都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
その1 小野篁(おののたかむら)の娘説。(生没年不詳)
時は平安朝初期、七里ヶ沢(現在の福島県阿武隈山系の中部、田村郡の南部に位置)といわれたこの一帯に、公家の血を引く小野篁(おののたかむら:802~852年平安前期の漢学者・歌人)が救民撫育のためにやって来ました。都の教養人であった、篁(たかむら)は、この地を「小野六郷」と称して治め、産業や文化の礎を築くのに懸命の日々を送っていました。ちょうどその頃、篁(たかむら)の荘園に仕える一 人の娘がいたのです。
愛子(めずらこ・珍敷御前)というその娘は息をのむほどに美しかったのです。篁(たかむら)と愛子はたがいに文を交し合う仲となり、そして結ばれました。間もなく玉のように愛らしい姫が生まれ、二人は姫を比古姫と名づけ、たいそう大事に育てました。やがて比古姫が六歳になったある春の日、篁(たかむら)は妻愛子をこの地に残し、姫を連れ都へ上がっていったのでした。
この比古姫こそ後の小野小町である。とするのが福島県小野町の説ですが、残念なことに比古姫が生まれ育ったことを示す記録は残されておりません。
しかし現在でも、田村郡小野町には、小野篁(おののたかむら)を祭神とする矢大神社が人々の尊崇を集めていることまた、夏の風物詩「たかむら踊り」が広く親しまれていること、さらには、京に上がる比古姫の美しさに魅せられ振り返ったという片葉葦が山里に残されていることなど、やはりこの町は小野氏に深い縁を持つ土地柄。そして『小野小町生誕の地』というロマンが生きる土地でもあるのです。
六歌仙・三十六歌仙にも数えられる才能あふれる歌人。その一方では、類希(たぐいまれ)なる美貌の持ち主として、数々の浮き名を流したと伝えられます。自分に思いを寄せる深草少将(ふかくさのしょうしょう)を、百晩通わせる説話はよく知られるところ。(後述)
このほか美男として名高い在原業平の求愛を、鉄火のごとくはねつけたとか、死して髑髏を野辺にさらした髑髏小町の逸話など多種多様な伝統をもち、彼女縁(ゆかり)の地も全国各地に点在しています。
小野小町とはどんな人物であったのかその本当のところは今もって歴史の謎とされています。しかし彼女が残した歌の世界に思いを馳せ、伝説の地を歩いてみれば、もしかしたら誰も知らなかった小野小町に出会えるかも知れません。
その2 小野篁(おののたかむら)の息子で出羽郡司・小野良真(おののよしざね)の娘説。
小野小町(825年~900年)は、平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。
小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。
系図集『尊卑分脈』によれば小野篁(おののたかむら)の息子で出羽郡司・小野良真(おののよしざね)の娘とされ、生没年は825年~900年(天長2年- 昌泰3年)となっている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史記には全く見当たらない。また、小野篁の生没年802年~853年(延暦21年- 仁寿2年)を考えると篁の孫とするには年代が合わない。
血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。
さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇(もんとくてんのう:[827~858])や清和天皇(せいわてんのう:[850~880])の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている。更衣とは寝所につかえる女官です。
また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の”町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。
その3 小野氏の出であるが、父母も身分もつまびらかでない。
「九重の 花の都に 住みはせて はかなや我は 三重にかくるる」
小野小町は、809年、出羽の国・福富の荘桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)に生まれた。(小野篁(おののたかむら:802~852年の娘説と年代が合わない。)
13才の頃、都へのぼり、都の風習や教養を身につけました。
平安時代を代表する六歌仙の一人で、絶世の美女だったといわれている。(六歌仙は他に、在原業平、僧正遍昭、大友黒主、喜撰法師、文屋康秀)
「花の色はうつりにけりないたずらに わが身世にふるながめせしまに(小倉百人一首)」
しかし、故郷を恋しく思う気持ちは消えることなく、小町36才の時、宮中を退き、小野の里へと帰郷しました。庵(いおり)を造って静かに歌を読み暮らしていたところ、小町を想う深草少将は、小町に会いたさから郡代職を願い出て、都から小野の里へとやってきたのです。
数多くの男性から求婚されたが、なかでも熱心だったのが四位深草少将(ふかくさのしょうしょう)だったのです。
京都の山科には少将が小町のもとへ百夜通いしたという伝説も残っているそうです。
深草少将は、会いたい旨の恋文を小町へと送りましたが、小町はすぐに少将と会おうとせず、「わたしを心から慕ってくださるなら、高土手に毎日1株ずつ芍薬を植えて百株にしていただけませんか。約束通り百株になりましたら、あなたの御心に添いましょう」と、伝えたのです。
少将はこの返事をきいて野山から芍薬を堀り取らせ、植え続けました。1株ずつ植えては帰っていく毎日。実は小町は、この頃疱瘡(ほうそう)を患っていたのです。百夜のうちに疱瘡も治るだろうと、磯前(いそざき)神社の清水で顔を洗い、早く治るよう祈っていました。
深草少将は一日も欠かすことなく99本の芍薬を植え続けました。いよいよ百日目の夜。この日は秋雨が降り続いたあとで、川にかかった柴で編んだ橋はひどく濡れていました。
「今日でいよいよ百本」。小町と会える日がきたと喜び、従者がとめるのもきかず、少将は「百夜通いの誓いを果たす」と、通い慣れた道を百本目の芍薬をもって出かけました。
しかし、少将は橋ごと流され、不幸にも亡くなってしまったのです。小町は深い悲しみに暮れ、少将の亡骸を森子山(現在の二ツ森)に葬ると、供養の地蔵菩薩を作り向野寺に安置し、芍薬には99首の歌を捧げました。少将の仮の宿だった長鮮寺には板碑を建て回向し、その後岩屋堂に住んだ小町は、世を避けながら自像を刻んで、92才で亡くなったといわれています。
平安時代当時は「40歳を過ぎたら長寿」として「四十賀」というお祝いをしていたこともあり、「分水嶺は40歳だった」と見てよさそうです。それからすると、92歳はとんでもない長寿だったといえます。
余談ですが、美人とは美少年のことだったそうです。当時、人という字は男性を指していたようです。女性の場合は美女といったそうです。
余談その2ですが、小野小町が生涯男性を受け入れなかったのは穴(膣)なし、つまり障害者だったという話があります。これはもてない男たちの中傷かもしれません。
ちなみに、裁縫で使う穴の開いていない針を待ち針と言いますが、これは「小町針」が語源だという説まであるそうです。
下記は小野小町に対する江戸川柳です
「気の知れぬ ものは小町の恋歌なり」
「歌でさえ 小町は穴のない女」
「そのわけを 知らず百夜も通えなり」
「馬鹿らしさ あかずの門へ九十九夜」
したっけ。