歌碑があった。


三条西季知歌碑

 けふここに 湯あみをすれば むらきもの こころのあかも のこらざりけり

 三条西季知は、幕府目付役監視のもと、緊迫した中でも暖かい温泉でのもてなしに、すっかり元気になったと喜びを歌にした。

(武蔵公民館)
 こちらも三条西季知の歌碑である。武蔵の松尾家での歓待に対する謝意を歌にした。

 ひとならぬ くさきにさへも わするなよ わすれしとのみ いはれけるかな


三条西季知歌碑

(八ノ隈池)
 天拝山歴史自然公園から武蔵寺にかけての大混雑と比べて、八ノ隈池にはまったく人影がなかった。ここに東久世通禧の歌碑がある。


東久世通禧歌碑


八ノ隈池

 しもかれの おはながそてに まねかれて とひこしやとは わすれかねつも

 慶応三年(1867)秋、東久世通禧が松尾家に招かれ、もてなされたことに対して謝意を表した一首である。

(月形洗蔵幽閉の地)


月形洗蔵幽閉の地

 月形洗蔵は、万延元年(1860)、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、王政復古を目指して藩政の改革こそが急務で、参勤の時に非ずとする建白書を提出した。このため藩政を妨げた罪により、捕えられ家禄の大半を没収され、中老立花吉右衛門、その家臣松尾富三郎預けとなり、立花家の知行地である御笠郡古賀村佗伯五三郎宅に牢居の身となった。獄中では終日端坐して書を読み、或は近在の子弟に学問を教えることを日課としていた。元治元年(1864)五月、罪を赦されて家禄も復した。同年十二月には藩命により長州にわたり五卿の大宰府遷座に全力を尽くした。合わせて征長軍の解兵、薩長二藩の融和に協力した。ところが、藩内佐幕派の台頭により慶応元年(1865)六月、身柄が一族預けとなり、同年十月、斬首された。

(筑紫神社)
 筑紫神社の東側の参道前に尊王烈士碑がある。この地域出身の勤王家、岡部諶と吉田重藏を顕彰するもので、昭和三年(1928)に建てられたものである。


筑紫神社


尊王烈士碑

 岡部諶は、文化五(1808)、同村庄屋平山茂次郎家に生まれ、字は士皆、通称甚助。後に夜須郡朝日村の大庄屋に預けられた。読書好きで農事の合間も書物を離さず、胸に「読書中不言」の小札を下げていたので狂人扱いされたほどであった。福岡に出て儒学と兵学を修め、藩の在郷家臣・岡部徳右衛門を嗣いで、さらに学問を深めた。そのころ隣村の吉田重藏と師弟関係となり、重藏が脱藩して上方に向かった時には伝家の刀を贈った。四十二歳で病死したが、馬市の墓石には「楽天斎」の号が刻まれている。
吉田重藏は天保二年(1831)、郷士田中清助の次男に生まれ、はじめ重吉、生前の実名は良秀。幼くして文武に励み勤王派の平野国臣らと親交、文久元年(1861)には郷里を出て諸国の勤王家と通じた。その後、討幕運動に参加するため妻子を残して自ら除籍。母方の姓を名乗って上京した。

(山家宿)
 山家(やまえ)宿は、長崎街道の宿場の一つである。当時の面影を残すものとして、西構口跡や下代屋敷跡や郡屋などがある。安政年間、秋月藩校稽古館教授原古処の娘、原采蘋がこの山家に私塾宜宜堂を開いていた。


御茶屋(本陣)跡


原采蘋塾跡


原采蘋詩碑

 山家宿西構口の原采蘋塾趾の前に采蘋の漢詩碑が建てられている。采蘋がここに塾を開いたのは嘉永三年(1850)、采蘋五十三歳の時であった。翌年、母が亡くなり、三年の喪に服した。
 この漢詩は「母会いたさに千里の道を返ってきたが、山家宿では野菜しかない。海より情け深い人のお土産で魚を夕卓に並べると、亡き母も喜んでいるだろう」という意味のもの。

 千里省親帰草蘆 山中供養只菜蔬
 謝君情意深於海 忽使寒厨食有魚

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飯塚

2016年06月25日 | 福岡県
(嚢祖八幡宮)


嚢祖八幡宮

 野村望東尼は、歌の師大隈言道が滞在していたことから、度々飯塚宿を訪れている。大隈言道は飯塚の産土神嚢祖(のうそ)八幡宮の近くにあった、弟子の古川直道の別荘「宝月楼」に滞在していた。言道はここを拠点に古川をはじめ嚢祖八幡宮宮司青柳直雄、森崎屋の小林重治ら飯塚の歌人、商人らと交遊し、歌の指導を行った。嚢祖八幡宮境内に青柳直雄ら飯塚宿の人々が建立した「和魂漢才碑」が残されている。


和魂漢才碑

(内野宿)
 長崎街道は、山家宿(現・筑紫野市)から薩摩街道や秋月に至る九州の幹線道路であった。参勤交代の大名行列や多くの志士たちも往来した。今も沿道には往時の雰囲気を残す建造物が残されている。
 吉田松陰は、嘉永三年(1850)、兵学や海防の研究のため、平戸や長崎、熊本へ遊学のため長崎街道を通行している。内野宿については「寂寥の山駅」と日記に書き残した。


内野宿
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宮若

2016年06月25日 | 福岡県
(福岡藩犬鳴別館)
 宮若市の犬鳴ダムの横の道を進むと、「進入禁止」の標識に出会うが、それを無視して更に進むとやがてダムが尽きてなくなる。それでも北上すると、道の尽きた辺りに犬鳴別館の遺構がある。


福岡藩犬鳴別館

 犬鳴別館は、十一代藩主黒田長溥の時、家老加藤司書が、異国船が来航して福岡城が攻撃された場合に備えて、藩主を移すためこの辺地に居館を建設させたものである。最初はここよりも東の現在の若宮町辺りが候補地であったが、さらに要害堅固な犬鳴の地に決定した。今も本丸跡の石塁、池、大手門の石積みなどが残る。
 加藤司書は、別館を利用して謀反の企てがあるとの讒言にあい、のち博多天福寺で切腹させられた。


加藤司書忠魂碑


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姫島

2016年06月24日 | 福岡県
(姫島)


市営渡船「ひめじま」

 糸島市姫島には、岐志漁港から船で渡らなければならない。片道わずか十六分であるから、文字通りあっという間のことであるが、それでも船に人並み外れて弱い私は、酔い止め薬を服用して万全を期した。
 福岡市内から岐志まで四十分ほどのドライブである。ゴールデンウィークの最中のことだし、予約もしていなかったので、ひょっとして渡船場には行列ができているのではないか。下手をしたら七時五十分の始発に乗れないのではないかと、港が近づくにつれて不安になってきた。

 着いてみると、待合室は鍵がかけられているし、乗客らしい姿は一人も見えない。本当に予定の時間に船が出るのか心配になるほどであった。出発の二十分ほど前になってポツポツと人が集まり始めた。乗客の大半は釣を目的とした人たちであった。


野村望東尼之旧趾


野邨望東尼之旧趾

 姫島は周囲四キロメートルに満たない小さな島で、人口は二百人程度。そのほとんどは島の南部に住んでいる。島に到着すると、早速目的地である野村望東尼が幽閉されていた御堂を目指す。港から七~八分も歩くと行き着く。


望東尼歌碑

 慶応元年(1865)十一月、いわゆる乙丑の変により野村望東尼は姫島に流罪となり、そこで牢に投じられた。既に六十の老境にあった望東尼は、強靭な精神力で苛酷な生活に耐えた。日々の心境を「姫島日記」に書き留め、その中に詠んだ歌が残されている。御堂の横に獄中歌が十三首紹介されているほか、石碑にその一つが刻まれている。

 すみそむる 人やの闇に燈火も
 なみの音いかに 聞きあかさまし


望東尼胸像

 翌慶応二年(1866)九月十六日、姫島に筑前藩士藤四郎ら数名が小舟で乗りつけ、牢を破って望東尼を連れ去った。高杉晋作の依頼を受けた彼らは、下関から船で救出したのであった。こうして望東尼の姫島における幽閉生活は十か月ほどで終焉を迎えた。同じく流刑地とされていた東京の新島などと比べると、比較的都市に近く、その気になれば脱出・救出も可能なロケーションであることは間違いない。


御堂


監禁中の野村望東尼

 望東尼が投じられていた牢が再現されている。狭い小屋の中には牢内で端坐する望東尼の姿が再現されている。

 写真を撮ったり、展示されている資料を見て過ごしても精々十分もここにいれば足りる。あとは島の中を散歩して、約一時間半後に島を出る船を待つ。今回の福岡~大分旅行において、日の出ている時間で唯一のんびりとした時間を過ごすことができた。


姫島の風景

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玄界島

2016年06月24日 | 福岡県

(玄界島)
 福岡市内から玄界島へは、博多港第二ターミナルから定期船で片道三十五分である(片道八百六十円)。午前七時十分発の船に乗るために六時過ぎに博多港に着いたが、まだ切符売り場が開いていなかった。乗船場にいたオジサンに確認したところ、売り場が開くのは六時半だそうで、それまで付近をウロウロして時間をつぶすしかない。オジサンは
「玄界島には何もないから、向うでお昼を取るんだったらお弁当を持って行った方が良いよ。」
とアドバイスしてくれたが、もとより昼まで玄界島にいるつもりはない。



福岡ポートタワー


みどり丸

 船の乗客は十名前後であったが、いずれも釣が目的のようであった。左手に福岡ドームや福岡タワーなどを見ながら船に揺られていると、やがて玄界島南方の港に到着する。ここから徒歩五分。地蔵堂の近くにある「勤王志士の墓」に直行する。


贈正五位堀六郎墓・贈正五位斉田要七墓

 「勤王志士の墓」と呼ばれているのは、玄界島で処刑された堀六郎と斉田要七の墓である。

 堀六郎は天保五年(1834)、福岡藩士大野喜右衛門の子に生まれ、同藩士堀伊内の養子となった。変名として岡小六と名乗った。文久二年(1862)、職を辞して、翌年脱藩して長州に走り、奇兵隊に入隊した。ついで沢宣嘉の生野挙兵に参加したが、敗れて長州に逃れた。元治元年(1864)の長州藩兵東上に際し、六郎も真木和泉に従って上京し、禁門の変に敗れて真木とともに天王山に退いたが、その依頼により長州に戻った。同年十月、福岡の同志糾合のため、斉田要七、大神壱岐とともに帰藩したところを捕えられ、玄界島に流され、そこで処刑された。年三十三。
 斉田要七は天保十三年(1842)の生まれ。父は朝日村郷士平山孫七。福岡藩士斉田新九郎正一の養子となった。文久三年(1863)、藩命をもって京都福岡藩邸に祗候し、十月、同僚の西原守太郎と藩邸を脱して三田尻招賢閣に赴き、七卿を警護した。元治元年(1864)、招賢閣会議所の密旨を受け、藩の同志藤四郎、堀六郎らとともに入京、長州藩の河原町藩邸に潜匿した。同年七月の禁門の変において、忠勇隊に入り、鷹司邸外で戦ったが敗れ、周防に帰った。慶応元年(1865)十月、福岡藩同志糾合のため、大神壱岐、堀らと帰藩したところを捕えられ、玄界島に流され処刑された。年二十五。

 「勤王志士の墓」を見終わった私は、踵を返して港に戻った。玄界島滞在時間は十五分足らず。再び「みどり丸」に乗って福岡市内に戻った。

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福岡 城南

2016年06月18日 | 福岡県
(天福寺)
 かつて福岡の中心部にあった天福寺であるが、現在城南区南片江という、博多から十キロメートル近く離れた場所に移転している。山門の前に加藤司書の歌碑が建てられている。刻まれている歌は、西公園の歌碑と同じものである。


天福寺


加藤司書歌碑

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福岡 南

2016年06月18日 | 福岡県
(平尾霊園)
 平尾霊園には番号の付いた区画のほかに「特別区」と名付けられた一角がある。そこが玄洋社墓地である。そこに福岡の変の慰霊碑や玄洋社社員の箱田六輔や松浦愚らの墓碑がある。


福岡の変慰霊碑「魂の碑」

 「魂の碑」は、明治十二年(1879)、頭山満らの手により、福岡の変の殉難者を慰霊するために、建立された石碑である。


福岡の変碑

 福岡の士族が蹶起すると、萩の乱に連座して獄に繋がれていた頭山満、箱田六輔、進藤喜平太ら、堅志社の若者たちに激しい拷問が加えられた。堅志社のほとんどが武部の門下生であったことから、これを知った武部小四郎は自ら名乗り出た。これにより、頭山満らは九死に一生を得た。
 福岡の変の首謀者、越智彦四郎と武部小四郎とは明治十年(1877)五月、処刑された。福岡の変による戦死者は五十四人、刑死五人、獄死四十三人、懲役囚は四百二十二人を数え、その多くが二十歳前後の若者だったという。


清水正次郎の碑

 清水正次郎は玄洋社の社員というわけではない。一介の鉄道員である。
 明治四十四年(1911)十一月十日、明治天皇が筑紫野で開かれた陸軍大演習統監のために西下。門司桟橋で休息した。その際、御召し列車を入れ替える最中に脱線する事故が起きた。このため当初、五分という予定であった明治天皇の休憩時間が一時間に及び、沿道の予定が全て変更となってしまった。鹿児島本線門司駅の構内主任清水正次郎は、鉄道員総裁に宛てて「お召し列車を脱線した責任をとる」という遺書を残して、翌日下関の幡生トンネル付近で列車に身を投じて自殺した。三十三歳。
 玄洋社系の日刊紙「九州日報」の社説で「清水氏の自殺は国民の精華なり」と絶賛され、顕彰碑建立計画を発表した。このことを当時の玄洋社社長進藤喜平太が知り、顕彰碑建立を買って出た。
 この顕彰碑は、戦後博多の東公園に破棄されかけていたものを、昭和五十二年(1977)、筥崎宮宮司田村克喜らの発起によって現在地に再建したものである。

(興宗寺)


興宗寺

 興宗寺(こうしゅうじ)は、別に穴観音と呼ばれる。この付近一帯には多くの古墳があったが、福岡城築城の際に石垣の石として抜かれ、古墳は壊滅したといわれる。興宗寺境内に残された古墳は横穴式の石室で、巨大な岩を用いた市内屈指の巨石墳である。石室内に阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩が彫られていることから、いつしか穴観音と呼ばれるようになった。
 明治十年(1877)三月十九日、「西郷発つ」の報を受けて武部小四郎や越智彦四郎らが密かに集まり、この穴の中で謀議を交わした。

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