創造性の開発 新規商品を企画しよう

新規商品企画の成功学
求むる所第一義
随時随所楽しまざるなし

2段落目の下書き

2016-05-31 03:56:48 | Weblog

 おはようございます。

 サンプルの小論の先頭に置く1段落目と最後に置く4段落目ができた段階です。間の2つの段落は時系列で思いつくまま、指定された文字数の8割程度を書けば済みます。文字数に厳しい、少ない制限がある小論は難しいのです。作文手法では文才が必要です。でも、私の手法なら簡単です。例えば400字以下の制限があれば、2つの段落を100字ずつで書けば良いし、1500字の制限なら、それぞれ600字で書きましょう。書きなぐれば済むでしょう。

 会社員は上から下まで多忙です。学校人とは違います。採用用なら500字以下の書類が普通、長い志望動機などありません。三流大学の入学志望用は知りませんが。なお、会社のレポートならもっと文字数が少なくないと読んでももらえません。そのまま捨てられてしまうでしょう。

 以下にできた部分と、間に置きたい下書きを記載します。なお、各部分の完成後に4項目の箇条書きは削除し、一つの正式な件名に置き換え、一つのまとまった文章に仕上げます。文字数はそこで調整すれば良いのです。

・首になった努力の人、専門指導員

「中村洋四郎、元富士通のシステム開発担当取締役は挑戦と努力と結果の人でした。そのような人が鈴木氏をほっておくことはなかったはずです。監修して頂いた我々の新刊本が間に合わず、お亡くなりになったのは残念でした。」

 ・UNIX40年研究の大学准教授に新刊を紹介

「UNIXは凡そ15年、その他25年近く、研究から営業まで担当した私が、挑戦し続けている鈴木氏の、教育関係の仕事をさせて頂いているのは宿命でしょう。彼のために、また世のため、人のために、最後のひと花を咲かせたいと思っています。」

①アプリの天才、故中村洋四郎氏を尊敬

 2段落目のこの主題は中村さんの業績を書きます。今回は400字以下、全体で1000字にします。800字から千字が一番簡単な小論です。何でも良いのです。どうせ真面目に試験官は読みません。思いつくままに書きなぐりましょう。中村さんは凄い人ですから業績だけでも書き始めたら大変、逸話を書けば簡単です。

「富士通を就職する第一候補にしていた修士課程2年生の初夏のころ、4人の同級生と一緒に富士通川崎工場見学をしに行きました。各部門の先輩の方々や複数の部門の管理者と面談できました。4人全員が就職を希望して内々定を頂いていました。他の人は修論も富士通と共同研究していました。一方私は修論で日立と東芝にお世話になり、東芝を第一志望に変えました。中村さんに初めてであったのは断りに行った日、確か3月28日でした。人事採用担当者に紹介されました。中村課長は新しいアプリケーション開発を全て担当していました。起こり得る商談のアプリケーションソフトの開発をする部隊の責任者でした。素晴らしいプレゼンをしてくれました。企業全体の情報管理システム、ERPのようなものでした。話の論旨、面白さ、漠然と考えていた情報システムによる組織マネージメント論のように聞けました。私は中村さんの部下となり、会社の情報管理システムを担当したいと思い、東芝を辞めて富士通に入社しました。なお、私は富士通退社後も中村さんとお付き合いをさせて頂きました。中村さんはプレゼンは全て即興の創作だったと笑って言っていました。」

 ここで時間も文字数も予定をオーバーしました。上記の段落の校正と、下の3段落目の作成と校正は明日にさせてください。主夫は犬の散歩が忙しいから。陽が昇ると暑くて愛犬が可哀想。

②本を中村洋四郎師匠と一緒に出版した

 今日はここまでにします。

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まとめの節

2016-05-30 06:55:56 | Weblog

おはようございます。

 2つの箇条書きの統合に挑戦することになりました。話は引き延ばせないし、やっと頭もボケなくなりました。ボケたようなまとめになったら、そもそも私がボケていると言うことです。(笑)

 主題とは無関係の、何時ものような前おきで失礼します。私はボケたせいかあるテーマを書くと、どんどん記憶が広がってしまいます。または、逆にボケた学校人のように、金メダル路線となり、スポーツ根性路線のように、目標必達、頑張りましょうと深海挑戦路線になりかねません。深海挑戦の井戸の中の蛙路線は見えやすい評価であり、子供でも分かる基準だから教師はしたくなるのでしょう。

 学校人路線では、私の言いたいことは真逆になってしまいます。人生は長いのです。評価は10年経たないと分からない。少なくとも金メダルを目指した人の100人の満足感はまず確率ゼロ、オリンピックなど出場できただけでも1万人の一人以下。ですからこのような路線の多い、私が参考にしたい学校人はいませんでした。だから、中庸と言う老子の教え、四書五経の教えに戻ってしまうのです。でも、分かってもらえそうなのは、陽明学と親鸞や法然や空海の簡単な教えだけのように思えてしまいます。今のメディアは障害者にさえも、無理な挑戦をさせたがっているように見えるのです。適材適所、個性尊重が大事なのに。

 まとめをする前にもう一つ前置きを書きたくなりました。ネムオロ塾の先生の難しいコメントが多分昨晩あったことをです。そのコメントに対するコメントバックを、起床したての、まだ眠たかった3時半ごろに書きました。誤字脱字など間違いだらけですが、読んで頂けたら、前回の主題、UNIXの研究者、素晴らしい先生との関係はお分かりただけると思います。いい加減な男だと思ってご容赦ください。今は、以下の2項目の箇条書きの統合化を進め、小論例題の続き、まとめにします。

 ・首になった努力の人、専門指導員

 ・UNIX40年研究の大学准教授に新刊を紹介

 UNIX関連の仕事はおよそ15年程度、富士通からシャープへ転社した、脂の乗っていた時代、主任から係長、課長、部長と役職は変われど、考えられたことを全てしていた時代でした。書くとなると本10冊は書かないと済まなくなるでしょう。それを3行以下、100文字以下、先頭の節よりなお短く、分かりやすく一言で、先頭の節の論旨を言いきります。理由です。上司や評価者が理解してくれるのはその程度なのです。それを学校人やこの村の先生は知らないのです。可哀想。生徒がですが。先生は自業自得。

 今日は結論の、まとめた結果です。ひとたび書いたら、UNIXは多すぎるし、お世話になった先生や上司も多すぎて、論旨を分かりやすくまとめることができません。ですから、泣いて馬謖を切る、必要があるのです。

「UNIXは凡そ15年、その他25年近く、研究から営業まで担当した私が、挑戦し続けている鈴木氏の、教育関係の仕事をさせて頂いているのは宿命でしょう。彼のために、また世のため、人のために、最後のひと花を咲かせたいと思っています。」

 これこそ本心。しかも中村師匠、ネムオロ塾の先生、UNIX一筋の先生のお考えを尊重し、鈴木さんのためになり、自分の願望を自己宣伝できているでしょう。如何でしょうか。なお、UNIXの先生は今は低価格なUNIXコンピュータをベースに、情報リタラシーと複雑性の数理を研究し学生さんに指導しています。私の好きなカタストロフ理論もお好きなようです。私が今まで好きになったテーマと同じです。ただ彼は今も教育で実践しているのが凄いのです。私は無職の定年退職者なのにです。(笑)

 今日はここまでにします。ざまーカンカン。だからこの世は面白い。南無阿弥陀仏。

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低酸素状態の影響故か

2016-05-28 11:22:41 | Weblog

 こんにちは。

 昨日の記事、すみませんでした。恒例の挨拶もなく、下手な説明をだらだら始めてしまいました。検査のために麻酔薬を点滴した影響で2日たっても頭脳が十分に働いていなかったようです。麻酔は低酸素状態になるようです。

 今朝は何とか正常に近くなりました。昨日の記事を読んだら冗長なところが多いし、誤解を招きかねない表現もありました。私は誤字脱字とリンク以外は修正しない習性があります。不味い表現をそのままに、後日の表現で修正するサラリーマンの技能をお見せできるかもしれません。このまま進めます。何れにしろ、狙いの主題は変わりません。以下の通りです。

首になった努力の人、専門指導員の件(仮題)

 この狙いに沿って、以下の段落を書くことになりました。このまま2段落目3段落目、まとめ、と書き下しで書いていくのが普通の書き方かもしれませんが。koderaの書き方はまとめを先に書いて2段落目と3段落目で指定された文字数に合うように調整します。したがって課題にある狙いと、この記述を整合させて短く言いきります。言うのは簡単ですがこれがなかなか難しいのです。

③UNIX40年研究の大学准教授に新刊を紹介

 間違っていなければ、そして他の人の悪口にならなければ何を書いても良いのですが、迫力が必要です。迫力と融合と短くの両立が難しいのです。そうでなければ学校レベルの作文になります。

 この准教授を私は良く知っていました。40年近く前からUNIXを研究してきた人です。JUNETの開発の主要メンバーでした。私は10億円ほどのシステム販売商談に使うアプリを彼の大学の副学長に提案していました。計算機センターの創設に近い話でした。業績は十分すぎる人です。

 当時の超有名大学の副学長だった人は、明治維新の、誰もが知っている元勲、どの教科書にも載っている人、その超有名な人のお孫さんでした。苗字は同じでした。頭は切れるし、決断力も凄い人でした。だから弱小のシャープのUNIXネットワークシステムを評価してくれたのでしょう。ネットもUNIXもアメリカのベンチャー会社とのシャープの協業によるシステムだったからです。先進度ではどこにも負けていませんでした。

 当時助手だった准教授に、副学長はシステム決定の権限移譲をしていたのかもしれません。私は副学長に1度だけアプリのプレゼンをしただけです。周りには10人以上の教授連が同席していました。全文検索のシステムでした。まだ世界で2つほどの商用の検索システムがあった時代だったはず。そのまま開発していたらグーグルに勝っていたのかもしれませんが、悪口になりそうですのでここで止めます。

 副学長と助手だった准教授はこれは凄いアプリだ、絶対に伸びるテーマだ、情報センターで研究するから御社のシステムにしたいと皆さんの前で言ってくれました。同席していた営業責任者は喜んだのなんのって。10億のシステムが簡単に売れたからです。

 当時助手だったこの准教授はすでにUNIXとCの英語の本を数冊翻訳出版していました。有名な慶応大学村井純教授が世界で認められたのは、この准教授の当時の業績によるところ大のように私には思えます。ところが彼はまだ偏差値のあまり高くない大学の准教授です。彼を褒めると、社内外の色々な所を悪く言いかねません。皆さんを褒めるように書くのはとても難しいのです。

 まだ頭がさえません。到底そのような会社時代の文章を書けません。明日は忙しいので、ブログを投稿できるか定かではありませんが、今日はここまでにします。

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表題をどう書くか

2016-05-27 06:51:13 | Weblog

 まず狙いを決めて表題を書きます。仮の題名ですが、論旨の中核としてください。入社試験などで自由に題名を書くような課題は、題名の良しあしで半分ほどの評価が決まるでしょう。他部門に発信するレポートでは良い題名は必須です。狙いを露骨に書いて、自分に狙いをハッキリさせるように、仮の題名を決めます。この作業は感情的になりやすい夜が良いわけです。

 首になった努力の人、専門指導員の件(仮題)

 まず上の課題に私は設定しました。彼がどこかで実力を発揮してほしいわけです。でも、人は分からんチンです。彼がしてきた高校情報クラブ指導員として売り込むだけでは、首になったと言う結果だけで評価されてしまうかも。先生方は前例を重んじます。人は他人の隠れた才能だけでなく、今の実力さえ推し量るのは苦手です。

 この村の先生方の記事を読むだけで、難しさは良く分かります。余談ですが、私の親友の妹さんは新中学1年生を見ると、どこの大学は合格する、何処は無理と分かるため、詰まらなくなり、流行っていた塾を畳んでしまいました。不思議ですか。実は私も分かる気がします。情けない人が多いと思っているだけです。

④先生と懇意になった鈴木氏の感想に期待

 上の1行と仮題の文言を整合させることになります。こじ付けでも構いません。何とでも言っていいのです。いい加減で。でも、他人に迷惑をかけたり、公序良俗に反することもいけません。もちろん嘘もいけません。3行、100字以下のまとめの結論を作り先頭におくわけです。

 もし中村さんがご存命なら、ヨイショヨイショのオンパレードで、中村さんの承認をもらっても、済むかも。人はおだてに弱いのです。ホウレンソウの相談の業で済んでしまいます。ところがあの世に承認をもらいには行けません。行ったら帰って来られません。私は凡人だからです。(笑)

 鈴木さんの多忙さが中村師匠に新刊本を届けられなかった最大の理由かもしれませんが、今更後悔しても始まりません。要するに、コツコツやる人にとって、時間遅れは最悪です。遅れは問題を複雑にします。その良い例です。善人にとって、先んずれば人を制すなのでしょう。嘘を言える、自分に都合の悪いことは忘れる、人のせいにできる、腹黒ければ、別ですが。

 基になったebisu先生へのコメントの最初の段落は、「私はアプリの天才、今はなき中村洋四郎元富士通のシステム開発部隊の責任者に請われて、アプリの時代が来る、統合経営システムをしてみろと言われて富士通に入社しました。 なお、余談ですが、中村さんは私に本の再販を許可した直後、完成品を届けようとした日の数日前にお亡くなりになってしまいました。予定通りに、実際より1月早かったら直接届けられたのに。宿命だったのでしょう。」ここから文字を抽出して、最少の負荷で校正し、狙いの先頭文3行を捻りだすのです。無いものを嘘にならずに生みだすのですから、大変です。

「中村洋四郎、元富士通のシステム開発担当取締役は挑戦と努力と結果の人でした。そのような人が鈴木氏をほっておくことはなかったはずです。監修して頂いた我々の新刊本が間に合わず、お亡くなりになったのは残念でした。」

 まあこんなところでとりあえず良いでしょう。今日はここまでにします。 

 

 

 

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上司や他社の意図

2016-05-26 07:48:13 | Weblog

 おはようございます。

 一昨日、昨日と自分の資料から、分かりやすい自分の提案書やレポートを作成するkoderaの書き方を説明してきました。ここまでも、私が苦労して練り上げたオリジナルだと思っています。しかし、上司や評価者から見て、独創的なレポートが評価されます。皆さんが良い報告書をまとめようと思っても、まだ難しいはずです。短く分かりやすく提案しないと忙しい人は読んでくれません。

 前回のebisu先生のコメントもそうかもしれませんが、レポートや本は代筆ではなく、筆者のオリジナルとしてまとめるのが前提かもしれません。ですから、まず章立てを作り、概要レジメを作り、それぞれの節となるように書きたいことを箇条書きでまとめておくのが一般的かもしれません。上司のアドバイスのまとめを箇条書きにして、代筆を始めることになります。

 私も富士通時代、班長さんが中村師匠から言われたことを教えてもらえました。いいえぼやきを聞いていただけが実際ですが。彼のボヤキから中村師匠の代筆から社内レポートとはどんなものか知りました。上手い書き方など誰も教えてくれませんでした。

 ほとんどの班長さんが朝イチで出したレポートは真っ赤になって戻るのが常でした。何て大変なことだ、漢字を知らない、文章も下手な私では富士通のシステム開発課は務まらないと思えました。代筆者の氏名は他の課長宛ての書類にはなく、すべて中村師匠が書いたように作成者は中村課長でした。でもその難しさを最初に知ったから上手いレポートの簡単な書き方が分かったのでした。

 余談ですが、中原部長の書類は中村課長が代筆したのでしょう。宛先は普通は他の部長さんだったでしょう。上の取締役の代筆を中原部長がしていたのかもしれません。富士通は職責を越えて他の人に書類を発信しないのが基本ルールだったのでしょう。厳しい会社でした。

 私は他の研究所との勉強会などにちょくちょく出席していたのですが、言葉による参加しかしなかったので、外部への発信のルールはしりませんでした。社員必携にあったかもしれませんが、良く読んだことはありません。

 昨日の鈴木さんの代筆文は会社では珍しいことかもしれません。同僚と言えど1回り下の若い鈴木さんの意図を汲んで、合っているか分からないまとめ方になっているからです。もう一度その箇条書きを下にコピーします。

④先生と懇意になった鈴木氏の感想に期待

①アプリの天才、故中村洋四郎氏を尊敬

②本を中村洋四郎師匠と一緒に出版した

③UNIX40年研究の大学准教授に新刊を紹介

 上の箇条書きを自分が書きたいたように、すなわち自分の意図、すなわち自分の得になるように変えないといけません。上司や他の会社の人の意図を汲んで書かないと良いレポートとは言えません。例えば、私とebisu先生の意図をある程度、融合させて、私の得になるように、しかも鈴木さんの得になるように書かなければ、事業企画や新規商品の企画には使えません。

 長くなりました。犬が膝の上で寝ています。痺れましたので明日に続きます。何時もの手かもしれませんが、私は長い文章が苦手なだけです。ebisu先生と同じような文才はありません。テレビのコマーシャルの手法のように良い所で止めるつもりは毛頭ありませんでした。明日もどこまで行けるか、元気でいるか、生きているか、分かりません。人生、だから楽しいのです。

 創造性万歳です。南無阿弥陀仏。

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自分の文章なら簡単

2016-05-25 03:28:01 | Weblog

 おはようございます。

 昨日ebisu先生の記事への私のコメントから4項目の箇条書きを作りました。感想や論評のために、参照文献や課題文から4項目選び出し、箇条書きを書くのは、まず読んで理解する時間がかかります。

 今回のように、自分の文章からと言うことは、この段階を省いてしまったわけです。でもこの段階は、小学校から国語の時間で勉強してきたことです。読解力で良いでしょう。日本人がやろうとすれば、そしてやっていれば、自然と能力が上がってきます。大丈夫です。心配なら、ブログや本など参考にして皆さんが先生に聞いてください。

 良い報告書や日本語を学びたいなら、この段階を重視して、練習することが必要です。でも実はそれこそ驚くほどに効率化できます。今回の新刊本のような、適当な本を1冊何度も読んでやれば、できるようになります。偏差値のあまり高くない女子大で私の教科書を学生さんに読ませてさせたら、ほとんどの人が講義7回でできました。後は好きな料理の実践だけで即戦力レベルになったと言えるでしょう。

 話を戻し進めます。説明の都合上、番号を頭に足して昨日の4項目を再掲します。

①アプリの天才、故中村洋四郎氏を尊敬

②本を中村洋四郎師匠と一緒に出版した

③UNIX40年研究の大学准教授に新刊を紹介

④先生と懇意になった鈴木氏の感想に期待

 この4項目は文章を作る上ですべて私の大事な要件です。でも、同時では文は再合成できません。書いた文から作った項目を並べ替えます。今強調したい項目を先頭に、次に強調したい項目を末尾に持ってきます。他の2つは時系列順で間に並べるのがkoderaの小論の定石です。今回は定石通りでやります。

 一緒に首になった鈴木さんの良いビジネス相手を見つける活動の説明だと仮定しましょう。お願いしたのは大学の准教授でした。この項目は2番目の要件と仮定できるでしょう。間の二つを時系列と言うことはそのままです。

 すると次のようになるでしょう。

④先生と懇意になった鈴木氏の感想に期待

①アプリの天才、故中村洋四郎氏を尊敬

②本を中村洋四郎師匠と一緒に出版した

③UNIX40年研究の大学准教授に新刊を紹介

 何だか頼りない論旨のようになりましたが、これが私が言いたかった本当の論旨だったとまず仮定しましょう。仕事は目的があるので頼りないのは仕方ないです。表題や飾りの表現を加えたら済むはずだから。

 ですから、この並びで諦めて、全体の1つの文章にまとまりやすいように項目の目的語を重視し、できれば目的語を頭にして、項目文を修正します。私は説明の都合上、昨日、項目内の表現を修正しました。これも慣れたら簡単ですので重視せず説明を続けました。箇条書きの訂正ですので、全体でも簡単です。慣れたらすぐに、3分程度でできるでしょう。

 今日はここまでにします。

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モデルの実演

2016-05-24 07:17:01 | Weblog

 おはようございます。

 今日の私の記事の続きです。以下に張り付けたのは、ebisu先生の昨日の記事に先立つ、すなわち先生の一昨日以上前の記事の、昨日の私の先生へのコメントです。実はコメントバックも昨日の寝る前にあり、私は続いてもう一つコメントをしました。これらはebisu先生のサイトをアクセスしお読みいただけたら幸甚です。

 なぜ私が無駄そうなことをしたくなっていたのか、昨晩よく分かりました。ですから今しばらく我慢してお読みください。このようなことを女子大で10年、いいえシャープでも富士通でも20年、高校でも10年してきたのです。実績がある手法と言えるでしょう。40年以上してきたのだから、です。

サンプル問題

 以下の文章を読み4項目の箇条書き、なるべく1項目15文字以下、最大4行で、5分以内にまとめてください。できるだけ目的語を先頭に置きましょう。これがkoderaの小論の手法です。創造性開発への第一歩なのですと、女子大の講義では毎回の小試験をしました。評価は期末試験なしで、この小テストの採点でしました。100人でしたので赤入れも採点も大変でした。

 女子大の毎年の15回の最終講義では講義終了の5分で十分な人が増えました。この人たちは優にしました。でもたった7回でほとんどの人が2、3行は書けるまでマスターできました。偏差値50台、高校では偏差値40なので倍はかかりましたが。

「私はアプリの天才、今はなき中村洋四郎元富士通のシステム開発部隊の責任者に請われて、アプリの時代が来る、統合経営システムをしてみろと言われて富士通に入社しました。 なお、余談ですが、中村さんは私に本の再販を許可した直後、完成品を届けようとした日の数日前にお亡くなりになってしまいました。予定通りに、実際より1月早かったら直接届けられたのに。宿命だったのでしょう。
 それから50年近く、中村さんがなくなった今、スマホもWindowsもアプリが命の時代になりました。日本はアプリは遅れました。何かと言えば儲かるゲームばかりです。私は50年近く、アプリから内側に入っていき、行き詰まりまたアプリに戻りつつありました。この風潮が嫌いです。本当のアプリで各人が勝負して欲しいから。
 でも、今はアプリを開発する技術もノウハウも私では足りません。できるのは要求仕様と事業提案だけになりました。
 でも学校人は誰も私の提案や要求など聞いてくれませんでした。一生懸命に10年ずつやった女子大でも高校でも。要するに自業自得、信用されなかったのです。中村さんの言う通りにしなかった罰でしょう。
 アップルもスマホも我が世の春のアプリの時代なのに私は何もできませんでした。だから仕方なしに、高校生や大学生のために、悪戦苦闘していた時代の本をリライトしています。実技ができる鈴木さんのお蔭です。
 今日も昔のUNIXの素晴らしい研究者の先生に二人で本を売り込んできました。先生は大学で40年しているのです。今は複雑性の数理と情報リタラシーかもしれません。その先生に鈴木さんは気に入られたようです。
 偶然ですが、その大学は鈴木家のお近くです。天は味方してくれたのかも。今後は彼は就職支援で大学を訪れるようです。
 これからはなりゆきなど、ebisu先生のこのブログに書いてくれそうです。当方は何もしないでも話は進みそうです。あり難いものです。南無阿弥陀仏。 」

koderaの手法の例について

 ebisu先生は素晴らしい!koderaの手法もしないで書き下しでまとめているようですので。でもebisu先生だからできるのです。他の人はやってはいけません。この様にできる人は他に知りません。高々この程度で文章を止めないと人には伝わらないのが普通でしょう。だからkoderaの手法を力説し続けているのです。後はプレゼンまたは面談でやるのです。

・アプリの天才、故中村洋四郎氏を尊敬

・本を中村洋四郎師匠と一緒に出版した

・UNIX40年研究の大学准教授に新刊を紹介

・先生と懇意になった鈴木氏の感想に期待

 今日は記事を2つ書きました。同時に読んだ方が理解しやすいでしょう。どうなるのか分かりませんが。南無阿弥陀仏。ここまでにします。

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記事とコメントの統合化

2016-05-24 04:20:08 | Weblog

 おはようございます。

 いつも朝早く起きて、眠たいのでebisu先生のブログを読むことが習慣になりました。先生の記事を読むと目がさめてくるからです。前回の先生の記事に書いたコメントを、次の日、今朝もですが私のブログの記事に張り付けています。http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-05-22-1

 今朝、中村師匠が10年以上前に言っていたことを思い出しました。ERPはドイツにやられた。追いつくのは難しいと。SE会社の良い統合システムも難しいからでしょうが、富士通系の流通関係の、数多のSE会社に、富士通常任顧問として中村さんは講演旅行をしていました。講演会に使っていた資料を頂いたわけです。

 私は私のブログで「中村」さんについてはたくさん書きました。中村で検索してもたくさん出てきます。私は時々、時間のある時に通して読んでいます。私はハラハラドキドキして、今でもわくわくしてきます。ボケ防止に良いのでしょう。

 検索ができる「中村洋四郎さんの構想」に書いたように、学校の要求条件にすぐ転用できると思いました。言いすぎて、顎も喉も舌も疲れました。今でも思っているのです。いろいろプレゼン資料も作り、指も頭も疲れました。今でもブログだけは書いています。この記事の要点は、再利用の仕組み、パッケージ企画の仕組み、人材育成の仕組み、プロジェクトマネージャー発掘の仕組みが大事だと言うことです。

 私はこの資料を参考にせず、理事長に提案するための企画案を作成して渡したあとに資料整理中にこの資料の凄さに気が付きました。本当なのです。私の要求条件と中村さんの流通SE会社へのアドバイスは瓜二つだったのです。

 流通SEと学校教育は製造に比べて比較的容易だと二人は考えていたのかもしれません。トヨタの製造管理や生産管理を学んできて、富士通にさえ導入するのは中村さんは難しいと考えていたのでしょうが。私は富士通の全工場を調査したことがありました。止める前の1年間。2名の富士通顧問のお方とともに旅行三昧したのです。

 私はシャープ時代、製造と保守のシステム開発で2度ほど外部の技術者としてオブザーバーで関与したことがありました。見事な失敗を見てしまいました。でも、その失敗は外部には出ませんでした。プロジェクトと計算機センターで情報は止められていたようです。

 まとめです。製造システムに比べたら教育システムは簡単でしょう。地域の学校がいくつか集まっただけでできる範囲だと今でも思っているのです。

 以上がコメントの、ほとんどそのままのコピーです。悪く言えば手抜きですがシステム開発の要件はプログラムや要求条件の使いまわしなのです。ここまで書いたら昨日書いたコメントもこのブログの次の記事としてコピーしたくなりました。

 まだ次に続きます。

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ebisu先生への返信

2016-05-22 04:29:37 | Weblog

 おはようございます。コメントがあり、コメントバックを書きました。でも長くなったので本文にも掲載します。エビス先生の真似です。(笑)

 概況の説明としては過不足なく素晴らしいと思います。凄い説明です。
 でもドロドロしたした底の階層を嫌と言うほど味わったので、ジョブス以上、ゲイツ以上の凄い起業家はアメリカにはゴロゴロいました。当然です。

 たまたまの戦国時代の覇者、家康のような男が彼らだった。信長もいれば羽柴筑前も。ここまでは常識でしょう。でも私は日本にもいたと言いたいのです。私は黒田家に滅ぼされたバカな家の末裔、塾の経営者の末裔なのです。天才は私ではありません。この時代の英雄の卵、10本の指では足りません。この記事のビジコンの関係者だけで5人は知っています。


 日本には投資家がいなかった。資本があってもしなかった。アメリカには投資したり、冒険家にはお金を出したのに。ベンチャーに投資するなどなかった時代だったのです。


 実はエビス先生のコメントを読むと、根室や北海道の状況は当時と全く同じ、多分、日本中も似たような状況なのでしょう。お金が目的でお金を創る国民と、お金はリタイヤ後の好きな慈善事業に使う国民の差だろうと言うのが結論なのです。


 ですから、貧乏な私はできる範囲で自分でボランティアの教育活動で、できる体力と経済力の範囲でやっています。

今日はここまでにします。

追記

-----------------

以下にebisu先生のコメントを貼り付けます。

何が主流になるのか誰にも読めなかった時代の思い出 (ise toshinobu)2016-05-21 21:35:51koderaさんの記事を読み解くために、ネットで検索した結果を整理してみました。

IBMシステム32は1975年、システム34が1977年のリリースです。
システム32はフロピィーディスク装備+固定ディスク+コンソールの「オフコン」ですね。smallコンピュータに分類していいのでしょう。
Intel 8008は1972年4月のリリースです。14ビットの外部アドレスをもつ、8ビットCPUです。
Intel 8080は1974年4月リリースの本格的な8ピットCPUでした。
Z80は1976年にザイログ社がリリースしたCPUです。
16ビットCPUであるIntel 8088が1979年にリリースされています。
1980年代に汎用小型機が普及します。
パソコンはまだ仕事で使えるほどの汎用性がありません。ワープロ専用機の時代です。

こうした流れを見ていると、パソコンのCPUとなるマイクロプロセッサが4ビットのオモチャから、加速的に強化されていくのがよくわかります。
16ビットCPUの登場によって、いよいよパソコンが仕事で使えるようになりました。WORDやEXCELがパソコンソフトとして登場し、ワープロ専用機が消滅します。
1982年に爆発的に売れた16ビットマシンのパソコンPC-9800が発売になっています。
DECの32ビットミニコンが1979年頃でした。汎用大型機だけでなく高性能ミニコンも、パソコンに食われて消滅しました。DECや画像処理に特化したマジスキャンというミニコンメーカがありました。

扱えるアドレス空間やメモリーが指数関数的な拡張を遂げていきますが、4ビットCPUの時代や8ビットの初期の頃を知っている専門家ほど、指数関数的な発展の先にあるものが読めなかったでしょう。
もちろん、アップルのスティーブ・ジョブスだって、想定外だったのではないでしょうか。

1990年代にパソコンが汎用大型機を駆逐してしまうなんて、1970年代にはだれも予測できなかった。いや、80年代半ばになってもわからなかった。
でも事実は汎用大型機がパソコンの並列処理に変わってしまいました。
指数関数的な発展は人間には読みきれないものなのかもしれません。
そうしてみると、人工知能の進化も人間の予測外のことが起きるのでしょう。

コンピュータの指数関数的な性能アップはわたしには危険な臭いがします。

再度以上

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スモールビジネスコンピュータ登場前夜の状況

2016-05-21 07:04:08 | Weblog

 おはようございます。

 コンピュータの激しい技術革新が起こり始めた時は私が就職した西暦1970年前後とすると、今の方式のコンピュータが生まれたのは私の生まれる直前の、西暦1940年ごろと言えるかも。そして1980年ごろにシステム開発の手法が明確になり社会システムへの挑戦が盛んになって行きました。以上は世界、特にアメリカを中心とした情報技術市場を見て言えることかもしれません。

 私も富士通も日本もIBMを見ていれば情報技術の行方は予測できました。IBMがFSシステムの試作機と言われた、画期的な方式のシステム32を発表しました。アメリカでの大投資にかかわらず苦戦していたのかも。すぐ後に少し意外だったのはメインフレームの中小型機Eシリーズ4300をアナウンス。でもこのシリーズは大成功し始めました。日本のメーカーがEシリーズの延長にコンピュータ市場の将来があると思うのは当然かもしれませんでした。私も、多くの20歳代の技術屋はそのような見方に不満があったかもしれません。少なくとも私の周りにはそのような人がたくさんいました。

 当時まだインテルはベンチャー企業か誕生前だったはず。シャープではなく、当時の日本の電卓メーカー、ビジコンがシリコンバレーで電卓用の1チップコンピュータを開発し始めました。資金がショートし、シャープや日本のメーカー、そして当時の通産省にも資金の投入や買収依頼があったはず。しかし、おもちゃのような4ビットコンピュータなど使い物にならないとしてはした金すら投じなかったはず。

 湯水のような第五世代コンピュータプロジェクトへの補助金で予算がショートするわけがない。お役人やお役所の研究者にとって、電卓など美味しい開発プロジェクトではなかったのでしょう。シャープはしっかりとその電卓用チップを利用し、電卓市場の勝者になって行きました。乗り遅れたキャノンや東芝などなど、カシオ以外は脱落して行きました。

 私は変わり者、4ビットコンピュータは制御用のシステムや電卓市場の覇者だけでなく、その次の、日本との共同開発が提案されたはずの8008などの1チップ8ビットコンピュータのICはマイコン市場の覇者になると考えてしまいました。アメリカではそのようなマイコンベンチャーがぞろぞろ生まれていたのです。富士通高専のゼミ講師で勉強できました。シャープのZ-80やMZシリーズなどが誕生し、日本市場の覇者となりつつあった時でした。

 通産省もIBMも富士通もシャープも時代を読めなかったと言えるかも。いいえ、アメリカのベンチャー経営者も投資家も大学教授もその後の進化のパスを見誤っていたのかも。未来を予測することはできない、未来を創ることができるのだと、確かドラッガー博士の言葉にも、サードウェイブの本にもあったように記憶していますが、ぼけ老人ですので定かではありません。でも、アメリカと日本のその後の市場の変化は大違い、日本は真似ばかりしていたのかもしれません。不思議でも何でもありませんが。

 長くなりました。言いたいことは言えないままに、今日はここまでの当時の状況説明だけで終わります。

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