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随時随所楽しまざるなし

犬のことわざとビジネス

2011-01-31 09:22:50 | Weblog
おはようございます。

 例外もありますが、日本のことわざの犬は忠実な部下と言うより、盲信や頑迷などの悪いイメージの人をからかうために使っているようです。一方、昔話では、子供向けが昔話の目的なのか、犬のイメージは良く、教訓的な話が多いと感じています。例えば、桃太郎や花咲爺の話に登場する犬です。そして、世界共通的に、兎はおっちょこちょいで、犬は忠実な僕として、昔話に登場しているように思えます。

「桃太郎さん桃太郎さん。お腰につけた黍団子。ひとつ私にくださいな。あげましょう、あげましょう。これから鬼を征伐に着いてくるならあげましょう。」この歌詞で始まる桃太郎の話は、「アジア侵略や難破船員虐待を表している、けしからん」と言う極論からか、最近は学校でも家庭でも好まれていないようです。しかし、昔の迷信を学べる民話を否定するのは納得できません。科学を知らない人にとって、化け物は身近の存在でした。村に害を為す化け物が恐ろしく、退治してくれる人の出現を期待していただけでしょう。私の子供時代、鬼を退治してくれた桃太郎が英雄でした。

 ナマハゲの鬼のように、鬼は祟りを恐れる日本人の信仰心が生んだ象徴でしょう。科学が発達し、迷信が減ってきていますが、迷信は無限に存在しています。数年前人気だった、テレビドラマ「ガリレオ」も迷信に勝つ科学の話でしたが、やや天才的過ぎて、私のような凡人は楽しむだけで役には立ちませんでした。何時の時代も、何処の国も、迷信や頑迷や思い込みは人々の心に住み着いているのです。今もです。未来もでしょう。常に過去と歴史を学び、今を客観的に眺め、未来を想像しましょう。

 桃太郎は日本の民話の特徴を現している良い例です。犬は忠実な部下。猿は特殊技能の部下。雉は偵察、情報能力です。もっとも、この3つの能力はビジネス成功の秘訣でもあります。日本の民話を勉強しただけで、ビジネス成功の法則も学べるわけです。高校生も日本の民話のパターンを勉強しましょう。まず皆さんと同世代の若者が村に貢献する話はたくさんあります。戦乱の時代、子供も元服すれば大人として戦にも出ました。悲惨な話は屋島の戦いにあります。桃太郎は、お爺さんとお婆さんが赤ちゃんを育てる、若者が化け物退治に行く。成功し、出世し、村に貢献するのが庶民の強い願望でした。

 花咲爺の歌は「裏の畑でポチが鳴く。正直爺さん掘ったらば、大判小判がザックザックザックザク。」で始まります。犬の泣き声を信じて、大変な仕事をしたところ、財産ができた。意地悪な人はごみしか得られない。意地悪く犬を殺して、燃やして灰にした。お爺さんは可哀想になり、灰を供養していたら飛んで、枯れ木に花が咲いた。通りかかった君主が花を見て、褒美をお爺さんにあげた。この話もビジネスの秘訣を言っています。ビジネス成功の秘訣は労を厭わず、情報に従い挑戦する。成功は運である。しかし、正直に大切な情報をオープンにしていると、損をするかも知れないが、意図しないメリットが降ってくるのです。

今日はここまでにします。
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犬も歩けば棒にあたる

2011-01-30 19:12:50 | Weblog
こんばんは。

 中国の成語、走狗を書いたため、日本の犬のことわざも外せなくなりました。子供時代、お正月は凧揚げ、独楽回し、羽根つき、福笑い、いろはカルタ、百人一首でした。当代人気の流行いろはカルタより、普通のいろはカルタが好みでした。日本の犬のことわざなら、まず、犬も歩けば棒にあたる、です。

 いろはカルタは各地にバリエーションがありますが、大阪版と京都版と江戸版のいずれかを皆さん聞いているでしょう。私が遊んだのは、昭和の東京バージョンですので、各地のいろはカルタが混ざっていました。それでも「犬も歩けば棒にあたる」で始まっていました。江戸カルタはこの札から始まります。これが、北斎が選んだ犬棒カルタ、200年近くの歴史があります。犬棒カルタ以外あり得ないと江戸っ子は考えていました。京カルタのいは「一寸先は闇」。大阪カルタのいの札は「いやいや三杯、もう三杯」です。如何にも大阪的です。しかし、「石の上にも三年」をあげる大阪人の方が多いかも。「犬も歩けば棒にあたる」「一寸先は闇」だと言う人もいます。規格がないのが大阪人の個性です。

 「犬も歩けば棒にあたる」は不思議な言葉です。意味が分かりません。「犬が歩くだけで、棒にあたるような災難が降りかかる」、「知らずに不幸に遭遇する」なら、棒を不孝と捉えています。「何かをすると、知らないうちに幸運が廻ってくる」、「犬さえ歩き回っているだけで価値のある棒を見つけられる」と棒を幸運と解釈することもできます。棒を不運と考えるか、幸運と考えるかで意味が反対になります。

 北斎が犬のことわざを先頭に持ってきた理由も不思議です。犬は人類の一番身近な生き物でした。犬公方の生類哀れみの令があったように、四足殺生は忌み嫌われていました。川原や通りにたくさん野良犬が徘徊していたことでしょう。どんな犬だったのか、北斎は犬好きだったのか、など想像しただけで楽しくなりませんか。犬のたとえ話やことわざは100以上あります。「犬も朋輩」、「犬が星を守る」、「犬に知らすな」、「犬の糞尿経」、「犬死」、「犬も食わない」など、良い言葉はあまりありません。八犬伝は例外かも。

 北斎はカルタの「い」にいろいろ考えたでしょうが、犬棒を選んだ理由が分かりません。ここからは大胆な推論、私のシンセシスです。幸運か不運か分からない、反対の解釈が出来るのが狙いだったと私は考えています。語呂が良く、成否は分からない、しかもありがたそうな言葉の感触がありませんか。この感覚が江戸の知識人の誇りだったのかも。間違いないのは、いろはカルタの奥は深い、ことです。犬だけでも、まだ話を続けたいのですが、長くなりすぎます。今日はここまでにします。
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ウサギと犬から未来を学ぶ

2011-01-29 09:09:24 | Weblog
おはようございます。

 ウサギに纏わる中国の格言を語るなら、「狡兎死走狗烹、こう兎死して走狗煮られる」は外せません。この言葉は司馬遷の史記の中の、范蠡の記述が基です。「有能な猟犬も兎を捕り尽くせば利用価値が無い。代わりに煮られて食べられてしまう。」の意味です。

 この言葉は春秋時代の呉と越の国の戦いの結果に生まれた言葉です。呉越同舟や 臥薪嘗胆 の四字熟語を生んだ激しい呉と越の戦いは最終的に越王勾践が勝者となりました。その勝利に一番貢献したのが范蠡でした。戦いが終わり、范蠡は職を辞しました。越王勾践は人望がなかったのでしょう。范蠡は旧友を案じ、同じように辞職を薦めました。その手紙の言葉を司馬遷が史記にまとめています。秘密の情報は必ず漏れます。捻じ曲がるのが世の常です。讒言者を信じた越王勾践は浅はかにも范蠡の謀反を疑い、死罪を申し付けます。多分、司馬遷の創作でしょうが、范蠡の言葉として格言になりました。なお、韓信も捉えられ、この格言を語ったと史記に記されています。司馬遷の好きな言葉です。

 視点を変えると、逆も真です。主君を裏切る武将が中国の歴史書にたくさん記載されています。日本でも世界でも戦乱の時代にはそれが普通。三日天下の明智光秀は反逆者として有名です。北条早雲や斉藤道三、そして武田信玄ですら主君や父親を裏切ったのかも。山岡荘八の徳川家康は良い点だけ、若いときは勇猛果敢忠義の家康も歳と共に猜疑心が強くなり、漢の劉邦を習ったのか、政権の座に近づくほど、忠義、功臣の大久保家の面々を次々と罰してゆきました。大久保彦左衛門が庶民に人気なのは、讒言に負けず、生き残ったからでしょう。庶民派が好きな人が彦左衛門を理想化したイメージが一心太助の魚屋さんを助ける天下のご意見番でしょう。

 狡兎死走狗烹の格言を現代に置き換えて考えましょう。「上司は有能な部下を重宝に使うが、無用となれば仕事から外す」のは世の常です。大手の新聞社や出版社は非正規社員を大量に採用し、外注を増やしています。コストダウンのためです。すぐに首に出来るのが、経営者にとっての非正規社員の利点です。将来を見通せるなら、派遣の品格の主人公を真似るのもグッド。でも彼女は資格マニアであり、極めて有能な人です。近視眼的に満足しては、若い人はいけません。歴史の勉強が現代のビジネスに役立ちます。そして皆さんの未来に役立ちます。厚い歴史書にも挑戦しませんか。

今日はここまでにします。
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改革者の悲劇

2011-01-28 09:11:12 | Weblog
おはようございます。

 悲惨だった天才、韓非子。しかし、韓非子だけではありません。史記の作者、司馬遷も悲劇の人。さらに、中国の歴史書、紀伝体の十八史略など天才の悲劇のオンパレードです。この本は中国の歴史書のご他聞に漏れず、勝者の言い分です。しかし、あながち嘘とは思えません。割り引いても、哀れな天才と無慈悲な成功者の対比が面白さの秘密です。高校生に一番読んで欲しい本です。

 中国の天才だけが悲劇の主人公だったわけではありません。日本にも悲劇の天才はたくさんいます。まず、日本人が好きな義経。現代風に易しく編集した平家物語でも、英雄、義経の凄さを感じられます。頼朝の家臣たち、重臣たちの提案を否定し、常識に逆らった戦術を採用し、平家を滅亡させました。彼も頼朝重臣たちから疎まれ、諫言され、反逆者として無念の死。義経がヒーローだった源平最終決戦、壇ノ浦の戦で幼子の天皇も無理心中。悲惨な戦いでした。この祟りを恐れた勝者がまとめた鎮魂歌が平家物語だと私は信じています。このため、琵琶法師が弾き語りをしたのでしょう。

 一方、源氏物語は合戦ではなく、恋の鞘当。女性の口説き方や男の理不尽さ、女性の悲劇のオンパレード。キムタクがやればピッタリな主人公、光源氏。女性作家の現代訳の本もあり、高校生も気楽に読めます。漫画でも読めます。しかし、作者、紫式部が語りたかったのは恋の手ほどきではないと私は考えています。歴史研究者にも、源氏物語は政敵を嵌め、祟りを恐れた藤原氏が書かせた本だという人が居ます。私も源氏物語は暗殺された人のための鎮魂歌だと思っています。

 日本では、英雄が嵌められ、非業の死を遂げると神様になります。例が義経伝説や菅原神社です。奈良の法隆寺を建立した聖徳太子のお名前はとても不思議です。聖徳太子はお隠れになった後の名です。即ち、時の権力者が贈った名です。当時の権力者は藤原氏。生前の天皇様は陛下とか天皇様です。今生天皇とも言ったかも。明治や大正のように、天皇様や太子様は平凡な名前、明るさや平和を祈念している時代の名称でしょう。聖徳太子は生前、厩戸皇子。聖徳の文字は聖人、徳の人を表現している特別なお名前です。

 外来文化の仏教を中心におき、旧態依然の体制を打倒したい皇子様がひとり、または複数居て、改革派を貶めた時の権力者、逆賊がいて、祟りを恐れ贈った名前が聖徳だったのでしょう。何時の時代も権力者や権威者は凡人、節操の無い人です。改革者は敗者になりがちです。天皇のお名前にも、恐ろしい秘密が潜んでいると私は考えています。

今日はここまでにします。
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詩歌とことわざの起源

2011-01-27 20:17:15 | Weblog
こんばんは。

 ウサギさんと亀さんのかけっこの歌は剣玉遊びの歌でした。歌いながら、剣玉の大皿と煙突に交互に玉を乗せます。「もしもし、亀よ、亀さんよ。世界のうちでお前ほど、歩みの鈍い者は無い。どうしてそんなに鈍いのか。何とおっしゃるウサギさん。それなら向こうのお山まで。どちらが先に駈けつくか。・・・」歌詞が正しいか、自信がありません。歌詞の続きは思い出せませんので、歌詞をご存知の方がいれば、続きを教えて頂ければ幸甚です。しかし、この歌にあまり想いはありません。ウサギの歌の中では「ウサギ追いしあの山。小鮒釣りしかの川、・・・」が一番懐かしく感じています。歌詞は覚えていないなのに、CDのメロディーを聴いていると涙が出てきます。歳のせいかもしれませんが、本当に不思議です。

 ウサギが登場する歌、「待ちぼうけ」を皆さん良く覚えているでしょう。「まちぼうけ、まちぼうけ。ある日せっせこ野良稼ぎ。そこへウサギが飛んで出て。コロリ、転げた木の根っこ。」この唱歌は満州唱歌のため、北原白秋が作詞し、山田耕筰が作曲。辛い野良仕事をしていたお百姓さんの畑に切り株がありました。あわてんぼうのウサギさんが衝突死。「しめた」とお百姓さんはウサギを持ち帰り、ご馳走にありつけました。美味しい運に恵まれ、辛い畑仕事が馬鹿らしくなり、切り株を守り、ウサギを待ち続けました。美味しい偶然は二度と起こりません。畑は荒れ、彼は村中の笑いもの。勤勉を旨とする当時の国民性ゆえか、満蒙開拓への憧れもあったのか、この歌は大ヒットでした。

 この歌詞は中国の古い民話が大基ですが、春秋戦国時代末期、韓非子が説いたたとえ話で有名です。彼は極めて優秀な理論家、弁舌家でした。法に基づく政治を説いた法家の人です。法家の思想は儒教や孔子の甘さを指摘した考え方。韓非子については、後の歴史家、司馬遷が史記に「説難」と題し、詳しく記しています。説くことの災難を説いたのが韓非子でした。その韓非子自身が説いた「説得の災い」を免がれられなかったのが悲しい、と司馬遷が記しました。韓非子は嵌められて獄死しました。その韓非子が説得に用いたたとえ話が、株を守りてウサギを待つ話。韓非子が説いたかったのは勤勉の教えではありません。古い方法を続けてはいけない、新しいやり方に変えろ、と君主に勧めていたのです。なお、矛盾や逆鱗のたとえ話も韓非子の教えです。

 韓非子は、人を説得することの難しさは論法や言葉の間違いや欠陥ではないと、言っています。相手の心に自分の論旨を合致させることが難しいと言っています。名誉欲を好む人に実利を説けば、卑しい奴と軽蔑されます。実利が欲しい人に理想を説けば、浅はかと疎まれます。偶然、相手の秘策に合致した計画を言えば、命を狙われます。たくらみを見抜けば、危険です。計画を察知すれば、秘密が漏れると疑われます。説通りに成功しても、徳ともされません。説通りにしない人が失敗しても、責任を負わされます。偉い人の過ちを指摘すれば、命が危ないです。この後も、ありとあらゆる説得の危険性、即ち現状の誤りを指摘し改革を勧める危険性を彼は述べています。彼が言いたかったのは、革新的な人が思い知らされる世の理不尽さだったのではないでしょうか。

 この話を始めるときりがありません。今日はここまでにします。
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メルヘンチックの後側

2011-01-26 15:51:48 | Weblog
こんにちは。

 今年の干支のウサギはオチョコチョイのやられ役。四足なのに、1羽と数えられています。何故か分かりますか。耳が羽のように長いから、は冗談。日本の野山のウサギは貧しい農民にとって貴重な蛋白源の食材でした。四足を食べてはいけない仏教の宗教観から、ウサギは鳥と同じ2本足とされました。鳥として食べることが出来たのです。ウサギの捕まえ方を知っていますか。山から追うとウサギは跳ねられません。後ろ足が強く、前足が弱いからです。山くだりの動きは直線になり遅くなります。簡単に網で捕まえられました。ウサギは山登りの神様だったのです。

 カメのようにゆっくりと勉強しよう、ウサギのように過信してはいけない。継続すれば逆転、と私は教えられました。カメさんは長寿、尊敬の対象。亀山、亀有などは縁起の良い地名。今も縁起が良い土地です。亀有は昔、亀なしといわれました。山梨と同じです。山があるのになしとはこれいかに。山を為している土地だから山梨といわれたのでしょう。亀がたくさんいたから、亀なし、です。しかし、縁起の良い亀が無しのように聞こえ、縁起が悪いと徳川家が名称変更したのでしょう。地名にも面白い逸話があります。

 ジャックと豆の木、白雪姫、シンデレラ、ヘンゼルとグレーテルなどの裏には複雑な、深い、怖い歴史があります。言い伝えを基にしている童話には怖い裏があるのです。童謡も同様です。ロンドンブリッジなど、マザーグースの歌は恐ろしい。しかし、怖いのはヨーロッパだけではありません。日本の童謡、ズイズイズッコロバシや通りゃんせも怖い言い伝えが裏に潜んでいるのでしょう。

 不思議の国のアリスの原作は、父親が3人姉妹に語った即興話が基。パロディや駄洒落や隣人の揶揄が満載です。このため、あまり怖い話はありません。ディズニーのセルアニメ映画を見る限り、白雪姫もアリスも同じメルヘンチック。美しい娘さんの話しです。しかし、アリスと白雪姫は全く違います。白雪姫はヨーロッパの人の歴史を表現している怖い話が裏に潜んでいます。白雪姫は魔女狩りの歴史を表現しているのでしょう。

 サーカスにピエロがつき物です。サーカスは無口ですが、本来、ピエロは無口ではありません。ピエロも歴史の産物です。ラインの謝肉祭カーニバルにはピエロが登場します。ピエロがミスローレライと並んで主役であり、冗談を言い、観客を笑わせるのが役目です。封建制や絶対君主制の時代、謝肉祭だけ、ピエロは何を言っても許されました。冗談だからです。冗談と思わず、罰する君主は民衆に背かれ、君主足り得なかったのです。昔の農民や船乗りは弱い立場でした。ピエロの口をかり、童謡や童話を通して、悪政に抗議しました。しかし、君主も人。謝肉祭は我慢しても、終われば罪を作り、捕まえられます。このため、ピエロは厚化粧し、高い靴や棒に乗り、誰か、分からなくしたのです。

今日は此処までにします。
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ウサギは年寄りも跳ねる

2011-01-25 09:29:54 | Weblog
おはようございます。

 サイトの読者の皆様、ご無沙汰していて済みませんでした。また投稿をしばらくします。何時まで続くか、その頻度も、本人もわかりません。歳をとるほどズボラ、いい加減さが増してきました。子供時代の私にどんどん戻っています。気短、即決、行動、直観だけの小学校時代。対象は食べ物と野球と将棋とガールフレンドの視線。その判断力は今以上。今の興味対象はビジネス、人材育成、メディアリタラシー、そして歴史。今回のシリーズは直感を頼り、メディア情報をいい加減に参照し、記憶の混沌の海から記事を書きます。

 当方のブログは参照、引用、批判など自由です。要旨は読みにくく、悪文なのはご容赦ください。此処で余談です。小論文を教えていたとき、学生が文頭に「なので」と使うのがたまらなく嫌で、修正させました。最近、アナウンサーが「なので」を先頭に話します。新聞記者も使います。インターネットのブログや記事は「なので」のオンパレード。「なので」は文頭に置く用法が普通かも。それだからこそ、棺おけに片足を入れたまま、またブログを再開したくなりました。

 さて、今年はウサギの年。年賀状で色々なウサギさんの絵や写真を頂きました。皆さんはどんなウサギさんだったのでしょう。私はウサギと聞くと、ウサギと亀の昔話をまず思い出します。そして、因幡の白兎。二兎を追う者、一兎も得ず。子供のときに見た、ディズニーアニメの不思議の国のアリス。そして、昨年の3D実写映画のアリスです。不思議の国のアリスは、アリスを不思議な国へ誘う可笑しなウサギから話がスタートします。昔のアニメは最高傑作のアニメ。今回の映画も記録的に大ヒット。筋が奇想天外だからヒットしたとは私には思えません。お定まりの夢でエンドし、中身の逸話も驚く話はありません。しかし、不思議の国のアリスは、聖書に続く、世界第二位のベストセラー。不思議ではありませんか。

 アリスのストーリーの根幹は教育論だと、私には見えます。アリスが扉を開けるたび、新しい不思議に出くわします。子供は不思議の扉を開けて、冒険し、失敗し、経験し、成長するのでしょう。世界は小さくも大きくもなります。周囲の視点が大きく変わることを語っています。そして登場のキャラクターはほとんど楽屋落ち、作者の村の住人を面白く描いています。全編を通じての特徴は言葉遊び、駄洒落です。駄洒落こそアリスの特徴です。

 駄洒落こそ不思議です。オヤジギャグは若者に馬鹿にされます。しかし、駄洒落こそ難しいのです。言葉を知らないと出来ません。出来ないから、悔しくて、若者はオヤジギャグと言うと私は考えています。何故なら、駄の言葉は卑下だからです。「つまらないものですが」と高価なものを渡す日本の文化から生まれています。駄洒落は江戸の教養人の遊びであり、楽しいお酒のおつまみだったのです。今でも駄洒落が好きな私はこのように確信しています。

今日はここまでにします。
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