創造性の開発 新規商品を企画しよう

新規商品企画の成功学
求むる所第一義
随時随所楽しまざるなし

止めるのも大変

2020-04-29 08:14:36 | Weblog

 おはようございます。

 ステロイド治療のお陰で脳幹の影が消え、年末に退院し新年からバドを始めようと、近所のオバさんクラブに参加。前には動けても、踏ん張りができずこけました。前への転び方はスライディングと同じ、得意です。

 後ろには動けませんでした。気合を入れるとやっと動け、後ろに傾いたら後ろに倒れました。頭を保護する厚いキャップを被りました。整骨院の針灸、マッサージ、整体をしても効果なし。数軒の整骨師が不思議と言いました。

 シャトルへの始動が2か月前の入院前より悪くなり、ステロイドが次第に切れ、坂道を登るのが次第に大変になりました。そこで会員の東大整形外科の先生に診察をお願いしました。

 赤門から入ると医学部の古い建物がいくつかあります。法医学教授の大先生との面談に来た所、助言し合った所。病院脇のビルにもシステム担当の教授との薬剤データベース導入の打ち合わせに来たことがありました。

 東大病院は慣れていました。今は湯島から近く、外来もあり、湯島側の小さな裏門の鉄門が便利です。医学部バドミントン部は鉄門クラブと言います。部員数人もクラブ会員でした。

 夏の盛りに湯島から東大病院までの坂道を数回登りました。先生はMRI画像を見て、脊柱管狭窄症があると言い、内視鏡手術が得意な整形外科専門の病院と先生を紹介されました。

 紹介された専門病院の先生は、簡単な手術、3日入院し、リハビリすれば脊柱管狭窄症は治ると言いました。でも私はすぐ手術を受ける自信がなく、法医学の大先生に相談しました。

 脳幹の炎症がステロイドで直ったのが奇跡、2か月散歩していて今の状態になった、手術は何が起こるか分からない、おまけの人生の歳だから騙し騙し生きろ、止めた方が良い、と言われました。

 専門病院でも理学療法士にリハビリ治療を半年して頂きました。足首の神経の伝達や筋肉を検査し、検査数値に異常がなく、足首の力を測ると力がありました。でも足先に力が入りません。筋肉が協調して動かないように感じています。

 理学療法士も脳幹の陰と脊柱管狭窄症が関連し、足首に力が入らない、バランス感覚がないと考えたようです。気長に自分でリハビリするしかないと諦めました。バドは駄目のまま。残念ですが。

 主宰のバドクラブは幼児と小学生の相手だけになりました。子供同伴の会員も減り、クラブ主宰に刺激がありません。毎年、今年が最後と思いますが、会員からの要望もあり、なかなか止められません。南無大師金剛遍照。

 今日はここまでにします。

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バドのお陰で命拾い

2020-04-27 04:25:01 | Weblog

 おはようございます。

 5年前ほどの寒い時期の明け方に足が攣り始めました。フットワークが急に悪くなり、整形外科に行きました。腰のX線写真を撮り坐骨神経痛と診断され、湿布薬か芍薬甘草湯を処方され、2か月経っても効果無し。自分で治す坐骨神経痛を本屋で3冊買い、努力しても労多くして益なしでした。

 私はそれまで25年ほどバドミントンを週3日し、1回は15分ほどジョギング。バックハンドが苦手でも足と体力に自信がありました。発病の前年の夏ごろバック奥のクリアーをラウンドで相手のバック奥にクリアーで返すショットが空振りし始め、目が悪いと思い、目薬を色々試しました。

 目薬に効果なく、低周波治療器3種類と空気式マッサージ機を購入し、毎日使い、色々な市販湿布薬を試しました。でも通勤のバスシートに30分座り、降りると痺れ左ふくらはぎに激痛が走り、腰を揉むと急に歩けました。でも高校の非常勤の課題を打ち合わせできず、自然と首になりました。

 整形外科に行き、坐骨神経痛と診断され、石楠花カンソウ湯と湿布薬を2か月ほど毎週交互に貰いましたが効きませんでした。次に整骨院の針とお灸とマッサージをしてみました。当日は足が軽い気がしても、1日経つと元の木阿弥でした。

 その秋から車運転が下手になったと感じていました。バド会員の血液内科の先生に良い眼科を教えてとお願いしました。彼は薬で治らないなら、目ではなく脳かもしれない、脳外科か神経内科でMRI検査した方が良いと教えてくれました。空振りが次第に増えていました。

 MRIできるお医者さんを探していたら、妻のヘルパーさんがCTなら近所の神経内科にあると言いました。彼女は優しい性格、彼女が通えるなら優しい先生だとその日の午後に行きました。何と松戸市立病院神経内科を10年ほど前退職し、ここに開業した先生でした。ラッキーでした。

 すぐにCT検査し、画像診断し、脳幹にかなり大きい炎症があると言われました。色々見る方向を指示され、左上方向に輻輳があると言われました。すぐ松戸市立病院の脳神経内科と脳神経外科に電話してくれ、私はそこからタクシーに乗り病院に行きました。もう外来は終了していました。

 市立病院の神経内科ですぐ診察し、MRI検査をしてもらい、今晩から緊急入院と言われました。でも自己責任としてお願いし、休日を1日挟み、2日後に入院しました。その後の経過はもう以前詳しく書きました。通っている神経内科の先生は市立病院の神経内科の部長さんでした。

 妻はバドのお陰で2日に渡る2回の開頭手術と大出血開頭再手術に耐えられました。ステロイドを飲み地獄に引き込まれる感覚でした。私はバドのお陰で輻輳が分かり脳幹の炎症が見つかり、ステロイドインパルス治療で仏様の声を聞きました。私たちはバドのお陰で生きられていると思います。

 今日はここまでにします。

追記です。リハさんへ違います。コメントを楽しんでいますよ。コロナが無ければどこにでも行きます。今は近所の獣医さんでステロイド大量治療。先週土曜日朝に切り、その日の夜も3本足なのに坂道を駆け上ります。大変なお嬢さんなのです。今から散歩です。バド主宰を1年半続けたくても、車の免許の更新に自信がありません。本当です。

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走れないのに走らされ

2020-04-24 04:13:44 | Weblog

 おはようございます。

 哺乳類の視覚は光量の増減に感応します。愛犬は遠い空間を飛ぶコバエに吠えます。静止した剣闘士に闘牛は気が付きません。人は眼球を細かく動かしています。常に目が動くため、物体が動くのと同じです。

 妻は1回目の手術の後、食卓越しの私が持つ包丁を怖いと言いました。私が短気なせいでなく、手術で視覚野が損傷し、空間認識が異常でした。目の輻輳が治っても、距離感が戻るまで5年近くかかりました。

 歩道を歩いていても車道の車を怖がりました。大きい車ほど怖く近く感じたそうです。視覚処理の脳が回復するまで、私が感じる危険性と妻の感じる危険性が違いました。横から来る車に気が付きませんでした。

 後ろから近づく車に危ないと私が言ったら、思わぬ反応をしました。子供と同じでした。愛犬は猫や犬や鳥が通りにいると突然ダッシュします。妻と愛犬と私は人や車の少ない道を選んで散歩しています。

 外界の倒立像が網膜にでき、視覚細胞から脳幹経由で小脳に送られ、側頭葉経由で大脳全体に送られます。眼球は空間微分値大に引き付けられ、視差のある狭い空間の2つの像から直角座標のひとつの正立像が合成されます。

 妻は2回目の手術で神経を切り、生じた輻輳は半年ほどで消えました。でも眼球の動が悪いのか、運動野の損傷のせいか、冷蔵庫の中の物を探すのが苦手になりました。

 バドミントンが目のリハビリに効いたと思います。ドライブはすぐ打てました。横に動いて打つのに1年かかりました。視覚と手の連動は複雑です。プッシュはさらに1年ほどかかりました。今もインアウトの判定は苦手です。

 妻が犬仲間と公園で出会い、立ち話していた数年前、私が愛犬と先に行きました。妻は辺りを見回し、探すのが苦手です。私を見失い、小走りで追いかけ、敷石の継ぎ目で転倒。お皿は無事でも膝を痛めました。

 整形外科に通い湿布薬を貰い治療しました。1か月ほどして夜中にトイレに起き、ベッドから降りた時、ぐきっと言ったそう。膝をかばい腰を痛めました。膝と腰の治療のため3か月ずつ3か所の整骨院に1年近く通いました。

 3か所の整骨院の療法は違いましたが、それぞれ良い点があったよう。膝と腰の回復は脳の回復より大分速く、今は体育館は走っています。腱鞘炎が発症し打てませんが、目と足は大分戻りました。

 犬は鼻と耳が敏感です。落ちたおやつを嗅いで探します。愛犬は100メートル以上先の見えない仲良し犬の匂いに感応し突然走り出し、追いつくまで走ります。私は綱を引っ張られ、一所懸命に歩き走り、情けない足です。

 ヨイヨイの足は回復しません。歩く速さは人の半分以下。コロナ騒動になり、朝晩毎日、夜行性夜行性と言いながら散歩しています。まだお陀仏はできません。愛犬、妻と長生き競争をしています。南無大師金剛遍照。

 今日はここまでにします。

追記:今回、視覚とバドミントンを書き、バドの練習法を書きたくなりました。リハさん、クリックしてみてください。(笑)

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コロナ騒ぎの中の診察

2020-04-22 04:17:25 | Weblog

 おはようございます。

 私の入院は2016年11月だったと記憶しています。神経内科の担当医、今は部長さんが薬剤の組み合わせを試しつつ、看護婦さんが度々採血し、薬剤の量を調整。私が正しく飲めたか看護婦さんが深夜にチェックに来ました。

 妻の入院中は1日分の薬の仕分けを私が担当し、退院後も自宅でしていました。私はできると思い、薬の仕分けを看護婦さんにお願いしませんでした。私はうっかり屋、入院早々間違え、抗高血圧薬1錠を余計に飲みました。

 ステロイド薬はアドレナリンが出て、躁の副作用があり、頭が異常に回りました。お父さんはおかしくないかと担当医が息子に尋ね、何時もあんな調子と息子は答えたそう。3週間の余命と聞き、病室で遺産分割しました。

 私の部屋は奥から2番目、トイレと洗面所のすぐ近くでした。その奥は重篤患者さんの特別室。亡くなる日が近づくとお坊さんや神父さんが講話に来ました。親戚が連れだって頻繁に来だすと旅立ちが近いと思いました。

 私は薬の副作用を心配し、水や牛乳をたくさん飲み、夜中に数回トイレに行き、明かりとストーブがあるといよいよと思いました。旅立ちはまだ暗い内。看護婦さん2人が割烹着カッパを着て移動式湯舟を用意していました。

 夜明けの行列はほとんど毎週でした。隣が旅立ちの部屋だったか。妻の時は受付近くの裏通路の部屋で呼吸器の音が響き、スパゲッティ状態の人が見えました。私の時は裏通路が通行禁止のため分かりませんでした。

 2017年夏、新病院の見学会があり参加しました。綺麗な立派な病院を副院長が説明してくれました。個室が増え、6人部屋は4人部屋になり、陰圧室もできました。快適そうな箱物でした。その年の12月26日に移転しました。

 2018年1月松の内に妻の診察があり、運転手でお付き合い。まだ事務作業がごたごた。妻は3か月に1回通院し、次は今月末、MRIです。間もなく私は後期高齢者。私と妻はシャープ健康保険から国民健康保険に切り替わります。

 妻が切り替え手続きをネットで調べ、県や市で保健所行政が色々だと言いました。私は市役所に切り替えを申請します。松戸市は保健所が市役所管轄。総合医療センターがコロナ患者も受け入れる感染症対策の無二の砦か。

 担当医が4月から脳外と小児脳外の部長を外れ、脳外は兼務、専門医、もう技術医局長と妻が調べました。病院長も千葉大卒の脳外の専門医と血液内科の専門医。コロナ院内感染があれば、頑張り屋の新技術局長が陣頭指揮か。

 妻は概ね楽観的ですが、悪い予感がすると言います。妻の悪い予感は当たります。担当医はもう対策チームの責任者かもと私は心配していますが、医療崩壊になればMRIは無理です。今回やるしかなさそうです。南無大師金剛遍照。

 今日はここまでにします。

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移転の3年前に入院

2020-04-20 04:31:36 | Weblog

 おはようございます。

 私は50前に十二指腸潰瘍で会社から市立病院の夜間診療に来て治り、数年後に再発しました。妻の退院後、3か月毎に診察。私は運転手。MRI検査や血液検査に度々付き合い、私も胃腸に心配があり2人で毎年、この病院で人間ドックをしていました。

 私の脳幹の炎症は4年前、病院移転の3年前。妻の担当医が脳外と小児脳外の部長。手術チームの1人が出世し病院長でした。2人はまだ脳外の担当です。脳外は神経内科と病棟の階が同じで、部屋の区別は分かりません。

 私は神経内科に入院。注射が上手な婦長さん2人、優しい2人、若い2人が担当の看護婦さん、ナースコールですぐ来ました。ステロイド点滴用針や脊髄液検査針挿入の慈恵卒が東邦卒の後期研修医に代わり、2人とも上手。ラッキーでした。

 6年で変わったのはベッドの下の埃。おじさんが毎朝ベッドの下まで床掃除していました。建物は古くても部屋の中は清潔でした。院長が脳外医のためほこりの悪影響を心配し、清掃にとても煩くなったようです。

  以前は廊下の突き当りのドアーから屋上に出て景色を眺められました。夜空が綺麗でした。大先生や、妻の母親に屋上で電話しました。私の時は一般人は出るのは禁止でした。ドアーの窓から建築中の次第に高くなる新病院を眺めました。

 入院と退院直前の夕方、脳外の部長さんが部屋に突然現れ、症状と治療法を説明してくれました。年寄りの発症は初めて。若い人が稀に発症する箇所と言い退院を喜んでくれました。今も私の体調を気遣ってくれています。

 神経内科の担当医は他病院の血液内科に勤務し、少し前に松戸に来た先生。症例の病院検討会に脳外の部長も出席していたようです。入院は地の利、天の時、人の和があり、2人部屋に同居はなく実質個室、幸運でした。東京のPET検査が難儀でしたが。

 担当医は朝夕に回診にきて千葉大学にも報告したよう。でもステロイドインパルス治療だけで影が薄れた炎症の原因は不明でした。退院後、私が法医学の大先生に経過を説明しました。あり得ない、奇跡と言われました。

 担当医は苦労人なのか研修医や看護婦さんへの指示が上手でした。私は長年バドミントンを主宰してきたためか肝臓、腎臓、骨が良く、体力がありました。担当医の決断が早く、強いステロイドインパルス治療ができました。

 ステロイドの影響か寝ているだけでお腹が空き、不眠と便秘になり、看護婦さんにお世話になりました。病院の売店や妻にアイスやヨーグルトなどの配達を頼み、友人にもゼリーやクッキーを頼みました。息子は靭帯損傷手術で松葉杖でした。数回何かを持って来ました。

 炎症に気が付く前から誤嚥があり、誤嚥の原因は炎症と思っていましたが、リハビリ師は気道の弁開閉と形状の異常が原因と言いました。私と指導法の相性が悪く、息が詰まり死ぬ思いもしました。誤嚥指導は大変でした。

 退院後、病院が移転するまで2年近く半年ごとに旧病院に通い、2度MRI検査し、担当医に全快と診断され、近くの神経内科医院に通っています。整形外科や整骨院にも通いましたがもう走れません。今は神経内科だけです。

 今日はここまでにします。

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2回目の妻の手術

2020-04-17 04:33:26 | Weblog

 おはようございます。

 妻の1回目の手術は10年前。その1年後にまた入院。脳外と神経内科の病棟に年配の婦長さんが他科から来て1人増え、2人でした。術後、朝晩食事を届け、面会時間の規約厳守を言われるのが心配でしたが、大丈夫でした。

 1回目は右前頭葉にピンポン玉大の髄膜腫。今回は左目後ろの1cmほどの髄膜腫。目の後ろとは嫌な予感がすると妻は言いましたが、担当医はすぐ終わると言いました。前回と同じ部屋に入院しまず検査。2日後の朝10時にストレッチャーに移され出発。私は待合室で待ちました。

 手術メンバーは1回目と同じ4人の先生。易しい手術と私は安心し待っていましたが、眼球の神経と血管を切り、夜の11時過ぎまで掛かり、やっと私は帰宅。でも夜中に検査し、硬膜外血腫が発生したと分かり、除去手術を再び。多分貼った人工硬膜の剥がれ、よく接着し更に縫製したと翌朝聞きました。

 集中治療室で面会したら、包帯の頭がサッカーボール大に腫れ、間から体液を排液する管。名前を呼んでも反応無し。看護婦さんが懐中電灯で目を照らしても反応なし。でも瞳孔が反応したのか大丈夫ですと言いました。

 1回目の術後、食欲が直ぐ戻りましたが、今回はダメでした。翌日の面会時間に看護婦さんがアイスクリームとヨーグルトは食べさせ易いし栄養もある、買って来て良いと言いました。私が売店で買い、看護婦さんに渡しました。冷蔵庫で個人別に保管し、できるだけ食べさせると言いました。

 1週間集中治療室にいて個室に移りましたが、抗生剤が効かず、熱が下がらずぼんやりが続き、脇の下や首に冷たいタオルや保冷剤をあてました。数日しステロイド剤を服用し熱が収まりました。発熱の原因は接着剤のアレルギーだったようです。

 尿道管が外れても、トイレはナースコールでと言われました。脳外科病棟は戦場です。妻は夜中に1人で行き、看護婦さんが夢かと思ったそう。ナースコールを何度もする、痙攣する、怒る、泣くなどの患者さんもいれば、装置の緊急音も頻繁に聞こえました。

 眼球を動かす神経を切ったため酷い斜視になりました。私が朝晩、おかずを届け、夕食後、廊下の手すりを伝い歩きと輻輳と斜視のリハビリを手伝ったのがラッキーでした。退院まで3週間個室にいられました。

 松戸市立看護学校卒業の若い看護婦さんが、続けるのは無理、秋に東北に帰ると妻に言ったそうです。担当医は、妻が懸命にリハビリし、回復している姿を見せられる、彼女たちの励みになる、有難いと言ったそうです。

 退院前の1週間、1日中看護婦さんに苦情を言い、一晩中ナースコールする患者さんが遠い6人部屋から隣に来ました。個室のドアーも10センチほど半開きするのが規則でした。夕方に時々来る旦那がなだめ、静かにしろと言う話も聞こえました。奥様は近隣の外国人のようでした。

 看護婦も流石にこの部屋のナースコールを何回か無視。隣の女性の声も大きくなり、妻はよく寝られませんでした。そこで休日の外泊2泊を2度申請しました。担当医は退院日も早くしてくれました。人間万事塞翁が馬です。

 今日はここまでにします。

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看護婦さんは指導も大変

2020-04-15 08:53:08 | Weblog

 おはようございます。

 前回、看護婦さんの人数が小児癌患者さんに一番大事と思った経験談を書きました。妻と私の入院について昔から書いてきましたが、改めてお世話になった話を書きたくなりました。繰り返しも多いと思います。

 夕食後突然妻が痙攣。すぐ救急車を呼び、今は無い八柱病院に行きました。看護婦さんは多忙なのかつっけんどう。CT検査し、先生が側頭葉の影を見て、松戸市立病院でMRI検査すると看護婦さんに言うと、看護婦さんは突然優しくなりました。こりゃやばいと思いました。

 市立病院で脳外医が、今の担当医が待機し、MRI検査。大きい腫瘍と小さい腫瘍があり、ステロイドと痙攣止めを服用し炎症を抑え、大きい腫瘍の摘出手術をすると言い、そのまま入院。看護婦さんから入院手続きを聞き、私は2時過ぎに帰宅。眠られないまま朝になりました。

 それから着替え、タオル、おかずを持ち病院通いが始まり、2週間ほど後の連休明けの手術前日、アレルギー発疹が見つかり延期。担当医はステロイドと抗痙攣剤を色々変えました。3週間ほどで発疹が収まり、やっと手術になりました。でも腫瘍と硬膜の癒着が酷く、半日の予定が10時間以上でした。

 11時過ぎに担当医が私を呼び、摘出した腫瘍を見せ、手術経過を説明してくれました。2時過ぎに帰宅。よく眠れませんでした。朝食を食べよう、着替えやタオルを持って行こうと思っていました。そこに担当医から直ぐ来てくれと電話。まだ8時でした。

 回復が遅いと思った担当医がMRI検査し、脳内の大量出血を見て、すぐ再手術。前日は4人の脳外科医。徹夜明けの若い担当医と年下の医師だけですぐ再手術。若いから気力体力がありラッキーでした。

 妻は数日間、意識朦朧。私は15分の面会時間に毎日行きましたが、何で昨日は来なかったの、周囲の見舞いがバタバタし煩かった、時々看護婦さんが来るが先生は全く来ないと言いました。家族待合室で面会時刻を待っていた私は理由が良く分かりました。

 脳外科の集中治療室のベッドは3つほど。余裕が無く、予定の1週間を早め、4日で一般病棟に移動。脳外の先生も交代で度々集中治療室の当直をしていたようです。

 手術前後を合わせ2か月ほど入院。私は毎日面会。病棟の看護婦さんにとてもお世話になりました。当時、医療行政の変革時。病院はてんてこ舞い。若い看護婦さんは使命と私生活の狭間で悩んでいました。 

 婦長さん自ら患者の下のお世話もし、点滴針の挿入、先生への連絡、看護婦さんにテキパキ指示。丁寧にはっきり患者さんに指示。脳外と神経内科の患者さんが夜中に痙攣が起きると当直の看護婦さんが大変でした。

 新人は戦力ではなく負荷なのです。研修医と若い看護婦さんの指導が大変。人を増やして欲しいと婦長さんがお願いし、補助者を採用すると医師が答えていたのを聞きました。

 術後1ヶ月で退院。抗痙攣剤のアレルギーを発症。度々薬や量を変更し、痙攣も発症。ステロイドを中止し肺炎にもなりました。夜間診療を繰り返し、空きのある部屋で経過観察。数10人の患者さんの家族と出会いました。

 毎日お母さんを見舞いし、おかずを食べさせ、肩をもみ、熱湯を桶に入れ、タオルを絞り、足のマッサージの面会者。寝ていても足の垢は大量に出るものだと知りました。家族がほとんど面談に来ない人もいましたが。

 洗面所の流しで食器やタオルを濯いでいると色々な方から質問されました。疑問があると法医学の大先生に電話し、教えて貰いました。自然と緊急医療の問題を学んでしまいました。

 今日はここまでにします。

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看護婦さんは千手観音

2020-04-12 07:56:34 | Weblog

 おはようございます。

 報道番組で病理の先生が患者数を煽り、検査機械と薬を紹介。他は番組宣伝、広告、詰まらない食の旅、お笑い。夜遊びは情報弱者と危ない人になり、テレビ業界に肺炎患者が増え、ネットでアホがまだ真似して人気取り。

 データベースシステムの研究をしていた35年ほど前、東大医学部の先生と理科大数学科の先生と定例的に情報交換。小児癌患者院内余命データベースを見せて頂きました。多次元解析しましたが、予想された結果でした。

 病院名、ベッド数、癌の病名、医師の人数、看護婦の人数、平均余命など項目別のデータがあり、余命と一番相関があった項目は看護婦の人数でした。有名病院や国立病院でも小児癌患者さんの余命が短いと分かりました。

 ベッド数、医者数は余命と関係せず、一部大手病院が患者数に比べ看護婦さんが少ないため、臨床医や高価な検査機や技師が力を発揮していないと思いました。従弟の義父はその被害者でした。今は赤字病院が更に増えました。

 新型コロナの患者さんのデータを分析し、色々分かっていると思います。発病レベルに応じ、個々の病院で有効な対策をしていると思いますが、看護婦さんの増員とクラスター対策チームの抜本的な強化が急務です。

 看護婦さんを増やすため、寿退職、定年退職、不満で退職した人を現場に戻す取り組みを病院や県が始めています。でも辞めた理由がありました。今の現場は大変な状況です。多くはまた辞めることになるでしょう。

 前期研修医が禁止を無視し看護婦さんを誘い卒コン。頭が良いのに人の迷惑を省みず、自己の楽しさを優先。医師の一番の要件は人に対する優しさなのに幼稚園の心の教育を忘れ、勝者意識を育みました。悪いのは教育です。

 EU諸国も少子高齢化し財政が厳しく、医療体制がウイルスに追い付かず、ドイツ以外、死亡が急増。身体が悪いと見捨てられる戦争状態と言われています。対応が生ぬるいと日米欧マスゴミが日本政府を揶揄します。

 国を守れない日本国憲法があり、死者が一桁以上多い国に批判されています。マスゴミはその情報を切り出し金を出せとポピュリズムを煽り、批評家は出来損ないの高校生の様に文句を垂れるだけ。国民がますます劣化。

 法医学の天才、石山先生はサリン裁判で病状を調べ、症状に応じて被害者の支援を要望しました。今は88歳。国を憂いていますが、奥様を老々介護し不慣れな家事にてんてこ舞い。培われた知識と経験を弱者に生かせません。

 私たちが入院した時も看護婦さんたちが頼りでした。看護婦さんを観音様の様に尊敬し、仲良くしアドレナリンやドーパミンが出て、早く回復できました。優しい看護婦さんの人数、その権限と給料が今こそ必要なのです。

 今日はここまでにします。

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ならぬ堪忍、するは引きこもり

2020-04-11 03:51:49 | Weblog

 おはようございます。

 肺炎ウイルス騒動が歪んだ産業構造を露わにしました。テルモは電子体温計を中国で生産。中国でニーズが高まり、日本政府がテルモの尻を叩いても中国が輸出停止。儲かる商売に商品を回しても当然です。

 医療用マスク、庶民のマスクも同じか。今更中国に言ってもせんないこと。生産移管した日本が反省です。偉そうに政府の尻を叩いてお金をせびっても時すでに遅し。製造を海外に委ねた儲け主義が間違い。反省すべきは3次産業とメディアやテレビ。

 バブル景気や失業率の低さにかまけ、国産農水産物を食べず、安い海外製食品を食べ、お金を浮かせ、高級商品を買って喜んでいます。ファッション、化粧品、車などいい例です。

 歴史ある資産が豊富なイタリア、フランス、スペインは日本以上に死者が増え、医療が崩壊。第2次産業をアジアに移管し、第3次産業に集中。貴族と庶民がむさぼったからです。日本も後を追っています。

 日本の死者が少ないのは、がめつい医療関係がしっかりしていたから。理由は、医師会が儲け、病院の診療の自己負担率を高くし、病院を残し、ポストを創りました。何でも塞翁が馬です

 医療崩壊が迫っているのに、一部団体のプロレスや格闘技が国や県の要望を聞かず、開催。ストレス解消に仕事が終わったら飲んで帰りたいと言う会社員が、情けない。でもそれも過去の教育のせい。

 メディアは偏った見方をします。国の支援が少ない、店を閉め、収入が減る人に給付金を配れと訴えます。海外のメディアは日本の政策が緩いと批判します。

 でも、日本も捨てたもんではありません。クラスター対策チームを北海道と東北の大学教授が先導。素晴らしい働きです。他の予算を回しこのチームの戦力をすぐ数倍にすべきです。

 100万人が感染し、10万人が死んでこの流行は収まると諦めていた老人は頭にウイルス爆弾が落ちて来ないことを願って家に閉じこもっていました。餓死しても武漢の貧乏人や北朝鮮の庶民と同じだけ。

 所が昨日、自動車工業会が音頭を取り、車の関連団体と共に国内の製造業者を支援する取り組みを始めるとニュースになりました。車関連の第2次産業の会社や従業員を支援するようです。流石、トヨタ。

 トヨタは病院、寮、教育機関、保育所など所有しているはず。豊田市や名古屋市は、余剰の自動車産業の施設を使い、納税者に施設を提供でき、トヨタの褌で相撲をとれます。

 トヨタイズムを他の産業で機能させましょう。1次産業と2次産業が根幹。農業や水産業、鍋釜や電気製品などを海外に生産移管した過去の祟りは頭を使いお祓いしましょう。

 中国からタイ、ベトナムに生産を移管していますが、結局は同じ構図です。たまたま台湾は世界からつまはじき、当面物づくりに協力してくれます。私は命とお金が続く限り国産品を愛用しています。

 国難は耐えるしかできません。そうこの国の憲法が規定しています。憲法を変えないから仕方ない。私は耐えて個人的な鎖国です。ウイルスと言う爆弾に怯えながらですが。南無大師金剛遍照。

 今日はここまでにします。

 

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在宅勤務の難しさ

2020-04-10 04:20:51 | Weblog

 おはようございます。

 電子会議を今するならzoomかも。日立、NEC、富士通が提供するサービスなら安心そうですが、絶対はありません。量子コンピュータや量子暗号ができなければ、機密情報の管理は難問です。早く開発して欲しいものです。

 DoD攻撃に耐えるシステムを構築する課題は技術課題です。技術なら開発できます。でも管理の問題があります。人の問題は大変です。日本人も劣化しました。内部にミスや悪意があり、極めて難問です。

 テレワーク、在宅勤務の要望は妥当ですが、実施の確率は10%以下か。10%の会社で20%の人がテレワークし、週1で出社なら社会全体で2%以下、少なすぎます。企画業務でも半分以上在宅化できると思う私は、業務分担し、半分以上ホウレンソウで済むと思います。事後の会議は不要です。

 始発電車の乗車率が10%以上減ったように見えます。時差出勤、車通勤、自転車通勤が増えたようです。一人暮らしの仕事が生きがいの人もいます。人の移動回数はあまり変わらないと思います。

 社会的距離の維持のためにzoomなどの電子会議が導入されても、アホが多いと電子会議が増え効率は低下します。接客業務、土木建築作業は在宅勤務が不可能、旅館業はコロナ騒動で売り上げが激減し大変です。

 課題のために調査しても、できない理由を正当化します。理由は人によって違います。方針はまとまらず、支援を強請ります。でも国の借金は1000兆円以上、無い袖は振れません。こんな状況で地方の会社が巣ごもりではチャンスがありません。

 成果は個次第です。学校の先生が良い例です。優秀な先生は働き方改革で益々多忙。働かない先生はますます手抜き。その先生は小中の先生と親の教育が間違いでした。仕方ないのです。

 担当者が計画を創り上司に提案し、承認されたらコツコツ推進し報告する教育をして、同時に創造性の教育です。国は子供の教育次第です。組織をどう作るかで国の未来が決まります。

 全員が合理化を考え、同時に新事業を推進するのが和の国の本道です。紙を無くし会議を無くし情報伝達するしか手はありません。首切りや死者を増さないために、業務を合理化します。

 業務は2人が担当する隔日の半日ごとのワークシェアを考えます。情報システムを使った在宅勤務にして、半日、個々に新規事業に挑戦すれば電子会議が生きてきます。

 旅館業は海外に頼り、東京に頼ったことを悔やまず、苦境の今がチャンスと思い、地区で協業提供しなかったことを反省しましょう。暇になった今がチャンスと思えば地方は復活するでしょう。

 窓口業務は専従化や全員化でなく、窓口ロボットでもなく、窓口業務の情報化です。そして地区全体で統合の仮想化サービスを提供します。それならzoomが使えます。

 在宅可能な業務は各社にありますが、遠隔会議の意思決定はすでに指揮系統や組織や経営方針に問題があります。戦略立案できる組織化が先決でしょう。

 今日はここまでにします。

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