イーハトーブ岩手の水ブログ

岩手の渓流や三陸の海、みちのく奥州の自然にまつわる出来事や話題を伝えます。更にFM岩手「水のラジオ」の情報も掲載。

また一人、釣り師が逝った

2010年06月24日 | 釣り師の独り言
今日、FM岩手「野遊び倶楽部イーハトーヴ」の番組収録があり、
盛岡に行ってきた。
いつもの様に、パーソナリティの村田久さん&アシスタントの小田加代子ちゃんと
和気藹々に番組を収録し、番組メンバーと仲間達で海のカレイ釣りをやろう・・・
などと話をしていた。

すると、村田さんがおもむろに「権ぞー、野々垣先生知っているよな」という。
「勿論知ってますよ。一関で村田さんと一緒に会ったじゃないですか・・・」
「実は、2週間前に亡くなったんだよ。」と村田さん。
「・・・・事故ですか?」
「すい臓がんだったそうだ。しかも55歳という若さで・・・・」

先日、東京の釣友・万渓巌氏が岩泉に来たときに、一冊の本を僕に差し出した。
フライの雑誌の編集長だった中沢孝さんをフライの仲間たちが語る
「フライロッドを片手に雑誌をつくった」という本だった。
中沢さんも志半ばでなくなったばかりだ。
その本の中にも、野々垣先生は中沢さんとの想い出を綴っていた。
それなのに・・・・
享年55歳とは・・・・あまりにも若すぎる。

野々垣洋一さんは、東京都出身で弘前大学医学部出身。
そして、弘前大学に「フライフィッシング・クラブ」を設立させた創設者だ。
今も弘前大学には「HUFFC」というクラブが存在し、活動を続けている。
彼が大学生だった昭和50年代前半に、学生がフライをやるなんて・・・
とても想像がつかない。

野々垣先生は、大学卒業後に岩手の一関病院に勤務し、
その時に村田さんたちと知り合い、一緒に川に行くようになった。
確か、1995年に芦沢さんが遠野を訪れた時に、民宿「わらべ」で
ご一緒したと記憶している。

その後、茨城で「ののがき脳神経外科医院」を開業され、評判の名医として
地元でも多くの方に慕われていたと村田さんから聞いた。
なんでも、フライの雑誌の中沢さんが倒れた時も、
真っ先に駆けつけたのも、野々垣先生だったという。

またしても、腕達者な釣り師が逝ってしまった・・・。
僕は、一昨日誕生日を向かえ、53歳になった。
果たして僕はいつまで川を歩けるのだろう。
合掌

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4 コメント

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そうでしたか (ゆんぼ)
2010-06-24 21:09:13
確か、村田さんの本の中にも登場していた方ですよね・・・

寂しい限りです

ご冥福をお祈り致します。
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悲しいしらせ (usui)
2010-12-11 00:24:03
野々垣さんの死を貴方のホームぺで初めて知りました。

野々垣さんと私は同い年。
フライの雑誌社の中澤さんが最後に催した集まりで初めて野々垣さんと眼を交わしました。

なにかを訴えたかった野々垣さんの眼。

どうぞ中澤さんと釣り楽しんでください。

野々垣さんのご冥福をお祈りいたします。

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追伸 (usui)
2010-12-11 00:34:21
脱字がありました。すみません。
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大学以前 (英雄)
2021-08-14 16:35:58
洋ちゃんは練馬区の上石神井小学校時代、それはそれは蝶に詳しい神童でした。中学校時代はピアノも弾いていて作曲もしていたと思います。入学困難校といわれる国立の高校に進学。卒業後は池澤さとしの『サーキットの狼』を熟読し、ダブルクラッチとヒールアンドトーをマスターし練馬の石神井公園から第三京浜を使い横浜の港の見える丘公園へ行くコースを約50分で行くのが毎週の散歩コースでした。小学校時代の同級生だった絶世の美女と結婚し、大学でも新しいサークルを立ち上げ、地域で名医と言われる存在にもなり、とても充実した人生だったと羨ましく思います。
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