都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
National Foundation Day
建国記念の日(けんこくきねんのひ)とは、日本の国民の祝日の一つです。日付は2月11日。
国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日から適用されました。
他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、建国記念の日は「政令で定める日」と定めている。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」としたのです。
2月11日という日付は、明治時代の初期に定められ1948年(昭和23年)に廃止された紀元節と同じである。紀元節の日付は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔:かのととり-どし-はるしょうがつ-かのえたつ-さく)に由来します。日付は正月朔日、すなわち旧暦1月1日となるのです。
「古事記」や「日本書紀」(記紀)に書かれた建国伝承の概略は「すべての人々が安らいで豊かに暮らせるよう、大和に都をつくろうではないか。」そう思い立った神倭伊波礼比古命(神武天皇・かむやまといわれびこのみこと)の一行は日向(宮崎県・ひゅうが)を船出し、日向灘から瀬戸内海を東へ向かう。難波(なにわ)から大和に入ろうとするが果たせない。今度は紀の国(和歌山県)の熊野に上陸し、辛苦を重ねながら八咫鳥(やたがらす)に導かれ、ついに大和を平定したというものです。
干支紀年法は後漢に三統暦の超辰法を廃止して以降は木星と関係なく60 の周期で単純に繰り返すようになりました。神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年(720年(養老4年)に成立)を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」です。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定されたのです。
その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ません。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられないのです。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられます。また、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、この日は天文上の朔に当たりますが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられています。
しかし、「紀元節」を「建国記念の日」とするのは、天皇制を復活させ、民主主義の原則に反するものだとして、各地で抗議の声もあがりました。結局、賛否両論の中、「国民の祝日法」が改正され、「敬老の日」「体育の日」とともに「建国記念の日」が新しい祝日として誕生しました。
当日は、建国記念日を祝う式典・集会が各地で行われ、これに反対する集会も各地で行われる。また、各地の神社仏閣では「建国祭」などの祭りが執り行われます。
結局、「建国の日」は神話に基づいて決定されたもので、定かではないということです。アメリカのように建国の日(独立記念日)がハッキリしていれば良いのですが、何せ島国で外敵からの侵略もなく、内輪もめの繰り返しで出来上がった国なので、当然ですが・・・。
国があるのに建国の日がないのもおかしいというので出来た日くらいに考えて、あまり大騒ぎすることもないと思います。
したっけ。