創造性の開発 新規商品を企画しよう

新規商品企画の成功学
求むる所第一義
随時随所楽しまざるなし

学校の課題の解決策

2011-09-29 09:20:14 | Weblog
おはようございます。

 私が今非常勤で勤務している学校に関する現状の問題点を網羅的に、その学校に勤務しているひとりの先生が私に教えてくれたことがありました。その先生は問題を以下の6項目に分類し、それぞれ10ほどの問題点を考えていました。即ち、全部で60ほどの現状の問題点があげられていました。その資料から、分類名だけ列記します。

1.経営サイドの課題
2.教師の課題
3.生徒と保護者の課題
4.施設の課題
5.部活の課題
6.行事の課題

 この方は非常に几帳面な先生です。情報システムについてもかなりの知見をお持ちです。ですから、大事な問題を網羅的に列挙してありました。しかし、私はこの問題点の箇条書きを見たとき、このまま解決策を考えることは難しいと即座に感じました。この問題を解決するなら、トップダウンに、それこそERPシステムでも計画しない限り、複雑で絡み合う課題を解決することはできないと思えました。会社でも直接的や間接的に数回、このような複雑なシステムの開発に関わったことがありました。関係者の努力に関わらず、確率的に失敗する可能性が高いと学んでいたからです。

 ですから私は、「難しいから、貴方がしたいことだけ、したほうが良い」とアドバイスしました。当時は全く裏づけなく、感じたままに言っただけでした。その後、現在の学校に6年以上勤務し、その先生が提示した課題の難しさが、仕事の内容を知り、良く分かってきました。即ち直感的に私の判断は正しかったし、このようなアプローチは数十億かけても不可能です。もしやるなら、あるベンダーが数十億かけて開発したアプリケーションパッケージを1本購入し、システム構築するしかありません。それでも3年ほど、10人ほどのプロジェクトになります。適用システムの開発で3億円は覚悟し、開発後も年間、3千万円の維持費がかかるはずです。ある学校が主体的にやるべきテーマとは私は思えません。

 ここ1年ほど、ある先生が書いているブログを毎日楽しみに読んでいました。最近、突然、良い手がありそうに感じました。その先生は長年現場で教鞭をとり、生徒や若い先生を叱咤激励してきた方のようです。私が思いついたのはボトムアップのシステム開発です。例示によるシステムの自然発生的な整備と言えそうです。今、私はこの先生の要望を安価に実現する方策を考えています。ですから、周りから見たら、私は暇そうに見えているかもしれませんが、頭の中はF社の新人時代と同じようにフル回転しています。

今日はここまでにします。
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恐ろしいほどの一致に気づく

2011-09-21 07:14:39 | Weblog
おはようございます。

 今、私のブログをアクセスしました。そして昨日の記事を眺めていました。何と、何と。当たり前のことが表題に書かれてありました。私の師匠の中村洋四郎様が何時も言っていた言葉が表題でした。昨日は全く気がつきませんでした。

「専門家に一番大切なのは人への優しさ」の中村様の言葉を何も考えず、心のおもむくままに昨日の記事を書きました。この文言は、何度も私のブログに書いたこと。私の信念でもあります。念のために、中村様の教えは、「専門家として必要な能力は、人に対して持っている温かさが1位。2位は直観力、3番目は推理力、4番目が専門知識」。創造性とは直観力と推理力の合成だと私は考えています。そのように今まで若い人を会社でも大学でも高校でも教えてきました。創造性の基礎となるのが専門知識です。このように商品開発でもコンピュータシステム開発でも事業開発でも信じてきました。これで十分でした。

 今朝、自分の記事を読み、やっと気がつきました。ひょっとして、昔の中小企業や中堅企業の要求条件がそのまま今の学校システムに適用できるのではないか。前提のトップの要求条件が人への優しさなら、同じはずだろう。創造性も同じ。知識も4番目でOK。そうか、昔の問題分析をそのまま今の学校システムに適用できると仮定して良いかもしれない。本当にたった今このように思えてきました。

 私はしばらく昔の分析資料を探して見ます。そして学校の問題に射影したいと思っています。何時終わるか、果たして出来るかは全く分かりません。今度の掲載休みは私の怠慢や集中力の喪失ではなく、集中力と思考実験のために時間がかかっていると大目に見てください。再会できるのを私は楽しみにしています。

1ヶ月になるか、1週間かは分かりません。しばらくここまでになります。
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他人への優しさが一番大事

2011-09-20 09:31:18 | Weblog
おはようございます。

 職員室の机の位置は工業科のまま、私はスポーツコースの生徒さんに小論文を教えることになりました。スポーツコースの責任者は強持てのプロレスラーのような先生でした。猪木と渡哲也と貴乃花を足して3で割ったような人、が第一印象でした。怖すぎです。今までは、工場の管理者の席に座っていたような私でしたのに、スポーツコースは怖そうなおっさんの世界でした。教頭先生は当時はまだ一般の先生、男子バドミントンの顧問でした。大きな渡哲也が責任者。その後ろの席にもっと怖そうなおじさんが座っていました。文句を言ったらレスリングや空手で一発か。ひたすら低姿勢で行こうと心配でした。

 ノートと筆記用具を下さいと責任者にお願いし、小論を書かせたいので原稿用紙を100枚ほどもと付け加えました。女子大では事務用品棚に各種の原稿用紙やレポート用紙が取り揃えてありました。非常勤講師だった私も自由に持ち出し、講義に使いました。今回は、原稿用紙はない、と言われました。そして彼は、作ります、と言いました。次の授業のある日に学校に行ったら、私の机の上に500枚ほどのわら半紙に印刷された原稿用紙がありました。こんなに使うことは無いだろう。でも学校に居る限り使うから良い、と考えて机の引き出しに仕舞いました。そして6年間使えました。

 案ずるより産むが易し。スポーツコースの責任者は優しい部下思いの人でした。外見は全く違う人なのがおもしろかった。その上の責任者はもっと太っ腹で強そうなおじさん。話してみたら、優しそうな人。その日の帰りがけ、責任者とその上の上司の得意競技を理事長に質問しました。バスケットとレスリングだと答えてくれました。そうなのか。格闘技の自信が教育者としての余裕を生んでいるのか、素晴らしい、と感服しました。そして4月半ばよりスポーツコースの教室で週2回、小論文の書き方を教え始めました。

 教室に初めて行ったときの話です。まず責任者が私を紹介してくれました。「よく真面目に勉強しろ」とおよそ40名ほどの生徒に私を紹介してくれました。皆さん、とてもいい子にしていました。これなら大丈夫だろうと私は思いました。そして彼は退室。私は黒板を使い小論文の書き方を説明し始めました。眠たそうな人も居ましたがそのような生徒さんはまだマシ。私語が多く、聞いているのはごく一部。そこで私は「聞きたくない人は図書室に行って勉強してきて良い。部屋にいる限り、勉強したい生徒さんの邪魔をしないで下さい。私語は絶対に止めてください。貴方たちは他人の邪魔をする権利はない」と言いました。すると背の高い一団が、分かりました、と言って、図書室でなく、校庭でサッカーをしても良いですか、と言いました。

 面白いことを言う人だ、と私は思いました。誰にも迷惑をかけなければ、他の教室に邪魔にならないようにするなら結構です、と言いました。どうなるか見ものだと思いました。彼らは喜び勇んで教室から出てゆきました。残って大人しく聞いているのは野球部。ひねくれているのはサッカー部とバレー部。眠っているのはバドミントン部。女性に持てそうなのはレスリング部。などなど勝手に人物評価をしていました。もちろん、このときの生徒さんの印象です。年毎で印象は全く違っています。今はスポーツコースのほとんどの生徒さんはとても真面目に勉強しています。

 しばらく校庭や廊下で遊んでいた悪がきたちはすごすごと団体で教室に戻ってきました。後ろからスポーツコースの責任者が入ってきました。「お前ら許さない。シバイテやる」と言いました。途端に悪がきは借りてきた猫状態。素晴らしい!!!私は全くできないことを一言で済ましました。感服しました。こうして私の学校における非常勤講師生活が始まりました。

 結局、この先生が居たから、私は教え始められ、7年間この学校に勤められたわけです。それ以来、一緒に仕事をしたことがありませんが、いつかしたいと思っています。人間関係や絆は大切にしなければいけないが私の信条です。

今日はここまでにします。
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自信過剰が産んだ嘘つきの汚名

2011-09-19 08:04:44 | Weblog
おはようございます。

 私が今勤めている学校の理事長は素晴らしい人です。彼とのやりとりを書くのは後日にします。今一番お付き合いしている教頭先生との関係をまとめています。既に書いたように、彼はオリンピック出場のバドミントン選手を育成したユニークな面白い人。でも私の第一印象は自信がない人。今も私から学びたいことがひしひしと伝わってきています。でも、私からあまり学べていないはず。私の得意は実践であり、ノウハウだからです。言葉や、見るだけで学べることはあまりありません。真似しかないからです。まだ先生に時間が足りません。

 また話を戻します。お付き合いするうちに、彼は自信がないときとあるときの波があることが分かりました。言葉の強さより、態度と顔と言葉と論旨に関係があることが次第に分かってきました。即ち、私と出会った時、自信を喪失した事件か状況があったのかも。自信喪失も大切な時期です。自己満足だけでは成長不可能ですし、新しい考え方もできません。状況に満足したら進歩は不可能かも。一歩譲っても、成長はほとんどありえません。ゼロから白紙で臨むのは新しい取り組みへの心構えです。

 自信がないときほど、断定的に言う人だと私は思いました。非常に個性的です。私が若いときに仕事をしたことがある、ビルゲイツ氏やジョブス氏や孫さんと似たところがある個性を感じました。自意識過剰、偏執狂。此処までは学校の先生に多く見かける個性ですが、もうひとつ大事な個性は人への優しさです。自意識過剰と人への優しさは矛盾するのか、併せ持つ人は稀です。新規事業に大成功する特質でしょう。教頭先生は3つの個性を併せ持つ稀な人だと思いました。ビルのように大成功するか、しばらく言うままに動きたいと思いました。

 彼は「オリンピックに2人の教え子を絶対に行かせる。世界選手権で優勝する」と言いました。「日本チャンピオンはステップに過ぎない。マレーシアにバドミントンの国際的な指導センターを作り、教え子たちをそこでトレーニングさせる。学校を中高一貫教育の進学校にして、バドミントンを専門的に教える学校にする。私が学校で一番力がある。」と言ったかと思ったら、「全員を日東駒専レベル以上に入れたい」とも言いました。何から何まで理想的。右も左も。これが本当のステレオタイプなのかもとも思いました。

 私は商品企画なら人に負けない自信があります。たくさんの社長さんと仲良くなりました。成長している中小企業や中堅企業の社長さんの言葉はほとんど願望です。可能、現実を表しません。優秀な営業員の言葉も同じです。半値八掛けの幸之助精神ならまだましでしょう。1割程度の言葉と思っています。教頭先生の自分の教え子を大切にする心は十分に分かりました。1割と考えても、その思いは平均値を超えていると思えました。

 バドミントンの指導者としての先生の願望は、世の中の評価と一致しています。しかし、最初に先生の願いを聞いてしまった私からみると、やはりバドミントンについても半値八掛けしか達成できていません。人はそれで良いのでは。だから成長するのではないでしょうか。

 4月になって、理事長から急にスポーツコースで教えて、と言われました。今ならその裏は手に取るように分かります。当時は、一寸先は闇、でした。学校は分からない世界だ。理事長は狸かな。私の見込み違いか。特進科かと思ったら、年配者が多い工業科。工業科の先生は真面目な人が多く、学校を愛している人がほとんどなのに、外部から非常勤講師を更に2名紹介して欲しいと言われました。若い先生は自意識過剰、自信過剰な人が多いのも不思議。特に工業科出身の若い先生に多いのが不思議でした。逆に言えば、年配者の工業科の先生は能力や指導力を十分に発揮させてもらっていなかったように思えました。

 なお、私はと言えば、当時、多忙が大好きでした。経済産業省関係の仕事で大学の先生の研究会に自主的に参加していました。肩書きは工業科アドバイザーでした。3社の仕事も肩書きは学校の工業科アドバイザー。いつの間にか私は外の世界で、全くの嘘つきになっていました。不思議でした。残念でした。

今日はここまでにします。
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坊主の頭と嘘をゆう

2011-09-18 16:07:00 | Weblog
こんにちは。

 今回のシリーズは、6年ほど前の記憶に基づいています。ひとつひとつの事象の前後関係は間違いがあるかもしれません。変だと思われた方はコメントを頂ければ幸甚です。過去のブログを調べ、前後関係をチェックさせていただきます。間違いは修正しますので、宜しくお願いいたします。

 私は小さいときから、「嘘は絶対にいけない」「約束を守らないのは嘘と同じ」「嘘つきは泥棒の始まり」と周囲から教えられてきました。人を傷つけないために、心ならずも本当のことを言わず、とぼけることもありますが、人を騙し、自分の得になるようなことは言えません。しかし、仕事では結果的に嘘も言いました。開発出来る、売れる、と言った新商品が造れない、売れないことはたびたび。「あいつは嘘つきだ」と陰で言われました。商品企画は派手な仕事ですが、厳しい仕事です。営業も大変です。誰かの不注意でシステムに齟齬が出て、納入できず、売れなくなり、嘘つきの汚名を与えられる営業マンは居るはずです。仕事では心ならずも嘘を言ってしまうこともあります。だからこそ私は意図的に嘘を絶対に言わないように心がけてきました。

 学校に勤め、半年たち、契約更新の時期、3月になりました。私は次年度契約を他の3社と済ましていたため、学校と自由に契約出来ませんでした。学校も前年の契約を尊重し、契約更新したいと考えていました。3社全部が契約をそのまま継続していたわけです。学校は、前年度一度も相談の無かった特進科は私の顔も忘れたよう。構内で、特進科の責任者が私とすれ違っても、会釈も無し。ここは契約は無いだろう。しかし、会社なら大変。社内に来た人には誰にでも、こちらから笑顔で挨拶しなければいけません。新人がしなければ、社長から部長が大目玉を食らいます。お客様や外部の人を神様と思わなければ怒られてしまいます。

 私は3月20日まで我慢していたのですが、流石に他の3社の仕事を増やした方が良さそうに思えてきました。理事長に「契約を継続する意思が無ければ、次年度は止めて結構です」と言いました。すると理事長は「何時もこうなのだ。次年度になっても契約できないこともある。しかし、実際に来ていただいた工数については報酬をお支払いします。次年度もこのままお願いします」と言いました。「1ヶ月前に契約できないと、下請け虐めで訴えられますよ」「私だけでなく、他の業者にもお止めになった方が良いでしょう。契約予定者は契約を他とすることができないからです」と言いました。しかし、怖いもの見たさもあり、後学のため、行くところまで行ってみよう、と思っていました。

 3月28日を過ぎてから契約更新について具体的に相談しました。理事長は面白い人です。急に話が変わり、「来年度はスポーツコースで小論文を教えて欲しい」と言われました。志望動機書と自己推薦書の書き方でした。野球小僧も楽しそうだし、バドミントンの先生はいろいろ便宜を図ってくれそうだし、スポーツコース相手の仕事は楽しそう。続けるのは歓迎。しかし、他の3社からの要望には、次年度は増やすことも可能かも知れないと言っていたため、心ならずも3社に嘘を言っていたことになりました。3月末になり、私は3社に増やすことは出来ないと謝りました。また嘘つきになってしまいました。

 私は小さいときから困難な物事への挑戦が大好きでした。これをやりたい。あれをやりたいという子供でした。目標を達成できるかは、ほとんど自分次第でした。しかし、次第に「やりたい、やる」といったことの成否が、他人の意向に依存するようになってきました。でも会社時代は若い人がフォローして助けてくれました。定年後、新しい職場の学校へ単身で勤め、新人となり、約束はほとんど自分では達成できないことをはじめて知りました。「嘘と坊主の頭はゆわない」が私の誇りでした。学校の仕事は面白いですが、嘘ばかり言う人間に自分がなったようなのが悲しい。何故か分かりませんが。たびたび、嘘を言う人間のようです。会社の仕事と比べて、難易度は低いように思えますが、学校の仕事もメンタル面が大変です。

今日はここまでにします。
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学校組織と管理に戸惑う

2011-09-17 08:26:20 | Weblog
おはようございます。

 工業科の仕事は週30分、特進科の仕事はゼロ、と言うことは「1週間に2時間以上静かに席に座っていろ」ということ。私は会社で窓際族のプロ、15年以上経験してきました。会社員は仕事せず座っていることは苦痛です。だから私は大学や高専の非常勤講師を兼職し、教科書を書いてきました。

 上司が所属員に仕事をさせないと、会社や組合から文句を言われ、左遷されかねません。逆に、仕事をさせすぎると指導され、訴えられます。少ないと思った量でも、本人のやる気が無ければ捗らず、させすぎになります。逆に、やる気があると、多いと思っていても短時間に終わり、無駄を始めてしまいます。ですから、担当者に与える仕事の量と質が非常に大切です。じっとしていられないのが人間です。無駄から画期的なアイデアが生まれると言われ、それも大事な考え方です。しかしそれは十分条件ではありません。無駄はほとんど雪だるま状態になり、無駄が無駄を呼び、最後、やる気が破綻するのが普通です。そのため、会社は管理ガイドラインがはっきりしています。下手をすると管理職が指導されます。

 「仕事が無いから大変」と理事長に苦情を言ったら、「私のコンサルタントになって欲しい。特別なテーマについて答申をして欲しい」と言われました。これが本年度の狙いだったのか。なるほど、頭の良い人は違う、とまた尊敬の念が強まりました。暇が嫌い、多忙すぎるのも嫌い、好きな仕事を思いっきりしたい、などと贅沢を言う私ですので、渡りに船。「何なりと申し付けてください」と言いました。すると理事長の提案は大物のテーマ、野球部強化策でした。理事長は「昔は強かった。在職中に一度でいいから甲子園に行きたい。野球場に一緒に行こう」と言われました。「勉強させたら緊張感が出て上手くなる」、「集中力を持ち、己の足りないところを鍛え、長所を伸ばす」、「生活指導をきちっとして、自由と個性も尊重する」などなどを議論。お互いの教育に対する考え方が極めて近いことが良く分かりました。

 「部長さんが大事、どなたでしょう」と尋ねたら、特進科の偉そうな先生でした。野球とは縁無く、赤いシャツを着て、教壇に立った方がピッタリの人なのに。そうか。そういうことなのか。理事長は野球が好きだから、自分の意見が通りやすい懇意の先生に押し付けたのか、と私は勝手に納得。そして「会社は兼務を嫌います。マトリクス組織は上手く行きません。変革が必要なときに一時的に採用すべき組織形態かも。出来るだけ早く明確な木構造にすべきかも。野球部を強くして、特進科に成果を出してもらうには一方を担当者に選ばせなければいけません」と言いました。しかし、理事長は「分かっている。何度もそうしようとした。でも両方共に手放さない」と言いました。「そんなものか。会社と学校は全く違うな」と思いました。怖いもの見たさの私ですので、「分かりました。できるだけアドバイスします」と言いました。

 それから数回、ご一緒し、野球部の練習風景や試合を見学しました。コーチや監督の素晴らしさは素人の私も良く分かりました。練習場や合宿所の良さも想像以上。これで長い間甲子園にいけないのか不思議。私は一生懸命にコーチ法など、知っている知識を捻り出し説明しました。何回も。理事長の言葉は「貴方は野球が本当に好きですね。OB会が部外者は認められないと言っていた。私は残念です」。この言葉は非常に不思議でした。理事会の指導よりOB会の意見の方が優先する、そういうところもあるだろう。しかし、不味いシステムを人のせいにするのは変。理事長は人徳者だから、何かあるのだろう。何でも良い。私と関係ない、ケセラセラ、と思いました。

 私は昔の2社の同僚や部下たちと会うと、「甲子園に行くのが夢。それで学校へ再就職した」と冗談を言っていました。昔、夏の甲子園の応援に行き、疲労困憊したことがありました。私が下手糞だから外された、と落ちを言えなくなり、行かないのはありがたいが、嘘を言っていたことになりました。それから昔の部下と会うのは少々気恥ずかしいのが困ります。

今日はここまでにします。
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まずスポーツと関係ない分野

2011-09-16 12:13:42 | Weblog
おはようございます。

 理事長に面談した後日談です。理事長から、「特進科を始めた」「今後の方向性など直接責任者にアドバイスして欲しい」「毎週一回責任者と面談してくれ」とお願いされました。面談の曜日と時間帯を決めるように最初にいわれました。そして「工業科の方向性に迷っている。責任者と週一回面談し、新しい方向性もアドバイスして欲しい」と言われました。

 この会議には紹介者のバドミントンの先生も学校の責任者、校長先生も同席していませんでした。私の仕事はスポーツコースの先生とは無関係のようでした。このような経験はそれまでありませんでした。紹介者は全責任を負うため、最高意思決定者から明確に権限委譲されます。または意思決定機関において新しい担当者が決定され、引継ぎされるかです。その打ち合わせには業者も参加するのが普通かも。

 私は、バドミントンの面白い先生は多忙だから仕方がない、余程多忙なのだろう、と思いました。しかし、若干違和感があり、大学でしていた「非常勤講師契約は出来ない」と理事長にお願いし、契約の最低条件として「業務委託契約にして欲しい」と言いました。お互いに責任の所在が明確になり、嫌になったら辞めるのが楽だからです。もうひとつ、「理事長とバドミントンの紹介した先生の何れかが学校を去ったら私も辞める」「辞表を提出するので2週間程度で事務処理をお願いします」「業務引継ぎで」とお願いしました。理事長は太っ腹。直ぐに了承されました。

 翌週、特進科の責任者が理事長室に来て、理事長を交え面談しました。特進科の責任者の第一印象はまさに優秀な英語の先生、身体中から漂わせていました。理事長より大人物然と椅子に座っていました。何故か理事長と彼はブロークンにしゃべっていました。二人は余程懇意なのでしょう。部下と担当者が懇意なのは良いチームの条件です。理事長はこの方に「来週から週一度面談するように」と指示し、私たちは合意しました。

 次の出勤日、今度は工業科の先生と理事長室で面談しました。理事長より年上に見える方でした。理事長は丁寧語で先生に話しかけていました。面談後に理事長に確認したところ、責任者の方が年下とのこと。少し不思議でした。彼は話をメモに取り、丁寧な言葉で私との面談の計画を話してくれました。ロッカールームも先生が案内し、職員室にも案内し、パソコンの設定など、担当の先生にしていただいたようです。直ぐに担当の先生が来て、私の机に用意してくれたから。周囲は工業科の先生たちでした。私以上にパソコンを使いこなしていました。しっかりした学校だと安心しました。私は昔も今もパソコンが苦手です。システム開発管理しか経験が無かったからです。

 翌週から毎週2回、それぞれ特進科と工業科のために約半年伺いました。工業科の先生は何時も汗を拭き拭き、「多忙、多忙」と言いながら私の席まで来ていました。確かに、先生の机は資料の山でした。彼とは毎週のように、工業や教育や管理などについて色々話し合いました。彼は何時も真面目にノートを取り、「若い先生に伝えて、是非、4月からカリキュラム等に反映したい」と眩しそうに訥々と話してくれました。システム開発論かな、学生のとき研究していた人間工学か、シミュレーションか、大学非常勤講師のときの市場情報論に近い話をするのか、などなどいろいろ新年度の仕事を考えていました。

 一方、特進科の先生は余程多忙なのか、何時も険しい顔をしていて、一度も声もかけてくれませんでした。良いも悪いもありますが、私はズボラな性質のため、「仕事が減ってありがたい」と思っていました。私の席の近く、特進科の女性の先生は真面目な方でした。超多忙のように見えました。毎日のように生徒を呼んで叱っていました。素晴らしい先生が素晴らしい叱り方をしている、私にはできない、と感心していました。彼女のような先生が学校の今の特進科を作ったのでしょう。

今日はここまでにします。
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学校の校是は貫行

2011-09-14 07:14:15 | Weblog
 おはようございます。理事長の第一印象はまた後日として、今私が非常勤で勤めている学校の校是は、本日のタイトル名のように貫行です。私の友人である教頭先生が好きな言葉です。

 7年ほど前、理事長に面談した時、学校のパンフレットを初めて頂きました。そこに書かれていた建学の精神の言葉を良く意識しました。江戸時代の言葉、が第一印象でした。惣領が土地を相続する幕府の考え方。幕府の統治の都合から良く使われた言葉ではなかったのか。私は歴史が好きでしたので、重箱の隅を突いて勉強したことがありました。バイトで勤めるのでも、謂れを正しく知ろうと思いました。辞書やネットで調べると、色々な意味があると分かりました。マージャンなら一気通貫、吉葉山の40貫などだけでなく、流石に広辞苑です。分かり易く、いろいろありました。なお、広辞苑はワープロ辞書と機械翻訳システム開発でお世話になっていました。今でも調べるならこの辞書。素晴らしい本です。

 貫くなら、私なら串を先に思い出しました。串なら焼き鳥。そしてそれより、甘党の私はみたらし団子。団子をネットで色々調べました。ネットで坊ちゃん団子を購入し試食しました。坊ちゃん団子は団子3つの串団子。3つとは不思議です。発想の常套手段だからです。真ん中から少し横に考え、発想するのが私の得意。でもこれは普通の手。団子だけでなく、坊ちゃんも奇遇。私の父は坊ちゃんだ、とおじたちは酒を飲むたびに言っていたからです。高校の同僚だった父の親友の先生は後に理科大の理事長になった人ですが、家で酒を飲むと必ず、「俺は山嵐、君の父は坊ちゃん。学校には赤シャツも、野太鼓も居る、末成りもいる」と言っていたからです。ちなみに、本の中で坊ちゃんが食べたのはただの白団子かも。有名な名物団子は3色団子です。

 坊ちゃんを読んで江戸っ子の良さを知り。私は夏目漱石が好きになりました。高校2年の夏休み、坊ちゃんからはじまり、我輩は猫であるなどを色々読みました。国語の勉強が嫌いだったからです。受験勉強に飽きると、漱石全集を端から読みました。漱石の本は短編ほどグッド。我輩は猫であるは退屈。「心」は良く分からない。これが結論でした。「先生」の気持ちを書きなさいという試験問題など、「分からない」と書きたいし、一言でまとめろと言われたら、「奥さんが可哀想」としたい。しかし、これでは大学入試は不合格。世の中に、建前と本音があることは小学校のときから学んでいたので、入試用の回答は建前でできるつもりでした。

 律儀な父が坊ちゃんなら、粗暴の私も坊ちゃん。何故か分かりますか。私はチャマ校の直ぐ傍に住んでいました。父兄と町でちょくちょく出会いました。そのたびに、坊ちゃん、元気ですか。運動会でも、坊ちゃん頑張って、と言われていました。坊ちゃんはできるのね。教えて貰えて良いね。洋服は毎日どこか破れて帰った、クラスで一番に近い乱暴者なのに。周りは皆、チャマ君なのに普通の子は教員の子供くらい。校長先生の息子は兄弟がたくさん居ました。おまけに兄弟たちは私の家の前を通って学校へ。末っ子は同級生。隣のクラスの仲良しのサッカー好き。何をやっても直ぐばれてしまうのは何かと大変でした。

 静かにしていても目立つなら、目だっても構わないと子供心に思ったのかも。小学校時代は目立つことが大好きでした。そのような私から見ると、20歳以上年下の教頭先生は私の小学校時代と同じような境遇なのに、一生懸命に学校を良くしようとしているのが、可愛らしく見えてしまいます。

今日はここまでにします。
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定年退職の準備期間の出来事

2011-09-13 18:14:59 | Weblog
こんばんは。

 このブログを始めたのは定年退職後、間もなくでした。その少し前、即ち今から数年前の、定年に先立つ半年ほど前から職探しを私は始めました。時々、年次休暇を取り、再就職先候補をたくさん訪問しました。お陰でたくさんの社長さんと面談しました。業種は多岐に渡っていました。不思議なのは私自身、役立つだろうと思った会社は不採用。あまり性格に合っていないと思った会社からは条件提示されました。3社は自由な勤務体系を提案してくれました。私の言いなりにしてくれたのです。私は気まぐれですので、打ち込むことが難しい、と心配し、それぞれ週1回の業務委託契約をしてもらうことになりました。それでもまだ心配でした。

 定年になったら仕事はもうたくさん。好きな事や野球でもして気楽に勤め、遊びたい。バドももっとしたいと思っていました。当時、甲子園常連校の関東第一高等学校のバドミントン部も強かった。しかし、進学校のバドミントン部には、評判の悪い学校でした。息子がバドミントンをしていましたので、私も腹を立てていました。下手糞な相手校でも、ウォームアップさせないようにコートを占有するので有名でした。関東第一はインターハイに出場するような選手ばかり。息子の学校は末成りの瓢箪のような奴ばかり。15対ゼロで勝負が付く酷さ。それでも、試合相手に練習もさせませんでした。勝負に徹していたのです。応援も煩かった。

 縁があり、その先生と会う機会ができました。それが定年の前、夏休みの頃。喫茶店で会い、自己紹介し、経緯なども正直に話しました。腹が立っていた、などなど。話し始めると、なかなか面白い先生でした。自信がないのに驚きました。とにかく生徒を思っていました。バドミントン選手に勝負に対する執念を教えたかったとのこと。私と全く逆の考え方ですが、そのような考え方も在って良いと私は思いました。そして彼は、バドミントンの準レギュラークラスの選手にも心を痛めていました。東京の一流大学に進学させたいと欲張りな希望を言いました。

 レギュラーで無いのに法政や早稲田に入れたいなどと。寝言です。しかし不可能そうなことに挑戦するのが好み。すでに3社と契約できていたので、夜のバイト程度ならOKと返事をしました。すると直ぐ理事長に面談して欲しいと彼が言いました。私は仕事が立て込んでいました。たまたま土曜日に東京で食事会があり、帰りに訪問できると返事をしました。そしてその週末に学校を訪問しました。それが初めての理事長との出会いでした。なお、面白い変わったバドミントン部の先生が、今は仲良しの、教頭先生です。

 人は分からないものです。難しい生き物です。自分すら自分を分かりません。聞いていた印象と、会ったときの印象と、実際にお手伝いをしてあげたときの印象が全く違うのはたびたびです。実際に仕事を一緒にしてみないと分かりません。しかし、初回の第一印象が正解である場合がほとんどでは。

 今日はここまでにします。
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ブログをまた再開

2011-09-10 08:11:08 | Weblog
 おはようございます。
暑さの峠も越えたように感じています。皆様もお元気でしたか。私はやっと生活リズムを取り戻せ、またブログを書きたくなりました。

 私は自分がブログ掲載を休んだり、しばらくするとまた書きたくなったりするのか、その理由が不思議でした。書きたいことは山ほどあるのに、筆が進まなくなるときがあるのです。よく分かりませんから、多忙のためと簡単に割り切っていました。皆さんも変なブログ、変な奴と思われていたかも知れません。

 最近、ある方のブログをアクセスし、楽しんでいました。そこに書かれた内容から、自分をさらに理解できました。止めたくなるのは集中力の喪失なのでしょう。なぜ集中力がなくなるのか、まだ分かりませんが、今の自分なりの結論は、ストレスがなくなり、アドレナリンが分泌されなくなるためと考えています。問題や課題に慣れて易しく感じられ、面白さが半減し、能力アップのドリフト状態になっていたのでしょう。今、ブログを始めたくなったのは、逆にストレスのため、アドレナリンの分泌のためなのでしょう。書きたい新たなテーマがどこかに生まれたようです。まだ明確ではありません。書き出せば明確になると感じています。会社時代の経験から得た感覚です。

 今まで会社員時代の経験から、高校生の創造性や小論文や勉強法を考えていたようです。定年となり、7年目に入り、サラリーマン根性が抜けたようです。なお、私が使うこの言葉の意味はサラリーマンの「ど根性」です。普通に使われている用語の意味と違うかもしれません。今、私の仕事は高校生の教育だけになりました。学校教育に関わる経験談をブログに書く気に初めてなったようです。現在から振り返り、この7年間を考えるだけになったのかもしれません。何時まで続くか、どのような掲載ピッチかは分かりませんし、テーマも論旨もまだ明確ではありません。

 今私のドーパミンとアドレナリンは大量に分泌されているようです。その解消のためにブログを書いています。ですから、今回のシリーズの目的は個人的なストレスの解消です。この7年間を回顧するつもりです。其処から何かを生み出したいと今、思っています。

 来週から宜しくお付き合いのほど、お願い致します。今日はここまでにします。
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