おはようございます。当時の話の続きです。なかなか終わりません。
首都圏に転勤し、旧友と再会し、交流できることが一番の楽しみでした。早速、富士通の同期入社、出世しそうな悪がきに電話しました。その後確かに彼は常務に昇進しました。私は電話で会おうと言いました。しかし、今は超多忙。しばらく無理とのこと。なお、彼が集合論データベースのフアンでした。女子大でデータベース論を私が教える決断をした、重要な要因でもありました。
彼は昔から、今でも私に技術的な評価を押し付けてきています。自分は無理だが中村さんが体調を壊し、現役から引退した。富士通高専の校長になってリハビリしている。ぜひ、行ってあげてほしい。中村さんは富士通の元取締りでした。友人と私の入社当時の課長さんでした。コンピュータの私の師匠です。彼はシステム開発の天才なのでしょう。当時同じ課に配属された新人は私を含め、34人ほどだったのでは。周囲の課から転属した人も合わせると40人近くが新しい仲間でした。全員で150人近い課があったわけです。
本の構想ができ、本の執筆を始めたころ、かつて所属したことがある2研究室の先生に電話し、面談依頼をしました。1人は超多忙な人。でも早速、面談を予定していただけました。もう1人はかつて同じ研究室にいた5年先輩。先生は私を呼び捨て、私はさん付けでした。いつも昼前後は研究室にいるから勝手に来い、と言われました。ロボットの第一人者だったボーリング仲間の先生にも電話。大学を訪問する日の夕方ならOK。夕方は大学にいる。何時でも寄ってくれと言われました。
三先生に後日訪問。研究室の皆さんへの菓子折りを携えて。積もる話をし、時間オーバー。非礼を詫びて退出。しかし、偉い先生は違います。3人とも同じようなことをおっしゃいました。企業の人が訪問してくれるのはありがたい、情報が向こうから歩いてきた、と。私は退出のとき、女子大の先生をするのが夢だった、母校は歯が立たない。お料理を教えられるのが嬉しい。そのために教科書を書き始めた。完成したらお届けします、と。これが営業の基本です。宿題を自分で宣言し、再度の訪問を約束してしまいます。
帰りがけに、正門の前の、学生時代に親友と話すときに行った、バー・フローラを覗いてみました。なお、彼は既に仕事のし過ぎで帰らぬ人でした。この日も、相変わらずママは楚々と綺麗でした。昔から此処は野球部員の溜まり場でした。野球部員の憂さの捨て所だったのでは。私は野球部を辞めた後も、時々ママの顔を見に行っていました。昔はもっといたのでしょうが、私が見た中でこの大学の投手の超天才児は二人だけです。
一人は17勝を上げた伝説の土佐の人。後に教授にもなりました。彼が得意なのは、長嶋も討ち取った。ストライクを投げず、の自慢話。もう一人は弱小大洋ホエールズに入団した苦労人の関東人。彼もプロの長嶋も抑えらた投手なのに、逆転負けばかり。何時も終盤にエラーがでたためです。それでも彼は決して周囲を悪く言いませんでした。お前なら抑えられるとお前は云いたいのだろう、と帰り道でも明るく冗談を言っていました。再会したかったのですが、此の頃、病に倒れ、帰らぬ人となってしまいました。彼のことを考えるだけで、涙が出てきます。バーに客がいないと、ママは昔のエースや首位打者の話をしていました。私が聞き役だったわけです。なお、確かママの妹さんは若いときに住商勤務。若くして死んだ私の親友も住商のやり手。住商とも不思議な縁がありますが、野球とは関係ありません。
ママは、他にお客がいると変わり、バー全体が賑やかになりました。お客の多くは大学教授。皆さん学生時代に戻っていました。彼らには、野球部員の悪口が魚だったのかも。根性とバカ力がとりえの、煩い、先輩がまな板に乗っているのですから、私は美味しく酒を飲めました。ママ曰く。ベースボールではない。根性と坊主頭の高校野球の成れの果て。ザル内野、エースの足を引っ張るだけ。ロボットのようにぶきっちょ。レギュラーになるのが間違いなど、酷い表現を面白おかしく、かつコロコロと、小さな、でも通る綺麗な声でお客の話題に入ってきました。
大学の医学部の諸先生も、ママに憧れていたのか、ちょくちょくお見えになりました。農学部の煩いお客も恒例の人でした。工学部など目だっていませんでした。社会人も多くが功なり遂げた人。弁護士試験に落ち続け、諦めて、教え子と結婚した塾の成功者。何時行っても必ず出没する人がたくさんいました。その日も農学部の変人の友人が来ました。何時も割り込んできて煩いから、話したくない、と思っていた先生でした。
すみません。余談ばかりで、書きたかった奇遇まで届きませんでした。でも、今日はここまでにします。