徒然にふる里を語る

 一市井の徒として、生まれ育った「ふる里」嬬恋村への思いをつづります。

中日

2021-03-20 07:04:21 | Weblog

 今日は春分の日、というか、私にとっては彼岸の中日です。中日にはお墓参りをする映像が流れるが、この地方ではお墓参りは彼岸明けだ。今年だと23日になる。以前、何故中日ではないのかと長老に尋ねたら、仏さんは彼岸で家に戻っている、言われたが、まあ、古くからの仕来たりで大きな意味はないだろう。

 昨年、休んでいたブログを再開し、facebookと連携させるために、写真を張り付けることにした。新型コロナの問題もあり、近場の野辺や道脇の草花を撮った。流石に霜が降りる季節になると、野辺の花を撮ることは難しく、ブログを書くよりもこちらの方が大変となった。

 2月1日にミャンマーで軍部によるクーデターが起きた。私も海外研修で民主化後5年たったミャンマーを訪れ、その国の将来に希望を持った。加えて、キャベツ生産に従事した技能実習生が帰国できないという話しを聞き、ミャンマーで撮った写真をブログに張り付けることにした。

 結構な枚数を撮ってきたが、その一部を紹介した。ビルマからミャンマー、歴史に翻弄され続けた民衆の生活を知って貰えれば、そんな気持ちだった。情報が少なくなったことが気になるが、逞しく生き抜いて欲しい。中途半端になったが、これでミャンマー編は終了します。

 ふる里も春めき、野辺も少しづつ色づいてきた。今日の写真は昨日撮ったクロッカスです。

 


職場

2021-03-18 15:38:31 | Weblog

 午後、社会福祉協議会の理事会に出席し、先ほど戻った。名前だけの役職に等しいが、新型コロナの感染拡大で、職員は大きなストレスを抱えながら、仕事に従事しているに違いない。

 予定していた事業が実施できないこともあり、収支的には厳しい内容だが、人が財産の職場なので、そこは配慮が必要だ。私に何が出来る訳でもないが、気持ち的には連帯している。

 社会的に弱い立場の人たちを相手にしているので、こういう状況下では特に神経を使わざるを得ない。一日も早く、のびのびと地域福祉の向上に取り組んで欲しいが、それには1年や2年かかるかも知れない。

 振り返れば1年前、最初の緊急事態宣言では1日80人余だったが、誰もが感染者になることを恐れた。今回、非常事態宣言の解除が決まった東京では、昨日400人を超える新規感染者が出た。誰もこの数字に驚かなくなった。

 4月の中旬にはどんな数字が出るだろうか。素人でも容易に想像が付く。

 ミャンマー編 ヤンゴン 宿泊したホテル 給湯が悪かった。 平成26年2月13日撮影

 

 


彼岸

2021-03-17 13:24:13 | Weblog

 珍しく午後にパソコンに向かっている。今、初めて開いた。私の朝は早い。今朝は7時過ぎから共有地の資料を精査した。兎に角、現在と違って千枚通しと紙紐で閉じているので、必要な部分を取り出すにのに苦戦している。

 取り出しても再び閉じるためには千枚通しが必要で、工具箱から似た工具を見つけ出し、穴を開け直した。当時はこれが一般的な書類の綴じ方だったのだろう。私が就職した頃、民間では既にファイルを使っていたが、役所では厚紙と綴り紐などで留めていた気もする。

 予想していた以上に実情の分かる資料も出てきたが、首を傾げるところもあるので、合理的にまとめることが寛容だ。飽きて散歩に出たついでに、委員長宅に寄って打ち合わせをした。あくまで、私は単なる書記に過ぎない。そんな立場でやってきた。

 終戦前後の書類を引っ搔き回し、多くの先達に出会ったが、私の父の書いた領収書を見つけたのには驚いた。父親は私と違い達筆だったので直ぐに分かった。そういえば、今日は彼岸の入りだ。家内が出先から佛花を買ってきた。

 今日の天ぷらはフキノトウだ。先日、知人が初物と言って届けてくれた。

 ミャンマー編 ヤンゴン 車は殆んど日本車 平成26年2月13日撮影

 


黄砂

2021-03-16 08:08:00 | Weblog

 桜の開花の便りが届くが、家の庭から浅間山を眺めると、例年より雪に覆われているようだ。東京では気温が上がっても、嬬恋では予報ほど上がらない。大陸から吹き付ける風のせいだろうか。

 中国では黄砂が北京などを襲っている。最初の海外研修が中国で、当時の北京はスモッグに覆われ、太陽が朱色に見えた。夜、街に出ると車のライトに排気ガスが揺らめき、思わず息を止めたくなった。映像を見てそのことを思い出した。

 経済が急成長する時代には、沈みが必ず生まれるのだが、日本の経済成長期も同様だった。工場がしのぎを削った川崎市などは常にスモッグに煙っていた。当時は、それを誰もが不思議と思わない時代だった。

 戦後の混乱が落着き、働けば生活が豊かになることを知り、誰もが懸命に働いた。集団就職という言葉が流行ったが、中学を終えると田舎から都会に職を得て、多くの若者が懸命に働き、結婚し、子供を育て家を建てた。

 最近、アクティブシニアという言葉を耳にするが、豊かさの中で育った世代だろう。チョッと羨ましい気になる。

 ミャンマー編 ヤンゴンに戒厳令が敷かれたようだ。ヤンゴン中心街 平成26年2月13日撮影

 


奉公

2021-03-15 00:00:00 | Weblog

 終戦前後から区に残っている書類を調べたが、系統的に整理されているのは、昭和30年代に入ってからのようだ。戦前の昭和18年、19年の記録も一部出てきたが、これらは紙質も悪く、めくると破けそうな状態だが、一枚、一枚に当時の社会状況が浮かんでくる。

 残っている書類の多くは、役場から駐在員と称される区長宛ての連絡が主だが、供出や配給関係の通知も目を引いた。本来なら永久保存の契約書類もあり、時間をかけて整理出来れば面白い、と思ったが、区の所有物なので必要なものだけ引っ張り出し、直接関係ないものは書庫に戻すことにした。

 敗戦から数年間の綴りは、やはり食料増産の為の開田や開畑、そして林業の振興関係の書類が多く、私達の探している共有地の信憑性の高い資料も何点か出てきた。構想していたストーリーには十分ではないが、何とかまとめたいと思っている。

 抜き出した資料をもう一度精査し、土地の履歴というような形で整理するのが良いのかなあと思っているが、委員長と相談してみよう。いずれにしても、30年近く関わってきて、最後の奉公だな。

 ミャンマー編 バガンでも犠牲者が出ているようだ。バガンの街 平成26年2月14日撮影


年代

2021-03-14 07:06:22 | Weblog

 2日ほど雑用があって、パソコンから離れた。昔から、並行して物事をこなしていくことが得意でないので、余裕がないとブログも綴れない。一昨日は老人クラブ役員会、昨日は大前地区の共有地の資料調べに時間を費やした。

 共有地については、地区の先輩たちから話を聞き、一部文章化もできているが、その裏付けとなる資料が整理できていない。上の世代から自分たちの世代が引き継いだ課題なので、これを後の人たちに繋いでいかなければ、と最近考えるようになった。

 もう、老人クラブの役員を仰せつかる年になり、やはり、気力、体力、知力にも衰えを感じる。そこで、5人ほどで書庫に保存されている「昭和年代」の書類を運び出し、活性化センターで手分けして、共有地の状況を裏付ける資料を探した。

 私は古い年代に取り掛かったが、昭和19年、20年の資料が一部出てきたのには驚いた。当然、ホッチキスなど無かった時代で、束ねた状態だったが、1枚1枚めくると、当時の大前区の状況が垣間見えて、ある意味感動ものだった。

 共有地に関する貴重な資料も見つかったが、目論見の外れたものもあり、これからどう整理して後世に残していくか思案中だ。

 ミャンマー編 治安部隊の銃撃で死者が多数出ているようだ。ヤンゴン 平成26年2月15日車中から撮影

 


停電

2021-03-11 00:00:00 | Weblog

 10年前の東日本大震災、そして昨年からは新型コロナウイルスの感染拡大で、危機管理が問われるが、前もって備えることは難しい。10年前は震災直後から電力不足が生じた。「計画停電」という言葉を初めて聞いたが、電気が足りない事態など想定もしなかったので、対応に慌ててしまった。

 3月議会最終日は、午後4時に計画電気が始まる予定だった。一期目の任期最後の議会で、4年間をまとめる形で一般質問を構成したが、その中の一つは、西吾妻地区に特別支援学校を設置することの是非について、首長の考えを質したかった。これは私が一期目に取り組んだ課題だった。

 5人の議員が一般質問を通告していて、私は5番目だった。日に日に震災の規模が拡大し、そこに福島第一原発の事故が加わり、非常事態なので、時間が無ければ取り下げても良いと考えていたが、議長の配慮で何とか登壇することが出来た。時計を見ながら議論を進めたが、首長の明確な答弁もあり、停電が始まる前に終了した。

 あれから10年、ハードな面では復興も進んでいるようだが、多くの方が元の生活に戻れない状態が続いている。多くの児童が犠牲となった大川小学校の裁判の記事が新聞に載っていたが、何で、どうして裏山でなかったの、と思う事しかできない。もし当事者だとしたら、この10年、身を千切られる思いで生きてきたに違いない。

 今、私達は新型コロナウイルスの感染拡大にさらされている。これは本当に生産性のない戦いで、凌ぐしかないのだが、日本の科学技術のレベル、位置付けが改めて分かった気がする。如何に新型とはいえ、ワクチンを他国に頼るしか術がない状況とは考えてもいなかった。不明を恥じるばかりだ。

 経済優先で金があれば何でも買える、と考えてきた戦後からのツケだよな。マスクに医療用器具、そして新型コロナワクチン、戦略的に差し止められたら、お手上げだ。食料も同じことだが、外国頼みをもう一度考え直す必要があるのではないだろうか。改めて感じる昨今だ。

 被災地の復興を願い。

 ミャンマー編 アウン・サン・スーチー氏率いるNLDが暫定政府樹立 対立が激化しなければ良いが。ヤンゴンの官庁  平成26年2月13日撮影

 

 


衝撃

2021-03-10 07:44:20 | Weblog

 明日で東日本大震災から10年、未曾有の大災害は私にとっても大きな衝撃でした。地震発生時は3月定例議会中でした。定例会の度に発行した後援会紙から、当時の思いを抜粋しました。

 「東日本大震災により、未曾有の被害に遭われた多くの方々に対し、心よりお見舞い申し上げます。被災死亡者が二万人を超すというような大惨事に直面すると、改めて自然災害の恐ろしさと人間の無力さを感じます。大津波の残した瓦礫の前に茫然と佇む同胞の姿を目にすると、「自然とは」「人間とは」「国家とは」と考え込まざるを得ません。終戦後66年、再びこの国が直面した危機にどう対処するのか、国家・国民の真価が問われています。

 その国家は、政治の混迷が続くうちに経済の劣化が進み、大学を卒業しても4割の若者が職を得られない現状は、戦後をけん引した日本経済の退潮を思い知らされます。しかしながら、それを嘆いても始まりません。我が国は、それこそ未曾有の敗戦を経験し、廃墟の中から立ち上がった歴史があります。戦後、日本人は誰もが身を粉にして働きました。そして、この国家、この嬬恋村を築きました。

 現在、福島原子力発電所の事故での放射性物質の拡散が心配されていますが、日本の総力を結集して抑え込んで欲しいものです。日本人の勤勉さと実直さをもってすれば、大災害の早期克服も不可能ではないと信じています。今、私たちに何ができるかを考えながら、被災地の方々に連帯のエールを送ります。」

 今読み返すと、言葉が躍っただけで、少し空しい気持ちに襲われます。

ミャンマー編 新聞の片隅に載っていました「日本政府 国軍任命の「外相」を認める 市民から非難の声」そうなるだろうと想像は出来ます。 ヤンゴンの街 平成26年2月13日撮影


意味

2021-03-09 07:37:09 | Weblog

 結局、昨日は余り意味のないブログを2つ書いたことになる。まあ、連続の投稿に拘っている訳ではないが、一応、生活のリズムとして、朝一番で、パソコンに向かうようにしている。今日はこれを書く、という確たる意思はなく、その時頭に浮かんだことをブログる、という訳だ。

 今朝は家並みが霧に霞んでいる。これから気温が上がってくるのだろう。4月上旬並みとか言っていたが、こういう現象が現れると、気持ちが落ち着かなくなる。新聞の折り込みにも、野菜苗や肥料の売り出しが入ってくる。嬬恋はまだまだ、と思っても、腰が落ち着かなくなる。

 今年は、その腰の状態を見ながらなので、昨年の7割くらいにしようと思っている。始まれば忘れてしまうので、秋の段階で石灰や堆肥を投入しなかった。昨年、一部休耕する予定の場所に、土づくりもせずにカボチャを植えたが、あまり実が付かなかった。やはり、土を作らないと野菜は出来ない。

 繰り返し同じような野菜を作っているので、収量も質も落ちている。体力も落ちているので、これから段々難しくなるに違いない。いつ止めても良いのだが、孫の顔を思い浮かべると、その決断もつかない。それに畑に出なくなると、時間を潰すのに困ってしまう。

 まあ、そんなことで時期になれば勇んで畑に出るでしょう。

 ミャンマー編 ヤンゴンの街角 東南アジアのどこにでもある風景だった 平成26年2月13日撮影

 


不安

2021-03-08 15:44:00 | Weblog

 昨日、今日投稿する予定でブログの原稿を書いた。朝、修正してブログを投稿し、facebookにシェアしようとしたが、ブログに貼った写真が移動しない。空白となってしまった。今までも、貼り付けられない写真があったが、編集し直してシェアすることが出来た。

 写真を変えてみたが、シェアの段階で昨日の原稿が出てきて、思い通りにならない。結局、試行錯誤で投稿を昨日の時間に戻したら、facebookにリンクすることが出来た。原因は分からないが、投稿が7日となった。今までは、前日の原稿でも、現在時間で投稿が終了したが、この現象は初めてだ。

 facebookの勉強は全くしていないので、少し勉強しろ、という警告かも知れない。この年になると新しい知識に臆病になる。挑戦の意欲が衰えてきたことは否めない。それでも生活が成り立つから、世の中は上手くできている、と考えることにしている。

 今、自分がミャンマーの人間だとしたら、どんな行動をとっているだろうか。昔だったら「怒りを込めて」だったろうが、今では日和ってしまう不安もある。大人しくなった自分を感じる。悪いことではないだろうが、後ろ髪を惹かれる思いだ。

 ミャンマー特別編 ヤンゴン シュエダゴン・パゴタ塔