奈良市役所の1階ロビーには現在復元が完了し、公開が4/24に予定されている第一次大極殿の設計図とも言うべき模型が展示されています。
左:20万人と言われる平城京の都では、天平文化がシルクロードの影響を表わしながら花開いた。
右:AD710年に開いた平城京は、AD784年長岡京に遷都するまで、中央集権の強さを維持し続けました。
遷都1300年の言うのは、ご存知藤原京からの遷都でした。真っ直ぐに北の方向と言うのがまた素晴らしいです。
それから、「山の辺の道」があり、我が国最古の道として話題を呼び、ハイキングコースとしても、バライテイーに富んだ楽しい道としてよく知られています。
「山の辺の道」は2005.4/25から4/30までと、5/2から5/10まで、2006.1/7にアップしています。よろしければ、お訪ねください。
ほかに、時代で言うと少し下がりますが、大和政権が、機能的に造った道が3本あります。上(かみ)つ道・中つ道・下(しも)つ道です。大変機能的な直線道路で、ナチスが作ったアウトバーンのような物かと。
壬申の乱などの時は、これらの道に沿って戦いがあったと日本書紀にも記されています。
余談ですが、大和川(現存)の上流の初瀬川(長谷寺の方から出てくる川)で、三輪山の辺りまで、大阪湾から船が通っていたそうです。そこに「仏教伝来の地」の碑が建っています。ここから藤原京までは馬で進んだと言います。
俯瞰図のジオラマです。左に興福寺と元興寺が並び、猿沢の池も見えます。右には東大寺(大仏殿)があります。東大寺で並び立つ塔は七重の塔です。
真っ直ぐな道が、山に懸かりカーブしている辺りが「奈良坂」です。
平城京の東の端あたりを示すパネルですが、地名はローマ字表記されています。
blogにアップするなら、もっとまじめに写真を撮っておくのだった。ついつい興味を引かれるままのスナップばかりです。
左:20万人と言われる平城京の都では、天平文化がシルクロードの影響を表わしながら花開いた。
右:AD710年に開いた平城京は、AD784年長岡京に遷都するまで、中央集権の強さを維持し続けました。
遷都1300年の言うのは、ご存知藤原京からの遷都でした。真っ直ぐに北の方向と言うのがまた素晴らしいです。
それから、「山の辺の道」があり、我が国最古の道として話題を呼び、ハイキングコースとしても、バライテイーに富んだ楽しい道としてよく知られています。
「山の辺の道」は2005.4/25から4/30までと、5/2から5/10まで、2006.1/7にアップしています。よろしければ、お訪ねください。
ほかに、時代で言うと少し下がりますが、大和政権が、機能的に造った道が3本あります。上(かみ)つ道・中つ道・下(しも)つ道です。大変機能的な直線道路で、ナチスが作ったアウトバーンのような物かと。
壬申の乱などの時は、これらの道に沿って戦いがあったと日本書紀にも記されています。
余談ですが、大和川(現存)の上流の初瀬川(長谷寺の方から出てくる川)で、三輪山の辺りまで、大阪湾から船が通っていたそうです。そこに「仏教伝来の地」の碑が建っています。ここから藤原京までは馬で進んだと言います。
俯瞰図のジオラマです。左に興福寺と元興寺が並び、猿沢の池も見えます。右には東大寺(大仏殿)があります。東大寺で並び立つ塔は七重の塔です。
真っ直ぐな道が、山に懸かりカーブしている辺りが「奈良坂」です。
平城京の東の端あたりを示すパネルですが、地名はローマ字表記されています。
blogにアップするなら、もっとまじめに写真を撮っておくのだった。ついつい興味を引かれるままのスナップばかりです。
最初実写かと思いました
まさに古代の文明開化といった感じがあります。
隋・唐から新しい文化を積極移入し、新しい
国造りをしていた若い国の姿を想像しています。
遷都は国家的事業。壮大な事業だったでしょう
ねぇ。
現代のハイテク生活を取り入れながら、当時の生活様式が出来るとしたら、エコ生活でしょうね。
中国からの新しい文明が、遣唐使船からもたらされ、明治維新のようなと言われていますね。
まだまだ未知の部分がこれから発見されていくでしょうね。
学校の頃は理解するより、暗記が多かったですからね。
現代のブラジリアを
連想します。
時代がちがいますから
その意味もかなりちがうのでしょうが・・。
まるで、推理小説を読んでいるような気分で楽しんでいます。
奈良盆地で平城京のあった場所にも、先人の暮らした痕跡が多く残っているのですよ。
ただ何故に、遷都しなければならなかったか、そこが、またロマンですよ。