おはようございます。
シャープが液晶生産を止め、堺のディスプレイ工場を他社に売却すると新聞報道で知りました。液晶や部品の従業員の希望に従い、異動か退職かソニーに出向するようです。私のシャープ定年退職は20年前。当時、多岐の液晶事業が大成功。亀山が立ち上がった所。私は人材会社の顧問になり、大ピンチのソニーの社員の転職を手伝いました。諸行無常を感じます。
私も定年退職時、再雇用希望か人事に聞かれました。長年、浅田専務の産業機器事業本部に所属し、企画と研究開発を担当。液晶の事業企画部門所属もありましたが、液晶は素人でした。定年後は情報分野の小企業の顧問となり、趣味にするつもりでした。仕事は苦役や労働ではなく、職業が人生の目的になっている日本人が多いと思います。私もそうでした。
私の定年時の新人もそろそろ定年退職。採用担当課長と一緒に大学巡りし勧誘し入社した人、他部門から私の所属に異動してきた若い人など、昔の部下だった数名と年賀状をやり取りしていましたが、会社の状況はネットや新聞記事で読むだけになっていました。
バブリーな新社長が対抗馬だった浅田氏を窓際にし、大和郡山の液晶部隊が天理に異動し、液晶事業が始まりました。此処が分かれ道でした。多岐に大液晶工場を新設し、積極的に外販を始めました。浅田氏は退職し、任天堂の副社長、社長に。禍福は糾える縄の如し。
シャープは日本初のテレビを作ったのにブラウン管は日立製。世界一の経営者と持て囃された社長からテレビ事業育ちの社長になり、大型液晶テレビの一貫生産工場の亀山工場を建設。液晶のOEM事業が拡大。テレビを全て液晶にすると宣言し、亀山ブランドが誕生しました。
目標を達成し社長が勇退し、若い液晶事業統括の取締役、液晶全分野に投資する勝者の論理の持ち主が新社長になり、堺工場の建設を決定しました。私の定年直前でした。
堺に多数の担当者が転勤し、かつての部下も要職で異動。嫌われ者の私が迷惑を掛けないために年賀状のやり取りだけでした。彼は10年前に定年退職し、数年前に再雇用終了。でも私には堺は遠すぎます。
私は似非江戸っ子のためできませんが、「ええ加減でやりなはれ」の関西人精神、亡くなったキダ・タロー氏の好きな言葉を忘れずに生きて下さい。この言葉は5月17日の読売編集手帳の別のテーマで知りました。出向より退社を選び、高校非常勤講師になるか塾経営挑戦も良いのかも。
関西人は個人を尊重します。部長時代に同じ事業部の課長が退職し大阪で塾経営を始め大成功しました。一時部下だった人が異動し、結婚し退職。2人は受験校の教員になり、年賀状を頂き、先生家業を楽しんでいるとありました。随時随所楽しまざる無し。南無大師金剛遍照。
ワンマンの
付けの払いに
ええ加減
今日はここまでにします。
オープン化の波に飲み込まれたと思ったら、クラウドというメインフレームを隠れ蓑にしながらオープンンの皮をかぶってしっかりと生きています。狐の皮を被った狼です。ノーベル賞学者を数人抱えているだけあって、強かな生き方です。中小企業の富士通はメインフレームを手放すという利益の源泉を失ってどこに行くのでしょうか?
顧客様のデータそのものが生きるか手であるのに、それを手放して何で儲けようとするのでしょうか?
新興のAI会社に立ち打つ武器もなく、源泉を失ったら奈落の底に一直線に落ちます。
Niftyの同好会は先を行っていました。これを活かした仕組みを作れば、今の生成AIが活きました。提案は当時のNiftyの責任者がやんわりと否定。その後、オアシスの神田さんが社長になり、Niftyのビジネスはお釈迦になると思っていました。
でもアドレス変更が面倒で今でも使っています。あと少しでどうせ必要なくなるのだから。(笑)
>コメントをありがとうございます。... への返信
当時の社長は、関沢義さんでした。
関沢さんに、エンド・ビジネスを持つことを提案しましたが、富士通は代々エンド・ビジネスを持たない事のしている。お客様のビジネスとブツカルからという理由でした。だったら、TOWNSで
「SONYに対抗するゲームのビジネスなんぞ、やるな!」と言ったのですが、無視されました。
だったら、IBMのように新規ビジネスを追求して、他社が並んで来たら、会社ごと売却するような、画期的な新製品を追求しないとダメなのですが、それほどの人材はいません!!。
その提案を蹴ったのはシャープ。浅田さんの対抗馬だったシャープのオーナー家の婿養子だったと思います。
それで浅田さんは任天堂に転社。幸せが待っていました。社長の時に会いに任天堂本社に行きました。君も元気で良かったと言ってくれました。浅田さんのお陰で楽しく窓際に座っていられたと思っています。仕事で大事なのは人の器です。