史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日出

2016年07月18日 | 大分県
(日出城跡)
 日出といえば、サンリオ・ハーモニーランドである。まだ鹿児島に勤務していた頃、娘がキティちゃんの熱烈なフアンだったため(だいたいこの頃の女の子は、キティちゃんが大好きである)、家族でサンリオ・ハーモニーランドに遊んだことがある。もう今から十七~八年も前のことである。花粉症がひどくて大分までのドライブの間、ずっと鼻をかんでいた記憶しか残っていない。
ステージではショーが開かれており、ステージ上から「今日が誕生日の人は集まって」と呼びかけられた。偶然、その日が誕生日だった私は、家族に促されるまま、ステージに上がった。同じようにステージに上がったのが数人いたが、いずれも小さな子供で大人は一人だけであった。じゃんけんで負けたから良かったものの、勝ち残ったら危うくキティちゃんのパレードに参加するところであった。


日出城址

 日出城は別名を暘谷城という。城址は現在日出小学校となっている。明治四年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治八年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付され、次々と取り壊されてしまった。隅櫓(鬼門櫓)のみが残されている。


日出城隅櫓


帆足萬里記念館
日出町歴史資料館


帆足萬里像

 帆足萬里は、江戸時代後期の儒学者・家老。安永七年(1778)日出藩の家老帆足通文の三男として生まれた。十四歳で豊岡の儒学者脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研究に努めた。経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった。天保三年(1832)、十三代藩主木下俊敦に請われて家老職につき、藩財政の再建にも力を尽くした。嘉永五年(1852)六月、多くの弟子に見守られて七十五歳の生涯を閉じた。帆足萬里の代表的著書に「窮理通」「東潜夫論」などがある、三浦梅園(安芸)、廣瀬淡窓(日田)とともに、「豊後の三賢」と称される。

(致道館)


致道館

 日出藩校致道館は、安政五年(1858)、日出藩十五代藩主木下俊程が命じて日出城内二ノ丸に創立された。八歳以上の子弟は必ず入学し、修了の期を設けず広く教育を施した。十六代藩主俊愿(としまさ)もその普及に努めた。およそ二百五十名の子弟が学んだといわれる。明治四年(1871)の廃藩置県により、日出藩の廃止とともに致道館は閉校となり、僅か十三年の歴史に幕を下ろした。致道館の建物は、その後、暘谷女学校、杵築区裁判所日出出張所、日出町役場、財団法人帆足萬里記念図書館等に転用され、昭和二十六年(1951)、現在地に移築された。


致道館室内

(松屋寺)
 松屋寺(しょうおくじ)に入場しようとすると、入口で呼び止められた。拝観料三百円が要るというので、慌てて車に戻って財布をとってきた。ゴールデンウィークといえ、激しい雨が降り続いており、訪問客はまばらである。ようやく出現した客を相手に、男性(入口で拝観料を徴収した彼のことである)は、熱心かつ丁寧に境内を案内してくれた。
 本堂前の蘇鉄は高さ六・一メートル、株元の周囲六・四メートル、南北幅九・七メートル、東西幅八・五メートルという巨樹で、樹齢六百年以上と推定されている。先ほどの男性に促されるまま、蘇鉄の回りを一周すると、男性は待ち構えていて、今度は宝物殿を案内してくれる。宝物も一つひとつ説明してもらった。拝観料三百円は安い!


松屋寺


雪舟作庭園「万竜の庭」


日出藩木下家墓所

 日出藩木下家は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の兄弟木下家定の三男木下延俊の家系である。因みに次男利房は足守藩を興した。五男秀秋は小早川家を継いだ。
 木下家が日出に入ったのは慶長六年(1601)のことで、以来十六代、約二百七十年間続いた。松屋寺に木下家の墓所が創設されたのは、寛永年間(1630年頃)と言われ、当時は初代藩主木下延俊の祖母朝日(北政所の実母)、延俊の正室加賀(細川忠興の妹)および延俊の父母の四基の墓を祀る墓所として出発し、以後歴代藩主や木下家に関係のある人物の墓が建てられている。歴代藩主のうち十三代と十六代の藩主の墓碑のみが欠けている。


木下飛騨守豊臣俊程墓(木下俊程の墓)

 十五代藩主木下俊程(としのり)の墓である。父は十三代藩主俊敦。安政元年(1854)、兄俊方の早逝により跡を継いだ。在任中に藩校稽古堂を拡張して致道館を創設した。慶応三年(1867)、江戸で死去。三十五歳。


文簡帆足先生墓(帆足万里の墓)

 梅林寺の木下家墓所から二百メートルほど行くと、帆足萬里の墓がある。この墓は藩主木下俊方の命により建立され、暘谷城(日出城)に向けて建てられている。碑の正面は門弟で杵築藩主松平親良の弟親直の筆。他の面は高弟米良東嶠の撰による碑文が刻まれている。墓石を削って持ち帰り、学業の向上を祈る人が多かったため、墓碑の一部が欠け、現在はそれを防止するため鉄柵に囲まれている。

(西崦精舎跡)


西崦精舎跡

 西崦精舎とは「西方の日の沈む山の学舎」という意味である。その通り、周囲は深い緑に囲まれた山の中である。帆足萬里が、天保十三年(1842)十一月、この地に私塾西崦精舎を開いた。最盛期には百三十名余の塾生がいたという。その時の喜びを「山の井の濁るばかりに汲み分けてなお住む人のあるぞ嬉しき」と萬里は詠っている。嘉永五年(1852)、豊岡の法華寺に塾を移したが、萬里は法華寺に移る前に、二の丸で亡くなった。
今回の福岡~大分の旅では、二週間前に発生した熊本地震の影響を実感することはほとんどなかったが、唯一の例外が湯布院から日出にかけての一帯であった。西崦精舎の頭上を九州自動車道が走るが、もちろんここも通行止めである。西崦精舎跡の石碑は根元から折れて見る影もない。
大分県北部を震源とする地震で、斜面が崩れ落ち高速道路がふさがれた。湯布院と日出の間は通行止めになってしまい、一般道を迂回することになった。折からの大雨と相俟って、過酷なドライブとなった。
旅行から帰ってからの話になるが、地震から一か月が経ち、ようやく対面通行が可能になった。それでも全面復旧にはまだ時間がかかりそうである。

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杵築

2016年07月18日 | 大分県
(杵築城跡)


杵築城跡

 杵築城は能見松平氏三万二千石の居城である。天守は慶長十三年(1608)の落雷で焼失して以来再建されなかったが、現在天守台跡に模擬天守が建てられ、資料館として利用されている。コンクリート製の模擬天守は、近くで見ると無粋にしか見えないが、この城の鑑賞方法は遠くから眺めることだろう。城は八坂川の河口の台山の上に築かれ、三方を海と河に囲まれた天然の要害に立地している。
幕末の藩主、松平親良は幕府の寺社奉行に登用されるなど、幕末の幕府を支えた。藩主が佐幕派であったことから、藩内では長く佐幕派と尊王派の対立が続いたが、慶應四年(1868)三月、藩主が明治天皇に拝謁し、家督を長男の親貴に譲ることでようやく決着を見た。


小串二子碑

 小串二子碑は、大正十一年(1922)建立。杵築藩士小串邦太と小串為八郎の兄弟を顕彰したもの。二人は脱藩して幕末国事に奔走した。兄邦太は文久三年(1863)、開国論を口にしたため広島で暗殺されたという。

(北台武家屋敷)


藩校学習館正門

 杵築市の北台地区は、江戸時代の街並みを良く保存再現しており、まるで映画のセットのようである。その中に藩校学習館がある。学習館は、天明八年(1788)、第七代杵築藩主松平親賢によって創立された。学習館では、明治四年(1871)の閉校まで藩士の子弟を中心に漢学、国学、洋学、算学などを教えた。現在、藩校の門は杵築小学校の裏門として使用されている。

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日田

2016年07月18日 | 大分県
(永山城跡)
 今回の五泊六日の九州の旅、基本的には天気に恵まれたが、ただ一日、五日目だけが雨となった。それも強風を伴う、季節外れの台風のような豪雨であった。この日も早朝五時過ぎに久留米を出て、秋月、朝倉、みやまを経由して日田に入った。大分県に入って、日田、杵築、日出、別府、大分と回ったが、日田から日出を訪問している間がもっとも雨足が激しく、場合によっては写真撮影もままならない有様であった。


永山城跡

 日田は廣瀬淡窓の咸宜園のあった土地で、加えて江戸時代の街並みが残る街であるが、この雨ではさすがにゆっくりと楽しんでいる場合ではない。機会があれば、天気の良い日にもう一度歩いてみたいと思わせる街であった。
 永山城は、慶長六年(1601)に小川光氏が月隈山に築いたものである。元和二年(1616)に石川忠総(ただふさ)が入部すると、永山城を改称した。日田は寛永十六年(1639)から天領となり代官所が設置され、永山布政所と称された。布政所は貞享年間(1684~88)に山麓に移された。


永山布政所跡


廣瀬淡窓詩碑

 永山城跡に淡窓の詩碑が建てられている。

 明窓浄几ヲ兼ヌ 膝を抱イテ悠ナル哉
 人間ノ事ヲ話ス莫レ 青山座ニ入リテ来タル

(天領日田資料館)


天領日田資料館

 天領日田資料館は、天領日田に関する資料や書画、珍器の類を展示している。日田は筑前・筑後、肥後、豊前中津、豊後竹田や府内に通じる交通の要衝であった。ここに注目した豊臣秀吉が文禄三年(1594)に直轄支配地としたのが天領の始まりである。江戸時代に入ると寛永十六年(1639)に日田陣屋(代官所)が設置され、以来幕末まで代官が派遣された。日田代官は直轄地の支配だけでなく、九州各地を治める大小三十二の諸大名の監察という任務も帯びていた。また九州内に日田代官所の出張陣屋が三カ所(四日市、富岡、富高)に置かれていた。
 文久三年(1863)窪田治右衛門が着任。一方、豊後南海郡下堅田出身の尊攘志士青木猛彦が宇佐で同志を糾合し、日田陣屋を襲撃する計画を立てていた。これに長州藩の長三洲らも加わり、慶應元年(1865)十二月、同志の一人高橋清臣の木子岳山荘に集合して日田代官所襲撃を討議した。ここには安心院の佐田秀(内記兵衛)、柳田清雄、太田包宗、桑原範蔵、木付義路、安東信哉、下村次郎太なども参加していた。しかし、同志の裏切り密告により窪田代官支配の農兵が押し寄せ、彼らは木子岳山荘を追われた。彼らは安心院で再起を期したが、またしても農兵が乗り込んで来たため、離散を余儀なくされた。その後、宇佐神宮で潜伏したが、窪田代官の追捕の手は厳しく、宇佐八幡の床下に隠していた兵器類はすべて押収され、三度計画は頓挫した。長三洲は長州に逃れ、ほかの同志も多くは長州を頼った。残党は引き続き九州での挙兵を画策し、慶應二年(1866)十二月頃には花山院家理擁立が議論され始めている。

(廣瀬資料館)


廣瀬資料館
廣瀬淡窓旧宅

 廣瀬淡窓の実家は掛屋を営む商家であった。掛屋とは幕府・各藩の公金の出納、管理を担当し、要請に応じてこれを送金することを業務としていた。日田商人は九州各地から物産を集めこれを転売する商いを盛んに行っていた。そのうち最も有力な商人が掛屋に選ばれたという。


廣瀬淡窓旧宅の庭園

 廣瀬淡窓は、天明二年(1782)、掛屋の廣瀬三郎右衛門の長男に生まれた。本来、家業を継ぐ立場にあったが、小さい頃から学問を好み病身のため、二十六歳のとき宗家第六代を弟久兵衛に譲り、桂林園に私塾を開き、生涯学問をもって身を立てることを決心した。私塾はのちに咸宜園に発展したが、淡窓が考案した独自の教育方法は引き継がれた。安政三年(1856)七十五歳で没したが、その時点で門人は三千人を越えた。塾の運営は、旭荘(淡窓の弟)、青邨、林外(淡窓の子)へと引き継がれ、明治三十年(1897)まで続けられた。

(長生園)


文玄廣瀬先生之墓(広瀬淡窓の墓)

 広瀬淡窓ほか一門が眠る墓所である。淡窓は生前この地を墓所に選んでおり、長生園と名付けた。
中央に淡窓の墓があり、「文玄広瀬先生の墓」と書かれている。その右側の「文靖先生」は広瀬林外、「文敏」が旭荘、「文通」が青邨、「文圓」が濠田の墓で、そのほかは各夫人と夭折した子供たちの墓である。
咸宜園は、淡窓から旭荘、青邨、林外、濠田と受け継がれ、約九十年間で全国六十六ヵ国より門弟が集まり、その数は四千八百人を数える。


文通廣瀬先生之墓(青邨の墓)
文圓廣瀬先生之墓(濠田の墓)


文靖廣瀬先生之墓(林外の墓)


文玄先生之碑(淡窓遺言碑)

 北西隅に建てられている「文玄先生之碑」は、淡窓の没した翌年に建てられた墓碑である。碑文には、淡窓が生前自ら作った文を、没後旭荘が謹書して碑石に刻ませたものである。末尾に「我が志を知らんと欲すれば、我が遺書を視よ」と記されている。

(咸宜園)


咸宜園

 日田の咸宜園は、文化二年(1805)、広瀬淡窓が、長福寺の学寮で開塾したのが起源で、その後、成章舎、桂林園(もしくは桂林荘)と場所や名前を変え、文化十四年(1817)、現在地に移されたものである。「咸宜」とは中国最古の詩集「詩経」にある「殷、命を受く咸宜(ことごとくよろし)、百禄是れ何(にな)う」に由来する。「すべてがよろしい」という意味で、その名のとおり、淡窓は門下生一人ひとりの意志や個性を尊重した。身分制度の厳しい時代にあって、入門時に学歴・年齢・身分を問わない「三奪法」によって、全ての門下生を平等に扱った。咸宜園では月の初めに門下生の学力を客観的に評価する「月旦評」と呼ばれる制度により、全ての門下生の成績を公表することで、学習意欲を起こさせた。ほかにも規則正しい生活を実践させるための「規約」や、門下生に塾や寮を運営させるための「職任」など、門下生の学力を引き上げるとともに、社会性を身に付させる教育が実践された。咸宜園は、淡窓の没後も広瀬旭荘、青邨といった門下生に引き継がれ、明治三十年(1897)に閉塾するまでおよそ五千人もが学んだ、全国でも最大規模の私塾となった。門下生には、高野長英、大村益次郎、岡研介、上野彦馬、平野五岳、恒遠醒窓、大隈言道、長三洲、長梅外、谷口藍田、松田道之、清浦圭吾、赤松蓮城、西秋谷らがいる。
 司馬遼太郎先生は、明治期の帝国大学を配電盤にたとえた(「この国のかたち 三」)。帝国大学ほどの影響力ではないかもしれないが、私塾というのも配電盤と呼ぶに相応しい存在であったと思う。咸宜園で学んだ恒遠醒窓や大村益次郎らがそれぞれ故郷に戻ってそこで塾を開いて子弟を育成した。まさに咸宜園は電流の供給源といった存在であった。


咸宜園室内

 咸宜園跡には、江戸時代に建設された居宅「秋風庵(しゅうふうあん)」や書斎「遠思楼(えんしろう)」が保存公開されているほか、書蔵庫や井戸なども見学することができる。


遠思楼

(専念寺)


専念寺


五岳上人像

 平野五岳は、文化六年(1809)、日田郡渡里村正念寺に生れ、八歳の時専念寺の養子となった。文政二年(1819)、咸宜園に入門。詩を広瀬淡窓に、書を貫名海屋に、画を田能村竹田に学び、のちに「三絶僧」と称された。明治に入り、初代日田県知事松方正義の信望を得て、その交わりは終生続いた。以後、大久保利通や木戸孝允とも交わりがあり、その画は明治天皇にも献上された。明治十年(1877)、東本願寺大法主巌如上人の西南の役戦跡慰問の旅に随行し、「丁丑夏日熊本城下作」の詩を詠じ、全国初の作詩賞を受賞した。この詩は熊本城の谷干城像の台座に刻まれているものである。五岳を慕って、明治十六年(1883)には谷干城熊本鎮台指令長官、次いで明治二十年(1887)には書家日下部鳴鶴が専念寺を訪れ、教えを受けた。明治二十六年(1893)、三月、「いざ西へ向かいて先に出かけ候 そろそろござれ後の連中」と辞世歌を残し、大往生を遂げた。享年八十五。

 
熊本城防戦詩碑

 「四面皆賊簇似雲 城在雲中級々」から始まる熊本城攻防戦詩碑は長文なのでここで全文を紹介しない。漢語の素養のない現代人には正確に意味をつかめないところもあるが、激烈な戦況を活写した詩である。
 ここで雨がさらに強くなった。

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うきは

2016年07月09日 | 福岡県
(高見)


篠原元輔信親墓 同人妻墓
(篠原泰之進両親墓)

 新選組の篠原泰之進は、文政十一年(1828)、石工篠原元助の長男として、浮羽郡高見村(現・うきは市)に生まれた。幼少より武芸に励み、剣術、槍術、柔術を修めた。初め久留米藩士小倉一之進に仕え、のち家老有馬右近の中間となった。安政四年(1857)、江戸勤番に随行し、そこで真木和泉の門弟酒井伝次郎と親しくなり、やがて尊王攘夷を志すことになった。万延元年(1860)、水戸へ赴き、翌年江戸に戻ったが、ほどなく神奈川奉行所に雇われ、横浜居留地の警備隊長に就いた。そこで役所に乱入したイギリス人を縛り上げ、海岸に放置するという事件をおこし遁走した。元治元年(1864)、伊東甲子太郎の誘いで上京して新選組に入隊。諸士調役兼監察、柔術師範となり重用された。しかし、入隊以来、佐幕攘夷というべき新選組の思想との矛盾を解消できず、慶応三年(1867)三月、伊東らとともに新選組を離脱、孝明天皇の御陵衛士を命じられた。同年十一月、伊東らは新選組に暗殺された(油小路の変)。この時、篠原は難を逃れ、伏見の薩摩藩邸に匿われ、鳥羽伏見でも薩摩郡の一員として戦った。これ以降、父の実家の姓「秦」を名乗るようになった。戊辰戦争では赤報隊に参加。隊員の暴行、掠奪の責任を負って投獄されたが、間もなく赦され、北越や会津で戦い、京都に凱旋を果たした。明治二年(1869)帰国して久留米藩に登用され、弾正台少巡察に任じられた。明治五年(1872)、大蔵省造幣寮勤務となるが、翌年官を辞して実業家となった。明治九年(1876)、京都に移住。明治二十五年(1892)、東京に転居し、晩年はキリスト教に入信した。明治四十四年(1911)六月、享年八十四にて死去。
 うきはの両親の墓は、維新後、泰之進が両親のために建てたものである。
コメント (2)
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朝倉

2016年07月09日 | 福岡県
(清岩寺)


清岩寺

 清岩寺は、三奈木黒田氏の菩提寺である。ここに福岡藩で家老として辣腕を振るった黒田播磨の墓がある。


前筑前国大老黒田朝臣溥整大人墓


黒田一葦之碑

 黒田播磨は、文政元年(1818)、福岡藩家老の家に生まれた。諱は一整、溥整、一葦。父はやはり家老をつとめた黒田清定。天保十一年(1840)、家督を継いで家老上席に列し、弘化元年(1844)播磨と称した。幕末福岡藩の軍備増強、兵制改革に携わり、一方、矢野幸賢、大音青山、加藤司書らを推して藩政に参画させた。元治元年(1864)、第一次長州征伐に際しては、長州藩へ使を送り、藩主へ恭順を勧め、また征長軍総督徳川慶勝のいる広島へは加藤司書を派遣して征長軍解兵を説かせ、また五卿の大宰府への西渡にも尽力した。慶応元年(1865)、佐幕派の起こした福岡藩己丑の獄で他の尊王派藩士とともに捕えられて幽閉された。慶応四年(1868)二月、赦されて、再び藩政を主宰して改革の実を挙げ、明治二年(1869)二月、再び隠居して名を一葦と改めた。明治十八年(1885)、年六十八で没。

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秋月 Ⅱ

2016年07月09日 | 福岡県

(西念寺)
西念寺に行き着いた時には雨はいよいよ本降りとなっていた。ここに原古処、采蘋父子、吉田平陽の墓などがある。


西念寺
 

原古処先生墓


原采蘋墓

 原古処は、寛政十二年(1800)より秋月藩校稽古館の教授。文化九年(1812)、江戸において職を解かれ、翌年十一月に隠居した。以後、秋月において私塾古処山堂や甘木で詩塾天城詩社を開いて指導にあたった。その間、采蘋は自ら漢詩や漢学を学びながら父を助けた。また、古処に従って各地を旅し、文人墨客で交流を深めた。
 文政九年(1826)、病を得て、翌十年(1827)正月、死去。
 采蘋は寛政十年(1798)古処の娘に生まれる。古処没後、古処の詩集出版のため上京し、京都で頼山陽や梁川星巌、江戸で松崎慊堂らの支援や指導を受けた。采蘋は二十年にわたり江戸に滞在して詩作に励んだ。嘉永元年(1848)、母親の看病のため帰国。以後、母とともに屋永村(現・朝倉市)次いで山家(現・筑紫野市)に移り住み、私塾宜宜堂を開いた。安政六年(1859)六月、病のため死去。六十二歳。


吉田平陽墓

 吉田平陽は寛政二年(1790)生まれ。江戸在勤中、佐藤一斎の門で学んだ。帰国して勘定奉行、大阪蔵奉行に任じられ、藩校稽古館教授を兼ねた。文久三年(1863)二月、七十四歳で死去。
 墓石の赤い字は存命中を意味していると聞いたことがあるが、西念寺には吉田平陽の墓をはじめ赤い字で彫られている墓がある。どういう意味があるのだろうか。

(ろまんの道)


ろまんの道

 現在、「ろまんの道」というカフェのような店舗となっているが、この周辺が原古処の塾跡に当たる。「ろまんの道」の中に原采蘋像が建てられている。


原先生古処山堂跡


原采蘋像

(秋月小学校跡)


秋月小学校跡

 秋月のちょうど真ん中に市営駐車場があり、そこに車を停めて、歩いて街を散策するのが便利であろう。
 この駐車場は、元秋月小学校の敷地である。秋月小学校は明治六年(1873)に設立され、昭和四十五年(1970)までほぼ百年間この地にあった。

(秋月郷土館)
 この日は久留米を早朝五時過ぎに出発し、秋月に入ったのは六時のことであった。従って、郷土館の中には入れなかったが、この場所は戸波半九郎屋敷跡である。戸波半九郎は秋月党の幹部の一人で、郷土館には秋月党幹部の直筆辞世が展示されているそうだが、残念ながら拝観することはできなかった。


秋月郷土館


稽古館跡

 秋月郷土館の向いが安永四年(1775)に開設された藩校稽古館である。学問(四書五経、大学、孟子等)のほか、武芸(弓、槍、剣、柔、砲術等)の指導が行われた。

(秋月城址)


秋月城長屋門

 秋月藩主黒田家の居城秋月城である。石垣のほか、この長屋門が唯一の現地に残る遺構となっている。かつては秋月城の裏手門として使用されていたものである。


杉の馬場

 秋月城前の登城道は、往時には杉の並木が両側に生い茂り、その中で武士たちが馬術の腕を競った。江戸中期に杉は伐採され、明治に入って日露戦勝記念に桜が植えられた。恐らく桜のシーズンは見事な花のトンネルを見ることができるだろう。毎年四月には春祭りが開かれるそうである。

(臼井六郎生誕地)


臼井六郎生誕地

 この場所が臼井六郎の生誕地であり、彼の両親(父・亘理、母・清子)が干城隊によって斬殺されたところでもある。

(中島衝平屋敷跡)
 中島衝平は陽明学者で、臼井亘理の師でもあった。慶応四年(1868)五月二十四日、臼井亘理が斬殺された夜、同じく干城隊の手により惨殺された。


中島衝平屋敷跡

(緒方春朔屋敷跡)


緒方春朔屋敷跡

 緒方春朔は、久留米に生まれ、八代秋月藩主黒田長舒に藩医として召し抱えられ、寛政二年(1790)、人痘種痘法により我が国で初めて成功した。

(貝原東軒)


貝原東軒夫人誕生地

 貝原益軒(1630~1714)夫人、東軒は秋月中小路の武家屋敷で生まれ、名を江崎初、号を東軒と称し、十六歳のとき、益軒と結婚した。益軒の多くの著書も、夫人が代筆したといわれている。

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秋月 Ⅰ

2016年07月09日 | 福岡県
(長生寺)
秋月を訪ねたのは、ほぼ二十年振りである。二十年という時間は、街の風景も一変するに十分な時間であるが、秋月の街はほぼ記憶の中の風景と変わらなかった。前回は時間の制約もあり史跡を回りきれなかったが、今回は多少時間的余裕があるので、計画した史跡は全て訪ねることができた。朝から雨であったが、予報では暴風雨に変わるということだった。まだ秋月を歩いている時間は暴風雨というほどではなかった。雨に濡れる小京都も風情があった。機会があれば、もう一度訪ねて見たいと思わせる街である。

長生寺には首謀者である今村百八郎兄弟の墓がある。前回訪問時には訪ね当てられなかった三兄弟の墓を訪問する。


長生寺

 秋月における反乱は、明治九年(1876)十月二十四日、旧熊本藩士太田黒伴雄を首謀者とする約百七十名の敬神党(神風連)の蹶起に呼応して、旧秋月藩の士族が挙兵した事件のことをいう。
 敬神党の挙兵から三日後の十月二十七日、今村百八郎を隊長とする秋月党が挙兵。明元寺にて警察官を殺害した。これは我が国初の警察官の殉職事件といわれる。
 秋月党の中心人物は、今村のほか、宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方らで、総勢約四百の秋月士族が蹶起した。
 彼らは萩の前原一誠とも通じ、また豊津藩の杉生十郎もこれに呼応する約束であったが、杉生らは監禁されていて実行できなかった。宮崎車之助らが豊津藩と談判している最中、乃木希典率いる小倉鎮台が秋月に入り、攻撃を開始した。政府軍の攻撃によって秋月側は死者十七名を出し、江川村栗河内へ退却し解散した。磯淳、宮崎車之助、土岐清、戸原安浦、戸波半九郎、宮崎哲之助、磯平八ら七名は自刃して果てた。宮崎車之助の介錯は実弟哲之助が行った。辞世

 散ればこそ別れもよけれ三芳野の
 散らずば花の名義なからめ

 宮崎哲之助の辞世

 明らけき月をかくせしむら雲を
 払ひもはてず死ぬる悲しさ

 今村百八郎は、同志二十六名とともに秋月に戻り、秋月党討伐本部を襲撃し、県高官二名を殺害した。その後、反乱に参加した士族を拘留している酒屋倉庫を焼き払って逃走したものの、十一月二十四日、逮捕され、十二月三日、福岡臨時裁判所の判決が言い渡され、即日斬首された。今村百八郎の辞世

 天地に霊と屍は返すなり
 今ぞ別れを告ぐる世の人


宮崎三兄弟の墓

 三兄弟の墓は、長生寺山門の左手、昼間でも光の当たらない藪の中にある。

秋月は本当に鄙びた街で、どうしてこんな僻地で乱などという大それたことを企んだのか、全く不可思議である。明治維新も薩摩・長州・土佐という辺境から起こった。辺境エネルギーというべきものが、ここ秋月にも発生したのかも知れない。
秋月の乱は、福岡の連隊を率いる乃木少佐の手によって誠に呆気なく鎮静されてしまう。秋月の若者たちは明治維新に乗り遅れた反省から、先駆けて乱を起こしたが、結局薩摩が起たないためにほとんど反抗もできないまま抑えられてしまったのである。


緒方家之墓(緒方春朔墓)

 長生寺には緒方春朔の墓がある。
 緒方春朔は、寛延元年(1748)の生まれ。長崎で医学を修め、種痘の研究をして秋月に戻った。この頃、秋月で天然痘が流行し、春朔は寛政二年(1790)、人痘による種痘に成功した(ジェンナーによる牛痘種痘の成功の六年前のことである)。国はこの業績を認め、大正五年(1916)、正五位を追贈した。文化七年(1810)、六十三歳にて没。

(田中天満宮)


田中天満宮


淡島神社

 秋月の乱では、宮崎車之助、今村百八郎らが西福寺で挙兵したが、そこに入りきれなかった一団は田中天満宮に集結した。境内には樹齢四百年というイヌマキの大樹がある。百四十年前の反乱を見下ろしていたであろう。

(古心寺)
 古心寺は秋月黒田家の菩提寺で、境内に墓所がある。また、「我が国最後の仇討事件」で知られる臼井六郎の墓がある。


古心寺


臼井亘理(簡堂)清子の墓
臼井六郎墓

 臼井亘理(六郎の父)は、鳥羽伏見の戦いのため上京していたが、慶應四年(1868)五月に帰藩。その夜、何者かが家に押し入り、亘理とその妻を殺害した。のちに藩内尊攘派の干城隊の一瀬直久の仕業であったことが知れ、六郎は敵討ちを決意し、一瀬を追うために上京した。六郎が仇討を決行したのは、明治十三年(1880)。父の形見の短刀で一瀬を討ち果たした六郎は、その足で警察に自首してでた。既に仇討禁止令が出された後のことであり、厳密に法律を適用すれば、死罪が適当であったが、世論は六郎に同情的であり、裁判では終身禁固が言い渡された。
 のち大赦により出獄し、故郷に帰った。大正六年(1917)六十歳にて死去。古心寺の両親の墓の傍らに葬られた。


黒田家墓所

 十一代藩主長義は文久二年(1862)、わずか十六歳にて死去。嗣子がなかったため、その死は当面秘匿され、跡を弟の長徳が継いだ。


黒田長義公墓


黒田長元公墓

 黒田長元は、第十代秋月藩主。父は土佐藩の山内豊策。万延元年(1860)家督を六男長義に譲って隠居した。慶応三年(1867)、五十七歳にて死去。


黒田長徳公墓

 第十二代藩主長徳は、最後の秋月藩主となった。秋月藩は福岡藩の支藩で、佐幕色が強かったが、大政奉還後は官軍についた。これを不服とする反対派との対立に加え、上層部の勢力争いがからみ藩内は混乱した。明治二年(1869)、版籍奉還により藩知事。明治四年(1871)廃藩置県により東京に移住した。明治二十五年(1892)、四十五歳にて死去。

(戸原継明(夘橘)誕生地)


戸原継明(夘橘)誕生地

 戸原継明は、天保六年(1835)、秋月に生まれた。父は藩医戸原一伸。夘橘(うきつ)と称した。二十歳のとき熊本の儒者木下業廣(韡村)の門に入り、江戸に出て塩谷世弘(宕陰)に学んだ。同藩士海賀宮門と交際して尊王論を唱え、文久二年(1862)、島津久光の上京時には、これを海賀と平野國臣に報じ、東西呼応しようとしたが、嫌疑を受けて国許で幽閉された。文久三年(1863)六月、赦されて、同年八月脱藩して長州へ赴いて七卿に謁した。そのとき中山忠光の大和挙兵を聞き、これに応じるために平野とともに七卿の一人澤宣嘉を擁して但馬に赴き、生野代官所を襲撃して兵を挙げたが、幕府の反撃により岩須賀山妙見堂にて自刃した。このとき戸原夘橘は二十九歳という若さであった。行動を共にしていたのは長州藩士南八郎こと河上彌市、長野清助、下野猛彦、小田村信一、伊藤三郎、白石廉作、井関英太郎、久富惣介、和田小傳次、西村清太郎。彼らは奇兵隊士で、白石正一郎の弟廉作三十六歳を除くと、いずれも十代から二十代の若年で、戸原を慕っていたという。彼らの介錯を済ませると
「武士の最期を見よ」
と大喝するや、刀を咥えて巌上より飛び降り咽喉を貫いて壮烈な最期を遂げた。墓所は京都霊山。

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鳥栖

2016年07月09日 | 佐賀県
(朝日山)


史跡 朝日山城趾

 鳥栖市は九州自動車道と長崎自動車道の交わる交通の要衝であるが、それは現代に限らず、昔からそういう存在であった。その中にあって四方を見渡せる朝日山は軍事上重要な拠点でもあった。現在山頂付近は公園として整備されている。
 朝日山は標高132・9メートル。山というより丘のような山である。建武元年(1334)、少弐一族の朝日但馬守資法が山頂に朝日山城を築き、天正十四年(1586)薩摩の島津勢に攻め落とされるまで、朝日一族や筑紫一族の居城であった。明治七年(1874)の佐賀の乱では、佐賀軍と政府軍の間でこの山を巡って激しい攻防戦が展開された。


聖駕駐蹕之地

 私が鳥栖の朝日山を訪ねたのはもう午後七時が近い夕暮れ時であった。公園には誰もいないと思っていたら、山頂の展望台にはカップルが一組、眺望を楽しんでいた。そこにぜえぜえ言いながら登ってきたオジサンは、明らかに邪魔な存在であったと思われる。カップルには一切構わず、四方の写真を撮影して速やかに撤退した。


朝日山山頂からの眺望
手前は新鳥栖駅
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神埼

2016年07月09日 | 佐賀県
(伊東玄朴旧宅)


伊東玄朴旧宅

 神埼町的(いくわ)の伊東玄朴旧宅である。庭に眼光鋭い玄朴の胸像が置かれている。
 伊東玄朴は寛政十二年(1800)、農家の長男としてこの地に生まれた。十一歳のとき、不動院玄透法印について漢学を学び、十七歳の時、自宅で漢方医を開いたが、新しい医学へ憧れて長崎の鳴滝塾でシーボルトに師事し、学識を飛躍的に向上させた。二十五歳で江戸に出て、当時不治の病とされていたジフテリアを治したことから蘭方医として名声を博した。天保四年(1833)、蘭学塾象先堂を開設し、人材の育成に努めた。天保十四年(1843)、佐賀藩主鍋島直正の御匙医となり、「牛痘種痘法」を翻訳する一方、牛痘接種を強く献言した。尚正は意見を取り入れ、藩医楢林宗達を通じて蘭医モーニッケより牛痘苗を取り寄せた。嘉永二年(1849)、藩主の長男淳一郎に、同年江戸屋敷にて長女貢姫(みつひめ)に接種して、いずれも成功した。のちに十三代将軍家定の奥医師となり、文久元年(1861)には、西洋医学所(現在の東京大学医学部の前身)を創設した。明治四年(1871)、七十一歳で病死。我が国における近代西洋医学の父と仰がれる。


伊東玄朴之像


伊東玄朴先生誕生之地


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佐賀城西側 Ⅲ

2016年07月09日 | 佐賀県
(延命院)


延命院

 延命院は佐賀の乱の際、征韓党が集合した寺院である。本堂は建て替えられてコンクリート造りになっており、歴史を感じることはできない。

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