夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

「置かれた場所で・・・」

2012-10-12 15:21:23 | こころに残る言葉
「置かれた場所で咲きなさい」

学校法人ノートルダム清心学園の理事長 渡辺和子。
85歳の著者は現役の教育者であり、ノートルダム清心学園理事長を務める。陸軍教育総監で二・二六事件の犠牲者、渡辺錠太郎(1874~1936年)の次女として生まれ、上智大大学院を修了。29歳でノートルダム修道女会に入り、米国で修練を積んだ。

 そんな才女も、30代半ばという若さでノートルダム清心女子大(岡山市)の学長に任命された際は、困惑し自信を喪失してしまったという。そんなとき、ある宣教師が手渡してくれた英詩にこんなフレーズがあった。

 「Bloom where God has planted you.
(神が植えたところで咲きなさい)」

 置かれた場に不平不満を抱えていては“環境の奴隷”でしかない。“環境の主人”となり自分の花を咲かせるには、「自分が変わるしかない」と、著者はそのとき改心したそうだ。

 人生は望んだ通りにはいかない。勉強にしろ仕事にしろ、家庭生活にしろ、「不本意だ」「こんなはずじゃなかった」と思うことばかり。それでもどこかで折り合いをつけ、前向きに生きたいと願う人が多いからこそ、この本が支持されているのだろう。著者いわく「境遇は選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる」。そして、「どうしても咲けない時は、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです」。


随流去

2012-08-16 06:29:12 | こころに残る言葉
8月16日(木)雨

 今朝ほどのNHKラジオ深夜便で「醤油樽(ショウユタル)から始まった若者道場(1) 曹洞宗僧侶 野田大燈氏」のお話を聞いていて響いた言葉が「随流去」(ずいりゅうこ)です。流れに従って去る、という言葉ですが、これは大梅禅師の言葉として伝えられています。
 大梅禅師は、長い期間、山に篭って行をされていたことで有名な唐の時代の高僧です。
杖になる木を探しに山に入ったある修行僧が、路に迷ってしまいます。
そして、たまたまたどりついた大梅禅師の庵で、「山を抜け出るにはどちらに行ったらよいでしょうか」と訊いたところ、大梅禅師は「随流去」と応えたという話です。

「流れに随って去(ゆ)きなさい」、大梅禅師は川に沿って行けば山を抜け出られることを教えてくれたのです。
川の水は低いほうに流れていきますから、その流れに沿って歩いていけば里に導かれるというわけです。
 この言葉には、自分の判断ではなく、大きな真理に従って歩いて行けばいい、という意味が込められています。真理は、川の流れのように、どんな状況にも揺らぐことなく、ぶれることなく低きに向かって流れていきます。
 壁にぶつかっても、必ず進路を見つけ出していくのです。

 私自身の人生を振り返れば、まさに何者かはわからないけれども、見えない力で誘われるように進み、現在があるのです。それが因縁であり、必然だったのかもしれません。自分の娘の幸せだけを考えていたら、きっと現在はなかったと思います。障がいという生まれながらの重荷を背負って生まれてきたわが娘二人の役割は何かを考える時、多くの同じ境遇にある人々の幸せ追求が結果的にわが娘の幸せにつながっているのだという考え方に至りました。もちろんその考え方の根底には、宮沢賢治がいるのですけれども・・・。
 そのひとつの表現方法として「随流去」という言葉が収まるような気がしています。
 


 


「何のために」

2011-11-04 05:52:20 | こころに残る言葉
11月4日(金)快晴

 昨日は自転車で通勤したが、徒歩では片道5000歩近くになる万歩計が、往復で4000歩を少し超える程度しかカウントされていない。先日大豆の収穫で畑で1時間作業をしただけで5000歩をカウントしていたのだから、作業をしながら歩くことの意義はそこにあるのかも知れない。

 「何のために、それをするのか?」という問いがあった。
 何のために、あなたは働いているのか?そう聞かれたらあなたは、なんと答えるだろうか?
 糧を得るためにという答えもあるだろう。欲しいものがあるので買うために・・・という答えや、家族を守るためにという答えもある。
 それでは何の仕事でも良いのかと、もう一度問われることとする。その時あなたは、なんと答えるのだろうか。

 生まれてきた以上、納得の行く人生を生きたいと願う思いがある。人生を後にするときに、「ああ、生まれて来てよかったなあ」そう答えられる人生でありたい。
 昨日は文化の日で、文化勲章を授与された人々が新聞に載っていた。毎年文化の日になると思うのだが、私は勲章だけはもらえないし、貰いたくない一人である。いかなる表彰ですら、固辞して生きてゆきたい。
 私は宮沢賢治言うところの「デクノボー」でありたいと願う。

  雨にも負けず
  風にも負けず
  雪にも 夏の暑さにも負けない
  丈夫な身体を持ち
  欲はなく
  決して怒らず
  いつも静かに笑っている
  一日に玄米四合と
  味噌と少しの野菜を食べ
  あらゆることを見聞きし解り
  そして忘れず
  野原の松林の陰の
  小さな茅葺の小屋にいて
  東に病気のこどもあれば
  行って看病してやり
  西に疲れた母あれば
  行ってその稲の束を負い
  南に死にそうな人あれば
  行って怖がらなくても良いといい
  北に喧嘩や訴訟があれば
  つまらないからやめろと言い
  日照りの時は涙を流し
  寒さの夏はおろおろ歩き
  みんなにデクノボーと呼ばれ
  褒められもせず
  苦にもされず
  そういうものに
  私はなりたい」

 (「雨にも負けず」)

 

「浅き川も深く渡れ」

2011-06-02 07:01:53 | こころに残る言葉
「浅き川も深く渡れ」
 
 1952年生まれの星野道夫氏は、私と同じ年である。でも私は彼をもっと長く生きていて見続けたかった作家・写真家の一人だとずっと思っている。上の言葉は彼が小学生時代に卒業文集に書いた言葉だと聞いた。すごい小学生だと思う。その片鱗がその後のアラスカの地に、彼は導き寄せられるのだ。
 1996年テレビ番組収録中のカムチャッカ半島でキャンプ中に、ヒグマに襲われて急逝している。
 「星のような物語」彼の写真と短い詩のような文章は、なんと美しく、愛に満ち溢れているのだろうか。

水無月の早苗の緑と逆さ富士

2011-06-01 05:14:08 | こころに残る言葉
 人生の一つ目の節目は30歳までで、この間に自分が何故この世に生まれたかを知る期間。そして30歳から60歳が自分が与えられたと自覚した能力を活かして為す期間。
 そして60歳から人生のゴールまでは、生きて来られたことへの感謝を社会に返す社会貢献の期間だという。

 2万人の町で彼ら夫妻が町長や小中学校などに呼びかけて、東日本大震災復興チャリティコンサートを開催した。900人余りが集合して90万円あまりの益金を被災地に送ったという。コンサートに出演する人もみな、参加費を払って行ったイベントは、大成功だったと語った。

 まさに彼はこの3つめの社会貢献を行っていることになる。新井といえば「千の風になって」の歌を翻訳し、その益金を基金として企業もそれに同調して「阪神淡路大震災」への復興基金としたという話も聞いている。

 彼はフランシスコ・ザビエルの言葉を引用して「for others with others」を紹介した。日本に最初にキリスト教を持ち込んだフランシスコ・ザビエルは、「みんなのために、みんなとともに」と言う言葉も残した。一人では効果が少ないが、みんなで行えば大きな力をみんなに与えることができる。これはまさにこの東日本大震災にも当てはまる言葉だと感じた。

 奥さんのノリコさんがいった言葉で「しあわせとは、朝を健康で迎えること、昼を美味しくいただけること、夜を安心して眠れること」が印象に残った。震災前はこんなアタリマエのことがしあわせなど誰も気づかないが、いざ目の前の現実の悲惨さを前にすれば、いかに日常的な繰り返しがしあわせなのかを実感することができるのだ。

 二人の夫婦が60歳を過ぎて語る。「千の風になってからでは遅い、生きているうちに妻に夫に、子にお、親に、伝えあおう感謝の言葉を、人生最後の言葉を。「君と生きてこられてよかった。ありがとう」と。



心のパン

2011-05-31 06:30:05 | こころに残る言葉
 「人間が生きて行くために必要なもの、それは食料と希望だ」と、新井氏が「NHKラジオ深夜便で語った。ぼくは夢の中で、たしかにその言葉を聞いた気がする。人間は飯を食ってさえいれば生きて行けるわけではないのだ、とそう思う。19世紀だったかの王様の実験の話を思い起こしている。
 それは赤ちゃんの実験だ。食事は与えるが何も語りかけない。
 結果的には赤ちゃんは死んでしまうのだが、それは赤ちゃんが食べ物で栄養をとっているだけでは生きて行けないことを物語っている。人間は孤立しては生きてはいけないのだ。ある言葉にも「孤独は選べるが孤立は選べない」とあった。一人でいたいという気持ちと、みんなと一緒にいたいという気持ち。でも必ずしも集団は総てを包含してくれるものばかりではない。その時に起きるのが、「自殺」だったりする。「心のパン」私たちはそのパンを今こそ持つ必要があるのかも知れないと思う。

隠居大学・NHK「ラジオ深夜便」

2011-05-30 05:50:23 | こころに残る言葉
 「隠居」というと人生の後半になって、次世代に家長としての実権を譲って自由の身になることのようだ。年の頃で言えば現代は栄養状態も向上し、寿命も伸びてきたので70歳くらいが丁度なのだろうけれども、昔は還暦の60歳くらいなのではあるまいか。

 今朝の対談で印象に残ったのは天野氏の、松山市の人情というか住み心地が良い街という話があった。氏は松山市に住んでいたことがあるらしいが、マンションのエレベーターに乗り合わせる子供たちでも、挨拶がとってもいい。「こんにちは」「おはようございます」と必ずいう。そういうこともあって、とっても住みやすい素敵な街というイメージらしい。
 東京にいて感じることは、この挨拶に温度がない。天野氏が若者の挨拶に苦言を呈していた。「挨拶もできないのか?」というと、「挨拶はしました」と返す若者。しかし挨拶されたような気にならない挨拶の仕方、それは温度がない言葉だけの挨拶だからだという。目を見て、「きょうは一日また仲良くやりましょうね・・・」というような心の触れ合いを期待させるような挨拶が、今は「おはよう」などという言葉だけ言えば良いという思いが多すぎるというのだ。
 冨士眞奈美さんは静岡県出身で、静岡も住みやすいと思っていた。でも静岡の人が松山市へ引っ越していくのを見ると、負けたと思ってしまう。静岡でも人情は濃いし、みかんもあるのだ。
 さて「隠居生活」だが、隠居というと用無しとか世間との距離ができた人というイメージがあるが、わくわくできる年代だと天野氏。「」わくわくとはそれまで出られなかった枠からようやく脱出して、自由になって感じる感動の気持ちだという。
 いろんなモノを自由な目で見たり、自由に過ごせるという開放感がそこにはあるという。冨士眞奈美さんは、独り身だが全然寂しさはないという。近所のお花屋さん、魚屋さん、お隣さんなどと親しくしていると、少しも寂しさを感じない自分がいる。
 天野氏が恋をしないのかというと、自分は若い時から隠居していたんじゃないかと思うような性格だという。人との濃密な関係がいつもあるので、寂しさなどは感じないで過ごしてきたという。

 さてさて、私たちの隠居時代は果たしてどのようになっていくのだろうか。まずはお楽しみ・・・・。
 

働くとは・・・

2011-05-13 13:01:37 | こころに残る言葉
 私は新潟出身なのでか、その方が新潟の方ではないかという気づきは結構あたっています。いわゆる新潟弁は、そのなまりでわかります。
 案の定、片桐さんご夫妻のお話を聞き、それは当たっていました。その片桐さんは以前教員だったとのことで、今は74歳の方です。ご主人は今でも再就職をして給料をその運動に注ぎ込んでいるとのことでした。
 片桐さんは今インドに小学校を作る運動をしていました。すごいなあと思います。彼女曰く、人間には余生などはないといっています。人間は生涯現役でなければならない。生きている限り、役割を持って生きるのが人間なのだと・・・。
 そして、私は彼女のご主人が「働くとは傍(はた)が楽になること」と言われました。そして更に冗談めいて逆転の発想で、「にいがた」は「たがいに」という風にも読めるとのことでした。互いにしあわせになるために、力を尽くしたいと語っていました。
 それにしても「傍が楽になる」という「働き」は目からうろこのような気がしますね。