徒然にふる里を語る

 一市井の徒として、生まれ育った「ふる里」嬬恋村への思いをつづります。

残業

2020-01-31 14:14:10 | Weblog

 昨日の続きになるが、当時、日本経済の高度成長が始まり、就職はそれなりに困らなかったような気がする。私などは、卒業式の前から出社して欲しいと言われ、3月1日から出勤し、タイガーの計算機と英文タイプライターを預けられた。

 当時、会社がソウルの韓国政府総合庁舎の建設に携わっていて、建設資材の輸出業務の手伝いをさせられ、そのまま貿易部門に残った。どこでもそうだが、仕事は忙しく9時、10時の残業は当たり前だったが、仕事が厳しいと思ったことは無かった。夢を忘れ仕事にのめり込み、その結果、学生時代から付き合っていた人を失ってしまった、という思いはあるが。

 赴任した沖縄は、本土復帰を控えて建設の槌音高く、活気に溢れていた。そんな中で、建築資材からテニスのラケットまで、売り歩いた。上司と共に国場組、大城組など沖縄を代表するゼネコンにも営業をかけた。気苦労もあったが、今になれば人生で一番溌溂としていた時期だったかも知れない。

 昨日、昼食は1ドルのサーロインステーキと書いたが、当時、ドル対円相場は1ドル360円の固定相場制から変動制に移行した直後で、300円チョッとだったような気がする。アメリカ統治下で肉類は安かったが、野菜や果物は品質が悪く、これは馴染めなかった。

 取りあえず今日はここまで。

 


深刻

2020-01-30 11:27:22 | Weblog

 29日に武漢市からチャーター便で帰国した内の3人が新型コロナウイルスに感染していると報じられたが、ニュースを聞くたびに気持ちが重くなる。非常に深刻な問題になっている、と思うのだが、我々には何もすることができない。

 武漢市は想像を絶する状況なのだろう。第2便が到着したようだが、希望するすべての日本人が1時間でも早く帰国できることを願うばかりだ。今は殆ど「企業戦士」という言葉を聞かないが、経済活動の一線で頑張っている方もいるに違いない。

 私の若かった時代は、この「企業戦士」という言葉がもてはやされ、私も就職して2年目には、本土復帰を目前にした沖縄に駐在で出た。復帰を前に経済活動が盛んになっている沖縄で、業績を伸ばすことが使命だった。

 ルート取引以外に新しい顧客を求めて、現地の職員と一緒に島中営業に歩いた。宿は那覇港に面したホテルで、そこで朝食だけとって、後は外食をしていた。昼は1ドルのサーロインステーキが定番で、結構、贅沢な生活をしていたが、仕事漬けであったことは間違いない。

 若い頃を思い出した。

 


栽培

2020-01-29 10:46:17 | Weblog

 山ウドのハウスの様子を見てきた。丁度、今日から出荷を始めるということで、収穫作業が始まっていた。もみ殻を掃除機で吸いあげ、切り取るウドを選別する作業中だった。暖冬なので、本格的に出荷が始まっている、と思っていたのだが、逆に、例年より遅れ気味のようだ。

 以前は冬の副業として、山うどの栽培農家は何軒もあったが、今では一軒だけになった。この農家とは現役時代からの付き合いで、農業に対する取り組みを尊敬している。バブルの頃、農家もスキー関連の事業やアルバイト先としてスキー場に出たが、知人は山ウドの栽培でもそのくらいの収入になるから、と私に言ったが、この言葉に農家の誇りを感じたものだ。

 ハウスの周りに殆ど雪がない。珍しい光景だ。

 

 


検査

2020-01-28 15:17:15 | Weblog

 6時に家を出た。除雪する時間がなく、車の雪だけ落として出発した。新聞配達のトラックの跡が消えかかっていたので、明け方に積もり出したのだろう。夜半に覗いた時は、それほどの積雪は無かった。

 日陰街道を走ったのだが、渋川の手前で渋滞が始まり、側道を通る予定を変更して17号に出た。これは正解で17号は通勤の混雑もなく、スムーズに流れた。それでも病院まで2時間30分近くかかってしまった。

 今日は流石に病院も空いていて、採血後1時間ちょっとで、結果を聞くことができた。総コレストロールが若干高いが、これは毎回のことで、大きな変化はない。最後の胃カメラとCT検査の日時を決めて貰った。粋なドクターで5月19日、5年前の手術日に予定を入れてくれた。これがまた次の日は私の誕生日なのだ。無事検査が終わればお祝いだな。やるぞ。

 前橋は雨だった。

 


返事

2020-01-27 14:49:51 | Weblog

 孫が2カ月検診を終えて戻ったので、娘にどうだった聞いた。どうだったって、という返事だ。泣かなかったかとか、順調に育っているか、という意味で言ったのだが、そこは爺さんのおせっかいかも知れない。

 今日の検診は、昨年の11月生まれが対象で、9人いたそうだ。9という数字はかなり大きい。毎月このくらい生まれれば、人口減少はくい止められる筈だが、そうはいかないのが、現状だ。それぞれ、元気に成長して欲しい。

 明日は前橋で定期検査だ。この5月には術後5年になり、執行猶予期間が終わると思う。もう5年か、やっと5年か、複雑な思いもあるが、6カ月に2回胃にカメラを入れての発見で、これは正解だった。

 朝の雪が心配だが。

 


歳月

2020-01-26 14:53:21 | Weblog

 昨年の台風19号では、嬬恋村も鹿沢や田代地区を中心に大きな被害を受けたが、想像もできなかった大規模災害で、大きな衝撃だった。自分の中でも、自然災害はいつどこで何が起きるか分からない、という思いを強くしたが、以降、家の北東側のカラマツが気になりだした。

 60年近い年輪を刻んでいるようで、猛々しい雰囲気もあるが、これが風水害で倒れ込んだ時には、我が家は半壊するかも知れない。19号は風が無かったので、そこは助かったが、できる備えはしなければと思い、伐採できるか知人に見てもらう事にした。

 10年前に移った時は気にもならなかったが、10年経って様相が大きく変わった。もう10年かと思うが、木々の成長を見れば、10年の歳月の重さを改めて感じざるを得ない。後、何年ここで生活できるか、という思いもあるが。


自分

2020-01-25 13:50:23 | Weblog

 区が共有地として管理している土地の名簿を整理をしている。最後の詰めで苦しんでいるが、書記としての仕事はもう一息だ。最初から系統だって進めれば、そんなに時間はかからなかっただろうが、気が向いた時につつき出す、ということで、大分経過してしまった。

 やはり、若い頃にくらべると、物事を処理するという能力が確実に劣化している。自分でもイライラするのだが、これは受け入れるしかない。分かっていて、それを素直に受け入れられないところが、自分の性格だ。

 自分がどうしてもやらなければならないことでもないし、時間も充分あるのだから、ストレスを感じない程度にしたら、と家内からは言われる。まあ、もっともな話だ。取り敢えずは、できるだけまとめて報告書を作る。

 


暗闇

2020-01-24 09:11:00 | Weblog

 午後から上田市に出た。2件ほど用事を済ませると、6時近くなり、陽が延びたと言っても、鳥居峠は暗闇であった。古永井から迂回ルートを走り、指定された道路を戻ればよかったのだが、かって知ったる我が道で、大平から近道にそれた。

 行きにもこのルートを使い、何の不安も感じなかったのだが、暗闇の中を通行すると全く別の道を走っているような気がして、徐々に不安になった。周囲の風景が見えないので道路幅が狭く感じる。加えてひどく距離が長いような気がして、農業用倉庫の横に車を止めて、頭の中の路線図を復習することになった。

 ようやく登城の手前で対向車の明かりを見つけ、ホッと一安心。街燈のない道路がどういうものか、改めて認識した。次は決められた道を走ろう。


長老

2020-01-23 08:45:13 | Weblog

 昨日、前日の続きで地区の長老を訪ねた。若い頃から地域の指導者として取り組んできた人なので、私達の世代が知らないことが解かるかも知れない、と考えた。結局、3時間近く話し込んで、何点か私が知らなかったことを教えて貰った。

 私も東京に出て10年近く嬬恋を離れていたので、記憶が飛んでいる部分もあり、それが繋がったところがある。協力するから何とか方針を出してくれと言われたが、人と話をすることにより、自分の考えがまとまってくる。

 2カ月が経ち、孫もズシリと重くなった。

 

 


対応

2020-01-21 11:48:39 | Weblog

  調べておきたいことがことがあり、朝一番で役場の担当課に電話したら、時間がとれるということで、早速伺った。立場が違っても、丁寧に対応してもらい、感謝だ。資料だけでは分からなかったことが、説明を聞いて伏線が大分取れた。

 地区の課題として、先達から引き継がれたものだが、過去の作業にミスがあったのではと想定できるのだが、それを戻すことは不可能に近い。そこでどうするか、手段方法は限られるのだが、その選択は非常に難しい。

 時には、何で自分が労力を費やさなければならないのか、と考えることもあるが、誰かがやらなければ前に進めない。そう思い直す。

 昨日とは一転、気温が下がり雪が舞っている。