日出といえば、サンリオ・ハーモニーランドである。まだ鹿児島に勤務していた頃、娘がキティちゃんの熱烈なフアンだったため(だいたいこの頃の女の子は、キティちゃんが大好きである)、家族でサンリオ・ハーモニーランドに遊んだことがある。もう今から十七~八年も前のことである。花粉症がひどくて大分までのドライブの間、ずっと鼻をかんでいた記憶しか残っていない。
ステージではショーが開かれており、ステージ上から「今日が誕生日の人は集まって」と呼びかけられた。偶然、その日が誕生日だった私は、家族に促されるまま、ステージに上がった。同じようにステージに上がったのが数人いたが、いずれも小さな子供で大人は一人だけであった。じゃんけんで負けたから良かったものの、勝ち残ったら危うくキティちゃんのパレードに参加するところであった。
日出城址
日出城は別名を暘谷城という。城址は現在日出小学校となっている。明治四年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治八年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付され、次々と取り壊されてしまった。隅櫓(鬼門櫓)のみが残されている。
日出城隅櫓
帆足萬里記念館
日出町歴史資料館
帆足萬里像
帆足萬里は、江戸時代後期の儒学者・家老。安永七年(1778)日出藩の家老帆足通文の三男として生まれた。十四歳で豊岡の儒学者脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研究に努めた。経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった。天保三年(1832)、十三代藩主木下俊敦に請われて家老職につき、藩財政の再建にも力を尽くした。嘉永五年(1852)六月、多くの弟子に見守られて七十五歳の生涯を閉じた。帆足萬里の代表的著書に「窮理通」「東潜夫論」などがある、三浦梅園(安芸)、廣瀬淡窓(日田)とともに、「豊後の三賢」と称される。
(致道館)
致道館
日出藩校致道館は、安政五年(1858)、日出藩十五代藩主木下俊程が命じて日出城内二ノ丸に創立された。八歳以上の子弟は必ず入学し、修了の期を設けず広く教育を施した。十六代藩主俊愿(としまさ)もその普及に努めた。およそ二百五十名の子弟が学んだといわれる。明治四年(1871)の廃藩置県により、日出藩の廃止とともに致道館は閉校となり、僅か十三年の歴史に幕を下ろした。致道館の建物は、その後、暘谷女学校、杵築区裁判所日出出張所、日出町役場、財団法人帆足萬里記念図書館等に転用され、昭和二十六年(1951)、現在地に移築された。
致道館室内
(松屋寺)
松屋寺(しょうおくじ)に入場しようとすると、入口で呼び止められた。拝観料三百円が要るというので、慌てて車に戻って財布をとってきた。ゴールデンウィークといえ、激しい雨が降り続いており、訪問客はまばらである。ようやく出現した客を相手に、男性(入口で拝観料を徴収した彼のことである)は、熱心かつ丁寧に境内を案内してくれた。
本堂前の蘇鉄は高さ六・一メートル、株元の周囲六・四メートル、南北幅九・七メートル、東西幅八・五メートルという巨樹で、樹齢六百年以上と推定されている。先ほどの男性に促されるまま、蘇鉄の回りを一周すると、男性は待ち構えていて、今度は宝物殿を案内してくれる。宝物も一つひとつ説明してもらった。拝観料三百円は安い!
松屋寺
雪舟作庭園「万竜の庭」
日出藩木下家墓所
日出藩木下家は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の兄弟木下家定の三男木下延俊の家系である。因みに次男利房は足守藩を興した。五男秀秋は小早川家を継いだ。
木下家が日出に入ったのは慶長六年(1601)のことで、以来十六代、約二百七十年間続いた。松屋寺に木下家の墓所が創設されたのは、寛永年間(1630年頃)と言われ、当時は初代藩主木下延俊の祖母朝日(北政所の実母)、延俊の正室加賀(細川忠興の妹)および延俊の父母の四基の墓を祀る墓所として出発し、以後歴代藩主や木下家に関係のある人物の墓が建てられている。歴代藩主のうち十三代と十六代の藩主の墓碑のみが欠けている。
木下飛騨守豊臣俊程墓(木下俊程の墓)
十五代藩主木下俊程(としのり)の墓である。父は十三代藩主俊敦。安政元年(1854)、兄俊方の早逝により跡を継いだ。在任中に藩校稽古堂を拡張して致道館を創設した。慶応三年(1867)、江戸で死去。三十五歳。
文簡帆足先生墓(帆足万里の墓)
梅林寺の木下家墓所から二百メートルほど行くと、帆足萬里の墓がある。この墓は藩主木下俊方の命により建立され、暘谷城(日出城)に向けて建てられている。碑の正面は門弟で杵築藩主松平親良の弟親直の筆。他の面は高弟米良東嶠の撰による碑文が刻まれている。墓石を削って持ち帰り、学業の向上を祈る人が多かったため、墓碑の一部が欠け、現在はそれを防止するため鉄柵に囲まれている。
(西崦精舎跡)
西崦精舎跡
西崦精舎とは「西方の日の沈む山の学舎」という意味である。その通り、周囲は深い緑に囲まれた山の中である。帆足萬里が、天保十三年(1842)十一月、この地に私塾西崦精舎を開いた。最盛期には百三十名余の塾生がいたという。その時の喜びを「山の井の濁るばかりに汲み分けてなお住む人のあるぞ嬉しき」と萬里は詠っている。嘉永五年(1852)、豊岡の法華寺に塾を移したが、萬里は法華寺に移る前に、二の丸で亡くなった。
今回の福岡~大分の旅では、二週間前に発生した熊本地震の影響を実感することはほとんどなかったが、唯一の例外が湯布院から日出にかけての一帯であった。西崦精舎の頭上を九州自動車道が走るが、もちろんここも通行止めである。西崦精舎跡の石碑は根元から折れて見る影もない。
大分県北部を震源とする地震で、斜面が崩れ落ち高速道路がふさがれた。湯布院と日出の間は通行止めになってしまい、一般道を迂回することになった。折からの大雨と相俟って、過酷なドライブとなった。
旅行から帰ってからの話になるが、地震から一か月が経ち、ようやく対面通行が可能になった。それでも全面復旧にはまだ時間がかかりそうである。