史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

筑紫野

2016年06月25日 | 福岡県
(武蔵帆足商店)
 筑紫野市を訪ねるにあたって、筑紫野観光協会に五卿の歌碑の所在を尋ねるメールを送った。すると、歌碑の住所を返信していただいた上に、筑紫野市が発行している「歌碑・句碑を歩く」というタイトルの小冊子まで郵送していただいた。ここにも歌碑・句碑の住所まで記載されており、事前準備としては完璧であった。というのに、今回の旅行にこの小冊子を持参するのを忘れてしまい、失態を後悔することになった。

 筑紫野市には、五卿のほかにも万葉歌人らの歌碑なども建立されており、全てを網羅するなら一日では足らないだろう。


壬生基修歌碑

 ゆうまくれ しろきはゆきか それならて つきのすみかの かきのうのはな

 壬生基修の歌である。晩春の夕暮、垣根に咲く白い卯の花を詠んだものである。

(武蔵寺)
 今回、福岡県から大分県の史跡を回るに際して、ゴールデンウィークならではの異常な渋滞に出会うことはなかった。唯一の例外が筑紫野の天拝山歴史自然公園から武蔵寺にかけての混雑であった。特に武蔵寺(ぶぞうじ)は、藤やツツジが盛りを迎え、凄まじい人出でとても車を駐車できるスペースはなかった。写真は自動車から身を乗り出して撮影したもの。


東久世通禧歌碑

 藤なみの はなになれつつ みやひとの むかしのいろに そてをそめけり

 東久世通禧の歌碑。武蔵寺に遊んだとき、咲きにおう「長者の藤」を題材に、祖先の華やかな時代をしのんだものである。

(天拝山歴史自然公園)
 天拝山歴史自然公園も凄まじい人出であった。池上池のほとりに四条隆謌の漢詩碑がある。撮影が済んだら速やかに撤退せざるを得なかった。


四條隆謌歌碑

 青山白水映紅楓
 楽夫天命復何疑

 筑紫野の美しい自然を歌うと同時に王政復古を「天命」として成し遂げようという決意をこめた詩である。


池上池

(湯町大丸別荘)
 大丸別荘は、老舗の温泉旅館である。駐車場に入ると、早速仲居さんが出てきた。慌てて車を下りようとしてドアに膝を痛打した。「三条実美の歌碑を見学にきた」旨を伝えると、代わって年配の仲居さんが出てきて、丁寧にその場所を教えてくれた。三条実美の歌碑は、駐車場とは反対側の裏玄関前にある。


三条実美歌碑

 王政復古を目指す心情を、湯の原(二日市温泉)に遊ぶ鶴に託して詠んだものである。

 ゆのはらに あそふあしたつ こととはむ なれこそしらめ ちよのいにしへ

(東峰マンション二日市Ⅱ)
 大丸別荘の駐車場に車を置いて、裏玄関に回る途中に三条西季知の歌碑があった。


三条西季知歌碑

 けふここに 湯あみをすれば むらきもの こころのあかも のこらざりけり

 三条西季知は、幕府目付役監視のもと、緊迫した中でも暖かい温泉でのもてなしに、すっかり元気になったと喜びを歌にした。

(武蔵公民館)
 こちらも三条西季知の歌碑である。武蔵の松尾家での歓待に対する謝意を歌にした。

 ひとならぬ くさきにさへも わするなよ わすれしとのみ いはれけるかな


三条西季知歌碑

(八ノ隈池)
 天拝山歴史自然公園から武蔵寺にかけての大混雑と比べて、八ノ隈池にはまったく人影がなかった。ここに東久世通禧の歌碑がある。


東久世通禧歌碑


八ノ隈池

 しもかれの おはながそてに まねかれて とひこしやとは わすれかねつも

 慶応三年(1867)秋、東久世通禧が松尾家に招かれ、もてなされたことに対して謝意を表した一首である。

(月形洗蔵幽閉の地)


月形洗蔵幽閉の地

 月形洗蔵は、万延元年(1860)、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、王政復古を目指して藩政の改革こそが急務で、参勤の時に非ずとする建白書を提出した。このため藩政を妨げた罪により、捕えられ家禄の大半を没収され、中老立花吉右衛門、その家臣松尾富三郎預けとなり、立花家の知行地である御笠郡古賀村佗伯五三郎宅に牢居の身となった。獄中では終日端坐して書を読み、或は近在の子弟に学問を教えることを日課としていた。元治元年(1864)五月、罪を赦されて家禄も復した。同年十二月には藩命により長州にわたり五卿の大宰府遷座に全力を尽くした。合わせて征長軍の解兵、薩長二藩の融和に協力した。ところが、藩内佐幕派の台頭により慶応元年(1865)六月、身柄が一族預けとなり、同年十月、斬首された。

(筑紫神社)
 筑紫神社の東側の参道前に尊王烈士碑がある。この地域出身の勤王家、岡部諶と吉田重藏を顕彰するもので、昭和三年(1928)に建てられたものである。


筑紫神社


尊王烈士碑

 岡部諶は、文化五(1808)、同村庄屋平山茂次郎家に生まれ、字は士皆、通称甚助。後に夜須郡朝日村の大庄屋に預けられた。読書好きで農事の合間も書物を離さず、胸に「読書中不言」の小札を下げていたので狂人扱いされたほどであった。福岡に出て儒学と兵学を修め、藩の在郷家臣・岡部徳右衛門を嗣いで、さらに学問を深めた。そのころ隣村の吉田重藏と師弟関係となり、重藏が脱藩して上方に向かった時には伝家の刀を贈った。四十二歳で病死したが、馬市の墓石には「楽天斎」の号が刻まれている。
吉田重藏は天保二年(1831)、郷士田中清助の次男に生まれ、はじめ重吉、生前の実名は良秀。幼くして文武に励み勤王派の平野国臣らと親交、文久元年(1861)には郷里を出て諸国の勤王家と通じた。その後、討幕運動に参加するため妻子を残して自ら除籍。母方の姓を名乗って上京した。

(山家宿)
 山家(やまえ)宿は、長崎街道の宿場の一つである。当時の面影を残すものとして、西構口跡や下代屋敷跡や郡屋などがある。安政年間、秋月藩校稽古館教授原古処の娘、原采蘋がこの山家に私塾宜宜堂を開いていた。


御茶屋(本陣)跡


原采蘋塾跡


原采蘋詩碑

 山家宿西構口の原采蘋塾趾の前に采蘋の漢詩碑が建てられている。采蘋がここに塾を開いたのは嘉永三年(1850)、采蘋五十三歳の時であった。翌年、母が亡くなり、三年の喪に服した。
 この漢詩は「母会いたさに千里の道を返ってきたが、山家宿では野菜しかない。海より情け深い人のお土産で魚を夕卓に並べると、亡き母も喜んでいるだろう」という意味のもの。

 千里省親帰草蘆 山中供養只菜蔬
 謝君情意深於海 忽使寒厨食有魚

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