昨日の続きになるが、当時、日本経済の高度成長が始まり、就職はそれなりに困らなかったような気がする。私などは、卒業式の前から出社して欲しいと言われ、3月1日から出勤し、タイガーの計算機と英文タイプライターを預けられた。
当時、会社がソウルの韓国政府総合庁舎の建設に携わっていて、建設資材の輸出業務の手伝いをさせられ、そのまま貿易部門に残った。どこでもそうだが、仕事は忙しく9時、10時の残業は当たり前だったが、仕事が厳しいと思ったことは無かった。夢を忘れ仕事にのめり込み、その結果、学生時代から付き合っていた人を失ってしまった、という思いはあるが。
赴任した沖縄は、本土復帰を控えて建設の槌音高く、活気に溢れていた。そんな中で、建築資材からテニスのラケットまで、売り歩いた。上司と共に国場組、大城組など沖縄を代表するゼネコンにも営業をかけた。気苦労もあったが、今になれば人生で一番溌溂としていた時期だったかも知れない。
昨日、昼食は1ドルのサーロインステーキと書いたが、当時、ドル対円相場は1ドル360円の固定相場制から変動制に移行した直後で、300円チョッとだったような気がする。アメリカ統治下で肉類は安かったが、野菜や果物は品質が悪く、これは馴染めなかった。
取りあえず今日はここまで。