創造性の開発 新規商品を企画しよう

新規商品企画の成功学
求むる所第一義
随時随所楽しまざるなし

親切な同室の人

2018-07-30 04:13:13 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 翌日、脳外科の病棟の受付に行き、書いて来た資料を見てもらい、病院受付窓口に提出しました。それから脳外病棟に戻り、妻の名札がある一番手前の病室に入りました。右左に3つベッド、合計で6、右側の一番奥のベッドに妻がいました。

 後から分かったことですが、この部屋は退院近い人がいる部屋のよう。元気な人が多くいました。1回目の入院時、元気なおばさんが色々教えてくれました。彼女のお見舞いに、毎晩、夕食時に息子さん2人や旦那さんの何れかが来ていました。

 息子さんと旦那さんはすらりとした静かな人でした。旦那さんは定年退職者、息子さんは大手企業の会社員だったようです。毎回、お母さんが好きなお煎餅やクッキーをお土産に持ってきていました。それを彼女が同室の人に配給してくれました。

 当初は苦手なおばさんタイプと思っていました。できるだけ話を避けていました。でも2週間以上同じ部屋でした。とても親切な良い人、しかも近所の人と分かってきました。彼女はセカンドオピニオンのため他の病院に行き、手術法を調べていました。

 セカンドオピニオンの病院では悪性の場合も考慮し、ガンマナイフや量子治療などの先端治療を提案されたようです。松戸に先端治療はなく、横浜になる、費用も高い、老い先短い歳であり、松戸の病院でベストの手術をする決断をしたそうです。

 腫瘍は原発性か良性か悪性かまだ分からない、生体検査をすると悪性の場合刺激して転移が起こる可能性が高い、転移は無さそうだし、良性の可能性も高そう、直接摘出手術を行うと先生に言われ、彼女もその手術法を承諾したそうです。

 彼女は1週間もしないうちに手術。半日で手術は修了したと、翌日、元気に病室に報告にきました。生体検査は10日近くかかることがあり、結果がでるまで入院していると言いました。脳外科の開頭手術は短時間に終わると私も安心しました。

 今日はここまでにします。

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先生との出会いは運

2018-07-28 04:13:35 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 妻は演奏会から帰ってきた夜、何時ものように食事を作り、二人で食べ、片づけ、休んでいました。その日、妻は介護施設でボランティア活動、友人とフルート演奏をしました。1年ほど前から左手が動かない、下手になったと嘆いていただけでした。

 左手と口が痙攣しだし、瞼も痙攣。最初は冗談と思いましたが、止まりません。苦しそう。私が119に電話。救急車がすぐ来ました。隊員が診察。妻は意識がありましたが、話はできず、私も何も持たず同乗し、八柱駅前の病院に行きました。

 夜間救急担当の先生がCT検査。夜の8時過ぎだったでしょう。看護婦さんも少ない上に、病棟の仕事があるのか、厳しい口ぶりで色々指示をしてくれました。駅前の古い病院でした。今はこの病院は取り壊され、マンションになりました。

 CT画像ができ、先生と画像を見ながら面談。怪しい影がある、MRI検査が必要です、このまま市立病院に行ってください、救急車を呼びます、と先生が言いました。当初きつかった看護婦さんが急に優しくなりました。こりゃヤバイと思いました。

 松戸の市立病院に着いたのは11時を回っていたと思います。すぐMRI検査をして、若い先生が診察。彼が手術担当し今も担当医です。たまたまその夜が当直でした。10年も前でした。お若い先生の第一印象があり、大丈夫か心配でした。

 大きな腫瘍と小さな腫瘍がある。良性か悪性かは不明。今の炎症がある状態では摘出手術できない。しばらくステロイド治療して炎症をとり、連休明けに摘出手術する。今日はこのまま入院。明朝、貴方が脳外科の病棟に来てほしいと言われました。

 看護婦さんが来て妻と一緒に病棟に行き、手続きや必要な品の説明を受け、私は帰りました。家に着いたのは夜中でした。家の明かりは煌々とついていました。戸締りや片付けをして、息子にメールし、経過を報告しました。

 息子は10日ほど後から夏休み明けまでケンブリッジに留学する予定でした。息子は、先生に言えば、留学を延期できると言いました。多分、妻はそのまま行けと言うと私は思いました。お母さんと相談して決めようと答えました。

 翌日夜、叔父に妻の症状を電話で相談しました。築地の癌センターや東大病院に仲の良い先生がいるからです。もっとも日本中にいると言えるかも。妻が脳腫瘍で入院した。良性の可能性があるが、大きいのですぐ摘出手術をすると松戸市立病院で言われたと。

 叔父は先生は何歳くらいだと聞いてきました。昨日の救急診療した先生が執刀医のよう、若い40前のよう、東大の方が良いかと聞きました。叔父は色々な病院の実例を話してくれました。

 そして、松戸市立病院は千葉大系、手術に必要なのは知識ではなく実践経験だ、40前後の若手が執刀に最適、神の手の先生は50代以上、老眼、細かい大変な外科手術に不適、千葉大の脳外の教授に聞いてみる、一番良いだろうと言われました。やっと安心できました。

 手術の前日、叔父は突然、松戸の脳外科病棟に現れました。千葉大の教授と会う要件があり、ついでに寄ったと言いました。担当医が一番良いから大丈夫。此処の先生は今から会う千葉大教授の教え子だと言い残しそのまま帰りました。

 ありがたい有難い。南無大師金剛遍照。今日はここまでにします。

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休憩が幸運

2018-07-26 04:17:51 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 学校の非常勤の帰り道に私は面会に行きました。許された面会時間は15分ほど、家に帰ってからでは、遅れそうでそのまま病院に行きました。1時間近く早く行き、病院の待合室で休憩することになりました。

 小学校の恩師に似た人とは違う高齢者が1名部屋にいました。彼は私に話しかけてきました。朝方、奥様が頭が酷くいたく、救急車を呼び、この病院の救急医療センターにきて、救急担当が診察。頭痛薬を飲み、経過監察と言われたそう。

 でも頭が痛く元気がなく、しばらく救急医療センターの長椅子で横になっていたそうです。そろそろタクシーを呼ぼうと思っていたら、妻の担当医の先生が別の患者さんの救急診察で呼び出され、たまたま通りかかったそうです。

 先生は奥様を見て、どうしました、と聞いてきたそうです。経過を先生に話したら、MRI検査をした方が良いと言われたそうです。すぐMRI検査になり、昼休み時間に先生が救急医療センターで診察したそうです。

 何と、くも膜下出血があり、緊急手術が必要と診断されたそうです。そのまま家に帰っていたら悪化し、手術すらできない状況になったそう。手術を終えて、集中治療室に入院でき、ひと安心、手術は上手く行ったよう、と喜んでいました。

 本当に運が良い人でした。先生がたまたま別の患者さんのために呼び出され、出会えました。MRIも空いていて、緊急オペもなかったのでは。先生がタフで親切。すぐ手術してもらえました。まだ脳のダメージは小さかったようです。

 この奥様の退院は早かったよう、ご夫婦と通院時によくお会いしました。私達より5歳ほど年上のご夫婦でした。旦那様は奥様の面倒をよく見ていました。運がいい人の運はしばらく続きます。近くの病院に通い、経過観察しているでしょう。

 今日はここまでにします。

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及川先生に瓜二つ

2018-07-24 04:10:59 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 妻の再手術が始まり、また1日静かに待合室にいました。慣れない主夫の仕事があり、日々多忙でした。今回は学士会報のバックナンバーを読みながら待ちました。手術は夕方までに終わるはずでした。でも、なかなか終わりません。11時を過ぎてやっと先生方が白衣を血に染め、手術室から出てきました。こりゃ大変だ、と私はびっくりしました。

 腫瘍摘出手術の最初の段階で血管と神経を一緒に1本切ってしまったそうです。血を止める緊急処置をして、輸血をたくさんしながら手術をすることになったそう。鼻の傍の網状の毛細管も止血、目から下る静脈の流れを止めたそう。医療ミスと言えるかもしれませんが、深夜まで白衣を真っ赤にして4人の先生が処置をしたと見えました。終了後の先生の説明には文句を言えませんでした。

 おまけに腫瘍を摘出のために切り取った硬膜に替わり、貼った豚の硬膜がはがれてしまい、またもや再手術。接着剤をたっぷりつけ、しっかりと張り付けたそう。今回は剥がれないと先生は言いました。接着剤のアレルギーのためか、このため高熱が数日続きました。

 接着剤のアレルギーは珍しい症例とのこと。抗菌薬からステロイドの処方に変えたのは数日後。その間、傷口からばい菌が入ったかと心配。高熱が続く理由を先生も分かりませんでした。試した短期のステロイド治療に効果があり、熱が下がりました。

 話を少し戻します。手術の翌日から集中治療室に通いました。今回の回復は遅れ、1週間丸々集中治療室にいました。手術の翌日、小学校の時の担任の先生によく似た方とその知人と思しき人が来ていました。話し方も顔も体型も恩師にそっくりの人でした。

 奥様が集中治療室に再入院したよう。脳外科のベテランのよう。症状の経過を他の人に話していました。今回は2度目のクモ膜下出血、手術はもう難しく、状況は厳しいようでした。お見舞いできるのが嬉しい、命さえあれば十分、などと話していました。

 岩手の方ですか、及川さんといいますか、小学校の担任だった及川先生は盛岡の出身、話し方も顔も貴方にそっくり、親戚の方と思いましたと、私は言いました。彼は、東北弁が抜けない、及川は岩手に多い名前ですが、私は違います、と色々話してくれました。

 この方は1週間ほど毎日早い時間に待合室に来ていました。一緒に集中治療室に入りました。でも、病棟で再会できませんでした。奥様が集中治療室から旅立ったのか。待合室で出会った人は、戦友でした。でも、ほとんど病棟や外来診察では再会できません。

 次に紹介したい人が例外の人、運が良かった人の話です。それは次回、今日はここまでにします。

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再手術まで

2018-07-22 07:45:54 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 個室に1週間いました。重症患者が増え、個室から6人部屋に移りました。妻の症状に関しても、同室の患者さんに関しても、色々な事件がありました。当時、医療制度が急変していたよう。看護婦さんが大忙し、若い人が悩んでいました。2週間ほど後退院しました。

 退院し、ステロイド薬の投与が終わりました。肺炎を発症、緊急に1日入院。痙攣止めの薬の副作用も悪化。皮膚に湿疹が現われ、薬を色々試し、先生も苦労しました。妻はなお大変。左手はピクリともしないのに、時々夜中に痙攣発作が起こりました。救急車や私の車で緊急入院を数回しました。

 痙攣発作がある間も、頑張って、リハビリ病院と接骨院にそれぞれ週2、3回通いました。整骨院の先生は気を重視する人でした。ピクリとも動かなかった左手が動くようになったのは近くのこの接骨院のお蔭でした。

 リハビリ病院の作業療法士は優しい人でした。お蔭でリハビリが進みましたが、左手の機能が向上すると、また痙攣発作が起こりました。すると左手の運動機能は後退しました。リハビリの強さが難しく、作業療法士の治療以外は逆効果のようでした。1年近く、改善と後退の繰り返しでした。

 痙攣症状が落ち着いたのはおよそ1年後。痙攣を本人が予感できるようになり、しばらく安静、発症しなくなりました。リハビリ病院の診察の先生は優しい女医さんでした。機能改善に驚いた、大変に勉強になった、ありがとうございます、と言ってくれました。

 こうして3月の診察で、4月に再度入院し、逆側の腫瘍摘出手術をすることになりました。春は季節が良く、体調も良い、緊急手術も減る、腫瘍はまだ小さいが、目の後ろなので、早めの摘出が良いと診断しました。私達も同意しました。軽く考えていなかったのは妻だけでした。

 そして4月に再度入院し手術。勝手知ったる6人部屋に手術前日入院し、翌朝から、以前と同じチーム構成で手術が始まりました。また私は集中治療室の前の待合室で待ちました。実はアレルギーのお蔭で前回以上の大変な手術と後遺症になりました。

 摘出手術を先生も私も軽く考えていました。失明の恐れを心配していたのは本人だけ。開頭手術で出血が酷く、神経を誤って切り、左目の動きに障碍が残りました。当初は酷い斜視になり、世界が2重に見えたそうです。リハビリで改善しましたが、今もアレルギーで目に炎症が発生します。

 またリハビリ病院に1年通い、外見は健常者に見えます。先生も驚くほどの回復、看護婦さんを勇気づけられたと言ってくれます。でも、左手の指は意志通りに動きません。左目の斜視は分からなくなりました。眼球の動きが悪く、乱視は残り、視力が悪化しました。

 2回目の待合室で出会った人の話に戻ります。出会ったのは数家族でしたが、よく覚えている2家族のことを紹介したいと思います。でも今日はここまでにします。

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介護者が病を発症

2018-07-20 04:03:55 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 次の日、面会時刻前に待合室に行きました。昨日までとは違う年配女性が長椅子に座っていました。この病院は初めてで良く知りません、脳外の先生はどうですかと私に聞いてきました。若い先生とベテランが二人ずつ、良い病院です、と答えました。

 この病院の先生方を指導した教授を叔父が良く知っていました。腫瘍摘出手術はここがベスト、東大病院より良い、と言いました。このようなやり取りがあり、彼女と色々話を始めました。

 入院患者は市川あたりの弟さん。長年、お母さんと二人住まい。お母さんは高齢者で足腰が不自由。弟さんが親と同居して、面倒を見てきたそうです。

 面会者はお姉さん。中野で料理屋を経営していて、お母さんの面倒は弟に任せきりだったと言っていました。弟さんは50ですが、介護をしていて、結婚もできず、お母さんの面倒を見ていたそうです。

 昨日の朝、お母さんからお姉さんに電話があったよう。何時も仕事に出かける前に2階から降りてきて朝ごはんを作り、お母さんと一緒に食事をしていたそうですが、今朝は降りてこない、自分は二階に上がれない、様子を見て欲しいと言ったそう。

 そこでお姉さんが市川に行き、母親の家の2階に行ったそうです。脳出血で倒れている弟さんを発見し、救急車を呼んで、この病院に一緒に来たそうです。もう検査は済み、くも膜下出血で手術できない状態、諦めて欲しいと説明を受けたそうです。

 お母さんに何と言って説明して良いか分からない、病院に入院して治療していると電話したそうです。これから市川経由で中野に帰る、明日から市川経由で来て、市川経由で帰ることになるだろう、今晩か明晩までと覚悟してくれと先生に言われた、可哀想なことをした、と言っていました。偉い人だと私は思いました。

 翌日、彼女はまた一人で来ていました。明朝、弟を連れて帰ると言っていました。弟さんは私が非常勤で勤めていた工業高校の建築科出身でした。仕事仲間の同窓生が市川や小岩にまだいるそうで、お葬式は市川でするそうでした。私も他人とは思えませんでした。

 金曜日だったと思いますが、週明け、集中治療室のベッドが一杯になる、病棟の個室に移つります、そちらに面会に来てください、と先生に言われました。

 一回目の待合室で会った人の話はここまでです。今日はここまでにします。

 

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集中治療のかいもなく

2018-07-18 08:02:10 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 初対面の人に馴れ馴れしく話しかけるのは気が引けます。お互いに言葉もなく、私はひたすら新聞切り抜き。彼女はタオルを身体にかけほとんど横になっていました。間もなく家族数人が来ました。面会者は2人までが規則。少し多くても注意はありませんでした。

 翌日、私は待合室に行きました。彼女はまだ一人でいました。一晩ここで過ごしたようです。一昨日から二晩この部屋で過ごしたよう。大変ですね、ここで二晩でしたか、と私は彼女に言いました。

 彼女は静岡から来ていました。単身赴任した旦那様が急病になり、脳内出血を発症したよう。手術しても直らない、2、3日が山だと先生に言われたそうです。でも、奥様は手術だけはして欲しい、とお願いし、この病院の脳外科のチームに手術してもらえました。

 当時、ここの脳外科は最高のチーム、4人の先生。当時の脳外部長が助言、今の病院長と今の脳外部長が主な執刀医。後期研修医が補助者。妻の担当医は今の脳外と小児脳外の部長さん。手術の日、今の病院長がベッドからストレッチャーに妻を移してくれました。

 翌日も彼女は長椅子で横になっていました。関係の親族の人を呼んでくれと先生に言われた。面会に親族が来る予定。やはり回復はできなかった、今晩が旅立ちの日と言うこと。面会時刻前に、女性の年寄と若い人2人が来ました。

 翌日、ご婦人はいませんでした。集中治療室から家族一緒に帰られたようです。また静かな待合室なりました。本を読んでいたら、待合室前の廊下が騒がしくなりました。ストレッチャーで来たのはお子さん。お母さんが泣きながら、子供の名前を叫んでいました。

 この部屋で先生がお母さんと面談したのかも。何故か、私は話の内容をとてもよく覚えています。午後、学校で脳震盪を起こし、救急車で近くの病院に行き、診察を受け、元気に帰宅できたそうです。しばらくして頭が痛くなり、再度その病院に行ったそうです。

 病院に着いたのは3時ごろかも。まだ意識があったそうです。病院で待っている間に意識がなくなり、救急車で搬送され、この脳外科に来ました。MRI検査をすぐして、診察。でも、もう手遅れの状況でした。助かる確率はゼロと診断されました。

 お母さんは泣きながら、手術をして欲しい、すぐにこの病院に来ていたら助かったのに、と叫んでいました。お母さんの言うことを聞いて先生はすぐ手術をしたよう。ベストを尽くしたが、だめだったとの先生の言葉を、不思議ですが覚えています。

 ここからは、当日と退院後の妻の言葉です。看護婦さんも先生も全く来ない、集中治療室は夜中まで明るく騒がしい、何で何日もお見舞いに来なかったのか、と。どうやら妻も意識が混濁していて、一晩なのに、何日たったか分からなかったようです。

 先生方が夜中中、このお子さんの手術で走り回っていたようです。翌日の面会時にご家族がきました。お母さんが泣きながら、何とか君、御免ね、御免ね、私が悪かった、此処にまっすぐきていたらと叫んでいました。見るのも聞くのも、辛かった2日でした。

 今日はここまでにします。

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新聞と本を読む

2018-07-16 09:35:23 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 一回目の手術で、集中治療控室でお会いしたご家族の方は3組だったかも。もう10年前のことですので、二回目の手術の時にお会いした人と混同しているのかもしれません。間違っていたら謝ります。でも何れかで出会った人がいたのは確かです。

 最初の日は待合室で終日、新聞切り抜きをしながら一人静かに過ごしました。1日でおよそ一か月分の工業新聞を読み、切り抜きました。重くて1か月分しか持ち運べません。人がいない待合室。横になり、新聞を机に広げて自由に切り抜けました。

 工業関係の専門紙の記事を読んでいると気持ちが紛れました。11時頃に手術が終わり、集中治療室の妻を見て、机で先生が手術経過を説明してくれました。大きな摘出腫瘍とサッカーボール大に腫れた妻の顔にびっくり。帰ったのは夜中でした。

 遅い夜食を食べ、床に入りましたが、寝付けません。6時に起きて、朝ごはんの用意をしていました。すると、執刀医から電話があり、すぐ来てくれと言われました。ご飯を食べず、病院へ駆けつけました。先生は再手術すると言いました。

 朝食と昼ご飯を兼ね、コンビニのおにぎりとサンドイッチを食べ、午後まで待合室にいました。そして1時ごろにまた経過説明があり、言語障害の後遺症は覚悟してくれと言われました。命があればどうにかなる、やれやれと私は思いました。

 翌日、また面会に待合室に行きました。一人の年配のご婦人がタオルをかけ長椅子で寝ていました。私は会釈し、離れた長椅子に座り、また新聞切り抜きを始めました。1年分溜まった工業新聞を、妻の入院中に半減させたいと考えていました。

 切り抜きに疲れたら、書棚から本を取り出し、私も長椅子に寝て読みました。1日1冊は読み、書棚の本は100冊近く全部見ました。多くは小児癌や難病と闘った子供のことを書いた親の本。子供と親と担当医が力を合わせ病魔と闘った、涙が出てくる話がほとんどでした。

 小児癌患者に比べたら、私たちの年代は気が楽なのでしょう。このご婦人も淡々としているように見えました。でも心は分かりません。私もそのように見えていたでしょう。

 長くなりました。今日はここまでにします。

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面会者待合室が勉強

2018-07-14 09:19:07 | コーチング・マネジメント

 おはようございます。

 皆さんは病院の待合室をよく知っていると思っているでしょう。普通、総合案内所の近くに、たくさんの長椅子があり、診察希望者が順番を待っています。東大だと1000人ほどが受付や会計のあたりにいます。終日です。長椅子がたくさんありますが、座り切れないほどの混雑した状況にもなることがあります。そうなると受診は1日仕事です。

 松戸の市立病院では、診療開始時刻あたりが待っている人が多く、200人以上いるかもしれません。診療が進み、少しずつ待っている人が減ってきました。それでも眼科や整形外科や内科は患者さんが多く、新患だと午前か午後は診察のために何もできなくなりました。

 市立病院で妻が手術しました。関係者が待つ、待合室が、手術室と集中治療室のすぐそばでした。この手術室は脳外科の患者さん専用か、ただ多かったのかは分かりませんが、待合室で他の患者さんの家族の方と親しくなりました。

 なお、新しい総合病院の脳外科には手術室と集中治療室がいくつか増えたかもしれません。子供や赤ちゃんの診療体制が強化され、幼児の脳外科が成人用とは別にできたように聞いています。妻の担当医が優秀な人、幼児用の脳外科の責任者も兼務しているようですが。

 新しい成人用の手術待合室は知りませんが、以前の待合室には合計で3週間ほど通いました。その話を思い出し書きます。まず部屋の構成です。8畳間が二つ繋がった程度の部屋に長椅子が5、6本。天板の広い長テーブルが2つほど。洗面設備と小さな書棚がありました。

 手術当日、病室でストレッチャーに乗った妻を送り出し、地下のコンビニで昼食の弁当とペットボトルを購入し、手術待合室に行きました。当日、ここの手術は他になかったよう、私は一人静かに、新聞を切り抜きしながら、夜食をコンビニで買ってきて夜中まで待ちました。

 妻の手術は週の早い曜日だったと覚えています。夜中の10時過ぎに、上手く行ったと先生が説明してくれました。でも、すぐにアレルギーが発症し、色々な事がありました。でも、この経過は昔に書いた覚えがあります。今回は待合室で経験した話を中心にします。

 1回目の手術の時、集中治療室に1週間近く通いました。その間、面会時間は限られた、15分ほど。面会時間に合わせ、他の患者さんの家族も毎日のように来ていました。最初は見ず知らずの人ですから、会釈だけ。でも3日もすると顔見知りの人になり、お互いに色々な身の上話を含め、話すことになりました。

 この部屋で印象的だったご家族との出会いを次から書いてみたいと思います。長くなりました。今日はここまでにします。

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旅立ちロボットを創ろう

2018-07-12 12:10:29 | コーチング・マネジメント

 こんにちは。

 ワールドカップも大詰め、準決勝2試合を見て、フランス嫌い、クロアチアのフアンになりました。モドリッチ選手など、素晴らしい忍耐力とチームワーク。逆襲も速い。汚くありません。私はサッカーは素人。時間稼ぎなどインチキが大嫌い。

 大雨の災害関連のニュースも、被害状況や対応法などがニュース解説番組で放送されています。同じような話を、番組やチャネルで違う司会やコメンテータや専門家が入れ代わり立ち代わり、解説します。庶民にアドバイスしているつもりでしょう。

 結果論なら、何とでも言えます。洪水の理由を延々と解説するより、そうならないために、半年前から警鐘を鳴らすべきがメディア。司会者や専門家が偉そうに語っても、高齢者のヨイヨイは災害が起きたら座して死ぬ。ニュース番組が腹立たしい。

 大雨ニュースにイライラなのに、看護婦が表面活性剤を点滴に入れ、入院患者殺人容疑のニュースにまたイライラ。死因を調べたケースはたった4件。3か月で亡くなった老人は50人弱。2日で1人以上です。解剖せず、火葬。死因は分からない。

 大病院かと思ったら、私が入院した市立病院のワンフロア程度のベッド数のよう。2日で1人以上の遺体を搬出したはず、びっくり。人はなかなか死にません。そんなに死んでいるなら、早く異常に気が付くのが尋常です。心のない病院です。

 私の妻は10年ほど前、2回、脳腫瘍摘出手術を受けました。それぞれ1か月ほど入院。集中治療室に数日。回復基調になるまで個室、それぞれ1週間と2週間程度。個室は4部屋だったのでは。婦長さんも若い看護婦さんも素晴らしいお方でした。

 2部屋は重篤な、いわゆるスパゲッティ状態の患者さんでした。1週間ほどで一人の患者さんが旅立っていたようです。お見舞いの人の出入りで分かりました。すなわち、50以上の入院ベッドの脳外科の病棟で、1週間に一人程度の旅立ちでした。

 私が1年半前、脳幹の陰で神経内科に入院したのは3週間。同じようなベッド数でした。私は最初から重篤な患者でしたので、個室に入れました。両隣も重篤な患者さんの個室のようでした。3週間で亡くなったのはお二人だと思います。

 隣の個室の患者さんが亡くなりそうなのが分かりました。旅立ち数日前にお見舞いの人が増え、患者さんに声をかけます。いよいよとなり、身内の数人が一緒にお見舞いに来ます。一晩中明かりが煌々とついて、明け方の3時ごろから看護婦さんの出入りが激しくなります。

 明け方、看護婦さんお二人が水産業者のような防水衣装を身に着け、待機。お亡くなりになったら、お風呂に入れてお化粧でしょう。そして明るくなり、親族の悲しい行列でした。

 人は簡単に死にません。3晩その状況が続いた患者さんもいました。担当の婦長さんがお二人。交代で1日おきに2回、完徹に近い勤務だったよう。その状態で行水などの力仕事です。看護婦さんは大変な仕事です。皆さんに頭が下がります。

 遺族への説明が大変だからやったと、今回の容疑者は言っているようです。でも口の大変さではないと思います。体力と精神力が足りなければ無理です。彼女にその根性はないと、顔から分かります。面接官なら分かるはず。何か腑に落ちません。

 とにかく人手が足りないのです。早くロボット化を進め、看護婦さんの労力を減らして欲しいものです。大学の先生にやる気があれば簡単にできるはずです。先生は偉そうなことを言わないで、早く取り組んで欲しいものです。

  今日はここまでにします。

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