東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

信頼関係は教育の要

2016年01月22日 | 日記

 信頼関係とは、当然、教員(担任)と子ども、保護者との信頼関係である。私たちは教育実践によって直接、子どもと保護者と人間的交流のなかで培われるのが信頼である。
 従って教育基本法(旧法)には、「6条:法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。」「第10条:教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と規定されていた。
 この「全体の奉仕者」「国民全体に対し直接責任を負って」という部分が、2006年、第1次安部内閣で「改正」された現在の教育基本法では削除された。
 そして今、第2次安部内閣が進める「教育改革」は、凄まじいものがある。
 その内容は、国定教科書化を進める教科書制度、道徳の教科化、学校週六日制の復活、インターン制など教員養成、教員への統制強化、教育委員会の中央集権化など枚挙にいとまがない。
 最も危惧されるのは、教員が子ども、保護者に直接責任を負って教育実践を行い信頼関係を培うことが危機にさらされていることだ。
 岩波ブックレット「安倍政権で教育はどう変わるか」(佐藤学、勝野正章共著)は、この危機を簡潔に解説している。
 その「あとがき」に、この危機を次のように論説している。

 近年の日本の教育改革は、学校と教師に対する批判と攻撃を原動力に進められてきた。その前提となっていたのは、社会からの信頼低下であった。学校と教師に対する管理を強め、説明責任(アカウンタビリティ)を要求する改革は、信頼の回復をキーワードにして進められてきたのである。
 しかし、そこで言われている「信頼」は、教師の日常的な教育実践と、子どもとその保護者たちとの直接の人間的交流のなかで育まれる信頼とは異なる。それは上司からの指示え叩令を遵守することで得られる「信頼」であり、週案や日案を作成し、その通りに教育活動を進行させることで得られる「信頼」であり、教育の成果を無理やり測定可能なものに縮減して公開することで得られる「信頼」である。
 その結果、教師はジレンマを抱えることになった。規則と指示・命令を遵守し、説明責任を果たそうとするほど、子どもとその保護者たちからは遠ざかってしまうのである。教育の大部分は、教師と一人ひとりの子どもとの人格的接触を通じて、高度の専門的能力と見識と判断に基づいて行われている。そのため、教師と学校に対する信頼も、この直接的な人間関係のなかで育まれ、強められるものであるはずなのに、規則や書式や数値から「信頼」が生まれるというのである。
 直接の教育活動から離れたところで獲得されるという「信頼」とは、一体、何なのだろうか。
 安倍政権が進めようとしている教育改革を見ると、結局のところ、教師と学校を信頼していないのは、その中心にいる人々に他ならないことがわかる。さらに問題なのは教育の「責任ある体制」構築を唱えながら、その改革の内容は教師に対する管理を強め、上からの指示・命令を忠実に実行する国家の代理人に変えようとするものであることである。

 まさしく、教え子を戦場に送ってしまった戦前の教師と同じ立場に私たちを追い込もうとしていることに他ならない。


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