創造性の開発 新規商品を企画しよう

新規商品企画の成功学
求むる所第一義
随時随所楽しまざるなし

新しい窓際で完成

2017-07-23 04:22:16 | Weblog

 おはようございます。

 定年まで長いものに巻かれよう。もう7年ほどだから、女子大講師とシャープの窓際で生きぬこう、それだけでは物足りないかも、パソコン事情雑学事典を教科書にして、富士通の若手SE研修をしたい、理想の開発組織を生涯の目的に頑張っている中村洋四郎師匠のお手伝いをしようと思っていました。

 所が雑学事典の完成の直前の3月末に、突然、ソフトウェア研究所の第1か第2の研究部長職、技師長か部長に任命されました。部長か技師長か、興味がなかったため忘れました。なお、この研究所は新設の部署でした。副所長が私の部下も管理してくれると言ってくれましたが、所長も副所長も家族は関西、不在が多く、私が若手の提案書や伝票に承認印を押すことになりました。

 研究所全体からして、はぐれ者の寄せ集めのような人ばかり。私はまた人を見る勉強ができました。記事に書いた事業部長と同じような類の人や、扱い辛い研究所育ちの若者や、技術に誇りのある経験者など、その内の数名の若手と私はお付き合いする、指導する立場。彼らに好きにやらせました。席でも打ち合わせでも、寝たふりでした。

 新しい常務は肝心のビジネスを知らない、付き合いが上手い人。あの事業部長の右腕だった人。本質的に似たタイプの関西人。彼は研究者を技術者にして、マルチメディアを基幹ビジネスにしたいと考えていたはず。私は空気のような話が好きな人と思っていました。

 今思うと、若手は管理が嫌いというより、はじき出された被害者でした。私は使えない部長でした。できそうな若手ほど退職してゆきました。昔の富士通を見ているよう。しかし、トップから末端まで、システム開発や販売の難しさが分かっていない人が多かった。

 ですから私には研究所全員が子供に見えました。仕事をする点でです。過去に指導されておらず、発達障害でした。トップがですから、仕方なし。本当に若手が可哀想でした。辞めた彼らはどうなったのか全く知りません。南無大師金剛遍照。

 会社が技術本部のコンピュータ研究所長を新しいソフトウェア研究所の所長にし、技術研究開発のトップを兼務させ、常務に任命した理由の考察です。情報システムやコンピュータの研究者を広く全事業部の商品開発に振り向けよう、と考えたのかも。先進技術動向の解説依頼はたびたび下問されました。

 適応制御や知識処理やAIやロボットのノウハウを白物家電や液晶テレビに振り向け、それらの工場作りをさせようと考えたのかも。一理も、二理もある考え方ですが、研究と開発と営業と管理のバランスが大事です。経理に偏った、数字で分かる、偏った考え方になったと私は思いました。

 陰で所長や副所長に批判されても、現実には問題がないように、マルチメディアの用語を章の名前に採用しました。そして副社長に承認を頂き、出版しました。やれやれでした。やっと5章のマルチメディアの用語の理由が書けました。

  今日はここまでにします。

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