昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

さて、これは

2010-03-21 | 旅の風物
そうなんです。何の変わった事もないワカメです。水炊きの鍋で、しゃぶしゃぶとしたビッホーとアフターです。一気に変色して鮮やかな緑色になりました。
当たり前ですが、これってワカメですが、ここ和歌山では、ヒトハメと言います。ヒトハメ料理などと言います。メはワカメのメです。一葉若布です。
大きさ30センチほどの幅のワカメが料理に出てきます。ヒトハメは初めて聞きました。

今に残る文化遺産(平城遷都1300年12)

2010-03-20 | 歴史・文化遺産
奈良市役所の玄関ロビーには国宝の代表的なものの、写真パネルが展示してありました。遷都1300年祭のシリーズの最後に、その一部をアップします。


東大寺・慮舎那仏(るしゃなぶつ)




興福寺・阿修羅(あしゅら)





薬師寺・東塔





大安寺・楊柳観音 





唐招提寺(とうしょうだいじ)千手観音




元興寺(がんごうじ)・最古の寺


平城京の成立(平城遷都1300年11)

2010-03-19 | 歴史・文化遺産
奈良市役所の1階ロビーには現在復元が完了し、公開が4/24に予定されている第一次大極殿の設計図とも言うべき模型が展示されています。



左:20万人と言われる平城京の都では、天平文化がシルクロードの影響を表わしながら花開いた。
右:AD710年に開いた平城京は、AD784年長岡京に遷都するまで、中央集権の強さを維持し続けました。



 遷都1300年の言うのは、ご存知藤原京からの遷都でした。真っ直ぐに北の方向と言うのがまた素晴らしいです。

 それから、「山の辺の道」があり、我が国最古の道として話題を呼び、ハイキングコースとしても、バライテイーに富んだ楽しい道としてよく知られています。

 「山の辺の道」は2005.4/25から4/30までと、5/2から5/10まで、2006.1/7にアップしています。よろしければ、お訪ねください。


 ほかに、時代で言うと少し下がりますが、大和政権が、機能的に造った道が3本あります。上(かみ)つ道・中つ道・下(しも)つ道です。大変機能的な直線道路で、ナチスが作ったアウトバーンのような物かと。

 壬申の乱などの時は、これらの道に沿って戦いがあったと日本書紀にも記されています。

 余談ですが、大和川(現存)の上流の初瀬川(長谷寺の方から出てくる川)で、三輪山の辺りまで、大阪湾から船が通っていたそうです。そこに「仏教伝来の地」の碑が建っています。ここから藤原京までは馬で進んだと言います。





 俯瞰図のジオラマです。左に興福寺と元興寺が並び、猿沢の池も見えます。右には東大寺(大仏殿)があります。東大寺で並び立つ塔は七重の塔です。
 真っ直ぐな道が、山に懸かりカーブしている辺りが「奈良坂」です。




平城京の東の端あたりを示すパネルですが、地名はローマ字表記されています。

   blogにアップするなら、もっとまじめに写真を撮っておくのだった。ついつい興味を引かれるままのスナップばかりです。

天平の信仰(平城遷都1300年10)

2010-03-18 | 歴史・文化遺産
 古代の人たちは、この世の中では、すべてが神の意思によって動いていると思い、上手くいっても神のおかげであるし、うまく行かなかった時も、神の怒りと思いました。勿論、地震も雷も山火事さえも神のなせることでした。

 シャーマンとして権力を握ったという卑弥呼という人もいますが、この時代は遥かなことになり、豊かな収穫をもたらす国つ神の世界に、中国の文化とともに入ってきた仏教が全盛だったことでしょう。


しかし、素朴な信仰としての神様を敬って、祟りや恨み、さらには穢れを払おうとしました。

人形(ひとがた)を水に流して、厄を払うと言うのは、今に続いています。記憶に残っているのは出羽三山の湯殿山でしたね。


厄払いには、祓い、禊ぎなどの言葉が絡みますね。




食あたりは勿論、口から入る災いを、守り神として、顔を書いたのでしょう。






木札に書いた、顔は、神の具現化した象徴ですね。







左:人形が立体になります。自分の身代わりとして、厄払いをしたか、自分を護るマスコットかもしれませんね。偶像に身代わりになってもらいます。
右:神事の儀式で使う魂の宿る鏡ですね。昔、鏡は女の命と言って一心に磨く人がいましたよ。卑弥呼の末裔かも。






刀剣・鳥・身を清めるはたらきをした物とか、右の縦長の板は、大きな人形です。





左:馬の土偶ですね。馬は貴重な宝物であったことでしょう。
右:人型には、その人の霊魂が宿っていたりして…。




遂に出ました「呪いの人形」。
あやつり人形は腕が取れていますね。ひげを生やし烏帽子を被り、役人ですかね。


天平の甍(平城遷都1300年9)

2010-03-17 | 歴史・文化遺産
「天平の甍」という映画がありました。鑑真和上を中国から、大和に招くために派遣された若い僧侶の物語でしたね。


この写真は、まさに発掘された天平の甍です。第二次大極殿の屋根を復原したものです。




これは、第一次大極殿の縮小復元です。この大極殿が遷都1300年祭で、実物大で復元されました。

配置図では草色に塗られている部分です。広大な面積を持つ広場が、塀に囲まれています。


 余談ですが、この広場はサバンナのような草地に潅木が混ざる地面が広がっており、現在はバードウオチングのいいポイントになっています。休みの日にはカメラの砲列ができます。



さて天平人の服装について、その一端を見ることが出来ます。


位階の多さもですが、こんなにあると覚え切れませんね。




調という納税(平城遷都1300年8)

2010-03-16 | 歴史・文化遺産
平城京は、当時の文化の中心であり、大都市であった。右京と左京にはそれぞれ国営の市(270m四方の広さ)が立ち、米、野菜、地方の産物などの売買もあったという。

物資の移動は、川を引き入れ、活用したという。




 律令制度がそのまま続き、租・庸・調で表現される税金は、役人7000人の生活も支え、国の実施する政策に使用されていた。

 飛鳥時代の各豪族は、独立国家のような形であったが、それを、一気に国家統制下に置き、田畑からの産物は、国から借りた土地の賃料としての税金を国家に納めていました。

絵は地方から調である特産物の税金を運搬している図です。何が納められていたのでしょうか。





それぞれの荷物には、荷札の木簡がついていました。




出土した木簡の一部です。どこから・何を納入したかの手がかりになります。見難いですが、振り仮名が振ってあります。いろいろありますね。






全国からの搬入物が、纏められていました。まだ木簡で見つかっていないか、大和政権の力が届いていないか、地図に表記のないところもあります。

アワビもありますね。


これで見ますと、畿内でも摂津・和泉・淡路・山城・伊賀などでも記載がありません。今回の遷都1300年を期して、さらに発掘が進み、書き加えられるかもしれませんね。

平城京邸宅図(平城遷都1300年7)

2010-03-15 | 歴史・文化遺産

数多くの木簡の発見によって、かなり当時の平城京がわかってきました。これからも過去の文化遺産は、新発見がある度に変更されながら、進んでいくことでしょう。

このジオラマは、奈良の市役所に展示されているもので、今後、さらに変更するものがあるかもしれません。


当時の役所で生計を立てる人は7000人を数えたと言います。



 律令制度は、個人の土地所有を禁じていた。すべては国家のものでした。そして、自分の邸宅は決められたところに住みました。

木簡や出土品から誰の屋敷かが判明してきました。木札に氏名が書いてあり、木札の色で住んだ人の役所の中での位階が判ります。


三位以上の位の人は紫色の服を着ます。三位未満の人は赤の服です。従五位未満の官吏の服。そして一般の役人の服などは青です。






住居の名前のある木札も、位階の色に合せてあります。




人々の生活。これも役所直属の工場ですね。



位階による住み分けでも、長屋王のように、それが一等地だったとしても、屋敷を囲まれ、非業の死を迎えた人もいました。最も小さい役人の家でも400㎡ですね。


平城宮跡出土品1(平城遷都1300年6)

2010-03-14 | 歴史・文化遺産
 遷都1300年だからと言うのではないですが、文化財として大切にされ始めた江戸時代末以来、発掘調査の成果の主なものが展示されています。
 今年の1300年祭で、リニューアルされる資料館などでも、主役になることでしょう。


この盾の模様は珍しい。九州の薩摩隼人の使っていた盾でしょう。
 平城京で出土したと言うことは、九州地方の部族も、大和朝廷の国家体制に入っていたと言うことになりますね。




この広大な平城宮跡からは、律令制度に基づいた、役所官庁の名前がついた土器が出ています。
 



左から「勅旨省」「縫物所」「蔵人所」の字が、この土器を使っていた役所の名前でしょうか。





宴会の席ですね。




土塀の蔭とは言え、何と開放的なトイレでしょうか。流れる溝に一人が坐っていますね。塀の外は道路です。

当時の人たちの食生活まで分かるかも。



紙は大変貴重なものでした。大量のヘラが出土としたと言います。



東院庭園(平城遷都1300年5)

2010-03-13 | 歴史・文化遺産

長屋王邸宅跡から北の方向に、法華寺がある。光明皇后が全国に一国一寺に建てさせた国分尼寺の第一号です。

 その西隣に、最近発掘されて、復元された東院庭園がある。この付近一帯は光明皇后の別荘でなかったかと言われています。勿論ここからも多数の木簡が発見されています。

中庭の池で舟遊びでもしたことでしょう。飛鳥でも見られますが、寝殿造りのルーツかもしれませんね。

赤い橋が二箇所にあります。






左:左が第一次大極殿跡・右が第二次大極殿跡、東院庭園は右下の黄色の四角がそうです。
右:庭園の池の中の石の島です。







池の岸辺は、州浜形になっており、護岸壁(笑)ではありませんねえ。




展望塔のような、鳳凰が乗る屋根がついている。




倉庫か・食堂か、長屋であったか、くすんだ赤の柱が癒し系でしょうか。




塀越しには若草山が望まれます。法華寺まで300mです。(法華寺は2008.11/19-20,2010.2/16にアップしています)




少し古い絵葉書で俯瞰写真がありました。