昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

長屋王宮跡調査(平城遷都1300年4)

2010-03-12 | 歴史・文化遺産
平城京の航空写真が続きますが、同じようなものばかりになりました。

地図をアップしていると、ここはどこで、あそこはここでとかつい眼が探しています。

見晴台に上がった時にも、自分の家はどこにあるか、と探したりしてしまいます。


 遷都1300年祭で、多くの場所がリニューアルされます。

プロットした中で、昨年と変わらないところは、朱雀門と二つのお寺だけですよ。残りはすべて現在工事中です。

法華寺は、ご存知、光明皇后の建てた国分尼寺で、第一番です。



写真で見ても、かなり広い邸宅であることが判ります。コンクリートで埋められて、もう遺跡復元も出来なくなりました。


調査に基づいて、模型が展示されています。大極殿にも匹敵するかと思うほどの、広大な屋敷です。天皇位に就くことが期待されていた長屋王でした。(資料館)



上の模型を、横から(北から)見たものです。これは大極殿の方向に開いていました。





この邸宅の東の溝から延べ35000点もの木簡が出てきました。




それらを代表する「長屋王」の名のある木簡です。あわびの干物を糸で繋いだものを10本贈られたものです。両端のくぼみは、縄を通してくくりつけていたのでしょう。




木簡が役所の中で使われています。当時の役人は、車馬を使えない者は遠くの自宅から夜の明けぬうちに家を出て、徒歩で出勤したといいます。



悲劇の長屋王の生涯です。彼が中国に袈裟を千着と直筆の経文を送ったことに応えて鑑真和上が来朝したとも言われています。

 当「昆布ブログ」で、過去によく似たテーマをアップしています。よければご覧ください。
 2008.11/24, と 2010.1/11, です。

木簡出土(平城京遷都1300年3)

2010-03-11 | 歴史・文化遺産
  翌年には平成が始まる昭和63年(1988)長屋王の邸宅かも、という遺跡から、長屋王と言う字が書かれた木簡が発見された。

 激動の飛鳥時代にヤマトの国を一つに纏めた天武天皇の嫡孫であった長屋王は、文武ともに優れ、誰の眼から見ても、天皇位を次ぐものと認められていた時代でした。

 しかし、長屋王に反対する勢力であった藤原氏の陰謀で、讒言にあい、屋敷を囲まれて長屋王は自殺をしてしまいます。悲劇の皇子でした。

 かくて藤原氏は、藤原鎌足の孫娘光明子を、聖武天皇の后にすることで、藤原氏は明治まで続く権力の座に着いたのでした。



発見された木簡は、3万5千点に及びます。地下の正倉院といわれる由縁です。

さらに北隣で藤原麻呂の屋敷跡、光明皇后の屋敷などでも木簡が発見されている。
 



 見えている更地は全部が長屋王の邸宅跡です。この遺跡全体にデパートを建てた人がいます。今はショッピングビルが建っています。
写真右上の辺りが大極殿で、朱雀大路が斜め左下に向って伸びています。近鉄奈良線も走っています。





さて、木簡ですが、これが決め手となった札です。アワビを長屋王に進上した荷物についていた札です。
 木簡は、溝の中に捨てられたように多数が落ちており、水中であったために現在まで保存されたと考えらていれます。
 


左:多数の全国からの進上物を見てもわかるように、人望の篤い彼だったことがわかります。
右:ところがこの木簡が発見されるまでの彼の評価は、昔の古文書によるものでした。それには仏を傷つけた報いで死んだ、という書物もありました。しかし、中国から鑑真和上が、我が国に渡って来るきっかけを作った熱心な仏教信仰を持った人であったとも言われています。
 

平城京遷都1300年(2)

2010-03-10 | 歴史・文化遺産
平城京の北半分が、写真の上に青のラインを引くことで、条里制が良く分かる構造になっている。

 この都の都市計画は、東西5.8km、南北4.8kmの中に成立している。外国の使節団の来訪の時、歓迎の儀式が行われた時には遜色ない立派なものだったと言います。


 大極殿から南に下がる朱雀大路は、幅70m、南北3.8kmと大きいが、それ以外の条理の道路は今では消えかけそうな道路もある。車が一方通行になるほどの道幅になってしまっている所もあります。

 これが京都と違う鄙びた奈良の都だと言えるでしょう。


 赤色の枠が大極殿の敷地であって、そこにあった田畑や民家をすべて買収して、世界遺産として保存しています。

上から4番目の東西の道路が一条通です。 東大寺に突き当たる二条通りが大阪からの第二阪奈道路の延長です。





あおによし 奈良の京(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今さかりなり (三-328)





平城京が、取り壊されていきます。





現代、平城京跡の遺構を発掘調査をしています。そこには無数の当時のデータが土に埋まっていました。人呼んで、地下の正倉院です。




宮殿の概要も、正確な測量によって記録され、朱雀門に続いて、今年大極殿が復元再建されました。





貨幣も出てきました。昔は「ワドーカイホー」とか言っていませんでしたか。今は「ワドーカイチン」です。




よく似た名前の貨幣があります。上手く一覧表にまとめてありました。




和銅開珎一枚が、今の500円くらいだったそうな。



後の世の小判と同じような道ですね。良貨は悪貨を駆逐する・悪貨は良貨を駆逐する。どっちでしたかね。



平城京遷都1300年(1)

2010-03-09 | 歴史・文化遺産
 今年の奈良は、平城遷都1300年祭というテーマの下に、数々のイベントや、企画を持っています。何年か前のシルクロード博は盛り上がりが今ひとつであったが、今年は賑やかになりそうです。

 これを機に、多くの文化財が修復されるなど、特別拝観期間以外でも、古刹などでも公開されるようです。

 期間は平成22年1月1日から12月31日までだと言います。この教条主義のような期間は面白いですよ。飛鳥藤原京から遷都した日付が判然としないのかも知れませんね。それもまたロマンで面白いですが。

 平城宮跡資料館は現在工事中で改装しているのですが、その前年に訪ねた写真から少しだけアップしてみます。文化財研究所は少し離れたところにあります。




 遷都は天皇の意思で行われますが、天皇が動けば、政治も役所も、都人たちも移動します。さらに彼ら役人の住居までも天皇が造っていたと言います。




 奈良時代、特に聖武天皇は平城京ー恭仁京ー難波京ー紫香楽宮ー平城京と遷都し、遂には平城京で大仏を発願して、天変地異や疫病の世の中の安定を求めます。

 「彼は世の中がうまく行かないのは、天皇である自分が悪い」と常々思っていたそうです。彼は仏教に救いを求めました。



左:京都。  右:滋賀県信楽町(現甲賀市)。




左:京都府長岡京市。        右:京都府相楽郡加茂。




左:大阪市。            右:奈良県橿原市。大和三山の一つ耳成山が見えますね。 




平城京遷都は大変だったようです。 それでも、聖武天皇はしばしば遷都を行いました。当初、大仏造立も信楽で計画されていた。




都の建設の材木などでも、近畿一円は勿論、全国から何ヶ月もかかって運んできたと言います。


雨の明石海峡大橋

2010-03-08 | 旅の風物
雨の降るという日に、また、明石海峡大橋に出かけてきました。

何の変わった事もないというのに、どこか面白いと思ったのですが…。




雲こそかかっていませんが、霞に煙る明石大橋。



橋の裏を眺めるポイントです。撮ろうとすると船がいない。大きな船の往来も多いと言うのに…。




 海上プロムナードと言って、橋脚の中に逍遥路が出来ている。高さ40数mの空中廻廊が、150m、海へ突き出しています。

 そこから海面を見て、足の竦む思いを我慢しながら、舞子公園を俯瞰します。移情閣の8角三階の建物が見える。芝生の地下は駐車場になっています。




海面から47mで、床が透明な部分が用意されています。中央は丸木橋が渡してあります。
ここを通るのは今回で2度目だと言うのに、やっぱり透明のアクリル板の上は歩くことが出来ませんでした。
 波立つ海面を見なければいいのですが、そして、理屈で割り切ればいいのですが、理にはたらけば角が立つとか…、昔ならスイスイ歩いただろうに。









橋を支える鉄骨が力学的に組んであるのでしょうが、まとまり具合と圧倒的なボリューウムには感動しますね。これは立派な芸術です。










この橋の別名をパールブリッジと言いますが、夜間の照明は、色の変化があり、若者のデイトスポットになっています。3911mの光のネックレスといわれる。



路傍の風景(舞子)

2010-03-07 | 話題
車でなくて、電車に乗って訪れた垂水・舞子方面でした。

駅から五色塚古墳までの散策中に、なんとなく撮った写真です。

左:前方後円墳の周りにいたハマヒバリと見ましたが、どうでしょうか。ツグミであると聞きました。
右:住宅街の路地で見つけた八重椿。 






こちらの民家の垣根で見つけた五色椿は斑入りの葉を持っている。。となりの五色塚にあやかって庭に植えたとすると、奥ゆかしさが感じられる。




さて、これは何の木でしょうか。この花の付き方や、葉は特徴的ですが、外来種でしょうね。





これはモズでしょうか。シロハラでしょうか。冬の姿の羽根の色と思いますが…。これこそがジョウビタキ♀と聞きました。




路地の芝生の土手に咲いていたスノーフレーク。緑の斑点が楽しい。


五色塚古墳(下)

2010-03-06 | 歴史・文化遺産
 資料室にあった航空写真です。
 右端の橋脚部分の左で、砂地の角に建っているのが移情閣です。そのやや右下のビルが「舞子ビラ」ホテルです。

中央下に五色塚古墳が見えます。






CGで当時の様子を復元した写真です。周囲は草原や森が茂っています。








ここまで完全に復元されている前方後円墳はあまり見ませんね。





後円墳の頂上は円形の平地になっていて、周囲に円筒埴輪が巡らせている。遠景の山は須磨連峰です。山の向こうに一の谷がある。








「ヒレツキ円筒埴輪」「ヒレツキ朝顔形埴輪」









古墳の中央付近で見つかったと言う円筒埴輪形棺が見つかりました。となりに小壷古墳があります。







古墳に張り付く栗石は200万個を越すが、すべて他から持ってきたと聞いた。




日本書紀にも記載されている五色塚古墳は、松林の丘であったろうが、木は伐られ放棄された状態だったと言う。復元されて半世紀になるが、風雨にもよく耐えています。

五色塚古墳(上)

2010-03-05 | 歴史・文化遺産
 古代から明石海峡を望む風光明媚な場所に、少し南に出っ張っている海岸線があった。この丘の上に立てば、海峡を通過する船は一望の中に納まる。

 古代の4世紀頃、史実は不明だが、豪族らしき首長を埋葬したと思われる古墳が発見されていた。




前方後円墳の典型的な様式を持っています。発掘され復元されて目前に再生されています。





古墳の西側にある入口には、モニュメントが立っています。なんとも面白い形である






公園部の頂上には、円筒形の筒型埴輪が並んでいます。用途は不明ですが祭祀の時に必要な埴輪だったことでしょう。




五色塚古墳は明石海峡大橋を望む、海岸線の小高い丘の上に出来ています。

(移情閣)孫文記念館

2010-03-04 | 歴史・文化遺産
孫文と言えば、中国の清の時代末期に現れた風雲児、と言うよりも北方民族の支配してきた清国を滅亡させるために働いた英雄でしょうか。

 満族が建てた清国は、西太后にまつわる最期の時代を迎えていました。

清国の弾圧の中、孫文は国外に難を逃れたが、その一つに我が国にいた華僑の実業家で大金持ち呉錦堂の別荘(移情閣)にもやってきました。





清国に対抗して生まれた中華民国の芽生えの政権を南京に立て、彼は初代総統になりました。ブロンズ像は、ここ移情閣(現孫文記念館)にある孫文の胸像です。「孫中山先生像」とある。
 



 日清戦争で、日本に敗れたこともあり、清国ではこのままでは国が滅びると若者は立ち上がったのです。彼らは列強諸外国の侵略を受けつつあるところでした。
 そのとき我が国は、見事明治維新を乗り切り、国の改革を進めていました。孫文ら若者は日本の近代化を学ぼうとしました。

当時の中国の若者は2万人が、日本に留学していたと言います。





孫文ら革命政権は、何度も帝政清国(満族)から弾圧を受けたが立ち上がり、革命運動はやがて、漢族の力を持って中華民国を成立させました。この時すでに孫文はこの世を去っていました。




左:館内の部屋を飾る壁紙は、特別製で金箔の刺繍が施されています。
右:多角形の建物の部屋の天井には龍の彫り物が光る。
 




「天下を公となす」孫文の直筆です。天下は皇帝とか個人のものでなく、すべての者であると言う当時革命運動をしていた彼の思いでしょうか。




入口、玄関前の標識。

中国の英雄として、日本で厚遇されていることが判る。





夕陽に映える移情閣。


舞子公園の夕景

2010-03-03 | 旅の風物
須磨から明石にかけての、白砂青松は、古代から人々に愛され続けてきた名勝の地です。
 海岸線の砂浜が、コンクリートの護岸に変わっている中でも、その景観は保全して行こうと、現代の人の知恵によって、その風情が残っています。

 東は一の谷から、塩屋・垂水・舞子・明石まで、多くの旅人が、歌に歌い、旅情を慰められた地域です。
 古代、防人たちが大宰府から帰還する時、遣唐使が苦難の海路を経て帰国した時など、明石海峡を通過したとき、東に浪速の都や山々、明日香への思いが一気によみがえってきたといいます。

 明石海峡大橋は、全長3911m、淡路へと渡る世界最大の吊橋です。橋間の長さは1991mで世界一です。



橋を固定する土台の固まりは、近くで見ると絶句しそうなくらい巨大な塊りである。




完成一年前に、阪神淡路大震災に見舞われ、設計よりも1m長くなりました。彼方は霞がかかっています。




橋桁の中に展望プロムナードがあって、海上へ向って延長150m突出しています。




夕陽が西に傾きかけてきました。赤い夕陽の西に落ちる姿は不変のようです。






逆光で船が浮かび上がります。芝生の上に輪になった石像の彫刻があった。







巨大なものを、この円の中に閉じ込めます。




八角形の三階を持つ別荘が、明石海峡を望む位置に建っています。